
SK

SK

ナメクジやめたい


ぽん

おふろ
病んだ時踊ったらスッキリしたり、 SNS見て余計に病むのはこういうことなのかもな。老荘思想むずいな〜

まぐまぐ🌷
私が、私であることを感じる
と同時に、何者かよくわからないとも感じる
ただわかっていることは、
ひとりの時間が本当に好きだということと、
この地球での時間を愛しているということだ

くらげ🤡🌚
もうね、人間はさっさと滅びてみんなで宇宙人になろう、ね。

キち○い(現ルンバ)
問題 ピノキオは嘘をつくと鼻が伸びます。では、ピノキオが「今から鼻が伸びます。」と言ったら、ピノキオは鼻が伸びるでしょうか?ピノキオは嘘をつくと鼻が伸びます。でも鼻が伸びたらそれは真実になってしまいます。さぁこの答えを導き出すことが出来るでしょうか。ちなみに僕は、分かりません。

ぬえ
「人生は努力か才能か」というのを例に出すと、
①人生は努力である
②人生は才能である
③人生は努力と才能である
④人生は努力でもなく才能でもない
という4つのレンマができる。
④に到達した時点で、誰が言い出したのか、第3項となる「運」というのが降ってきて、二項対立は調停された。(と言えるのかな)

puspisrow

マロ
絵でも音楽でも
それに対して
千人の共感を得ることと、
一人の共感を得ること
数を見出すことを目的意識とするのか
一人でも共感してくれたら満足か
どっちが幸せかな

ぬえ
という考えが提唱されている。
「精神疾患を持っている人は、他人よりも苦労し、苦痛をより多く味わう可能性が高い。
故に、その苦しみは、幸福な人々に程よく分配されるべきだ。(動物でもいいのだろうか)」
と言い換えることができるかな……。
自分で考えてて気分悪くなってくる。

虚無
その中に、芸術は否定のない絶対的肯定 という話がかいてあります。
「何かである」と書くことはできても、書かないことはできない。書かなければ無であって作品の中には存在しない という内容。
私はこれが気に入ったのですが、ただ、
「書かないことによって書かれているもの」は、存在するのでしょうか?しないのでしょうか?
という疑問がでてきました。
例えば水彩の白、
例えば例えや暗喩で表されているもの。
他にも色々。
想起し比較するのは意味や認識の問題であって
存在の問題ではないとされているのですが、
「無いが在る」を描くのは芸術としてあるのか、ないのか。芸術なのか否か。
と、考えていました。

にこにこにしてやんよ
どう?

puspisrow

puspisrow

マロ

マロ
自分と他人を囲むように白線で引いた輪っかなんて最初は無かった
意思疎通して互いに生きるために無いものを分け与え合う関係を築いていく
いつしか共同体だと目印のために輪っかを白線で引いてお互いを囲んでいることに気付く
この内側にいるなら安全
だって安全だと言うことを知っているから
他の人には教えない
傷つけられたくないから
やがて白線の内側で人数を増やしていくと狭くなってきたから広げようと白線を書き足していく
書き足すためには白線の一部を削り、一度は外へ足を踏み出さないといけない
すると今まで内側しか見ていなかったので、外に誰かいるのに初めて気づいた
なにやらこっちを見ている
もしかしたら白線の内側にいる人によっては仲間に誘うかも、協力し合えばより生活の手助けにもなるかもしれないし
もしかしたら知らない奴とは関わり合いたくない居心地の良い奴だけと仲良ししていたい
だから入ってくるなと言う人もいるかも知れない
。。。
白線の内側が居心地良いのは誰のおかげだろうか

ぬえ
全体と部分を例に出すと、全体は全体のみであるのではなく、部分は部分のみで独立存在しているわけでもない。(相依性)
全体ありきの部分、部分ありきの全体。
でも、この言い方だと全体、部分が独立して存在することになってしまう。
だから、「あるのは相互関係、相互作用だ」としか言いようがない。

SK

もっとみる 

ぬえ
思考とはなにか?
ふと思い出した疑問。
『中動態の世界』國分功一郎
で
「言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の条件であると言えよう。」
という文章があって、こんな疑問がでてきた訳だが……

ぬえ
この論理の穴は……比較対象が既にあるのにも関わらず一元論を提唱している所か。

ぬえ
人間関係なんてどうでもいいと思いつつも、どこかで期待している自分がいる。
表面上は攻撃的にコミュニケーションしているけれども、それは自分が傷つかないように先制攻撃を仕掛けているだけ。
「どうせお前も自分から離れて行くんだろう」とフォスを試してるみたいだったな。
回避性パーソナリティかな?

マロ
ミクロとマクロの中間から、マクロへ進み、再びミクロに再帰する段階を経て、色々なあり方を問う感じだった
自分自身:存在意義と存在証明と他人との境界線
民族、種族:文化と言語と立場による生きる目的の見え方の違い
人類:存在意義と幸福の定義
生命体:有機と無機物の境界線
そして救済には個の犠牲が憑き物
何をもってして幸せと決めるかは人それぞれ

マロ
単に咄嗟の返事の返し方が思いつかず
傷つけることも傷付くことも怖かったから曖昧な嘘をついた
かれたのが発端
かもしれないし嘘では無かったのかもしれない

くろ
怒りの感情はどこからくるのか?
周囲の人を変えるとこはできないから、私が怒りに執着せず、どんどん手放していけばいいのか…?
そうやって怒りを手放すと、相手からは都合のいいやつ、ちょろいやつ、バカだなぁ、って見下される。けど、それすらも手放せばいいのか…?
怒りの感情と相手の評価を手放し、私の心が快適に過ごせることだけを考えればいい、のか…?

マロ
ネガティブに行き当たるということは 今までの人生で得た知見と価値観に反する違和感や疑問を発見できたと捉える
良くないのはその不満を解決するための行動を起こさないでSNSとかに吐露してその日を満足してしまうこと

マロ
疑問を抱いて広告の隣に回り道して向かい側にいた人と会話して互いの意見を交換する世代
さああなたはどっち

ぽん
知恵と慈悲によるものが本当の優しさである
知恵と慈悲は表裏一体
親切にすべき相手を田んぼに例え三福田と呼び
①悲田②恩田③敬田
親切にすべき相手はこの3つに当てはまる人にするべし
①は本当に困っていて悲しみにくれている人、この人には全面的に慈悲の心で優しくする事
②は恩がある人に対して行う
③は敬うべき人人に対して行う
この3つの人には親切にするべし
そして①の悲田の人に大事なのは「あるがままを見る」という事である
あるがままとは慈悲の心
あるがままの反対は
ワガママである
ワガママとは見たいものだけを見てる人(傷つきたくない煩悩)
問題を解決するためには問題が誰の課題か明確にする事が必要である

ぽん
老子の言葉
『人を知るは智、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす。人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす。足るを知る者は富み、強を行うものは志有り。その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり』
訳すると↓
人と議論するには「智」がいるが、自分自身を知るためには心の内面を照らす「明(あか)り」、「明(めい)」が必要である。
人に勝つものには力があるが、自らに克(か)つことこそが本当の「強」さ
足るを知って身心(しんしん)に余裕があるものは豊かになることができるが、自分に克つ「強」をつらぬくものには「志(こころざし)」というものがある
境遇を保つことができた人は久しい命に恵まれるかもしれないが、しかし死を懸けても志を忘れないものは最後に微笑んで「壽(ほぎうた)」を歌う
更に訳すると↓
自身を知る為には自身をさらけ出し自己開示する必要がある。ジョハリの窓の4つ目を開く事こそが心の明となりえる
そこが始まりの始まり

ぃ

あい
履かせてもらってる下駄に気づかずに、人の努力が足りないと言っているように見える。誰だって踏み外す可能性があるのに。

りく
賢さにより色々なものから満足の種を見出せる点では幸福かもしれないけど、それでもなお満足していないなら例え無知でも豚の方が満足しているから幸せに思える。
「良い」が「正しい」という意味だとしても、当事者の感じる満足度の大小が正しさの判断で優先されていないのが気になる。
賢者であることでしか得られない満足の方が優れているとしても「なんで優れている」って思ってしまう。
ほんとトートロジーっぽくなって上手く説明できないんだけど、「満足している方が良い」という考えが離れない。

夜虹(オーロラ)
IQの差が30と激しいので、発達障害の認定を受けました。
ですが、もし僕の言語性IQが後30だけ低ければ、IQの差がなくなるので、僕は健常者という扱いでした。
IQが30も下がると、障害者が健常者になる。
障害ってなんなんでしょうね。
弱者ってなんなんでしょうね。

文学
下手な大学よりも充実した講師陣
ただ、だから高いんだよね、費用が
そこがネックだけど
あれはお勧め

puspisrow

ののと
ただ、どうあがいても有限でしかない人間が自分自身を神のように(努力次第で無限に能力を獲得できると思い込み)自分自身を扱って苦しんでるのは倒錯でしかない。
一神教モデルは宗教だからこそ意義があり、それを世俗化するのは有害になるんだと思う。

ののと

スパルタ
自省録 2巻2章
スパルタ的には、スプラをあきらめよ。といったところでしょう。
快楽にふけっている場合ではないのだ。

夜虹(オーロラ)
ヤマトのストライキのニュースを見て思ったこと。
僕は本社の障がい者雇用枠でデスクワークでぬくぬく快適に仕事してる。
他方、健常者は暑い中倉庫で働いて倒れかけてる。
こうやって考えると、本当の弱者ってなんなんだろうね。
「邦人で、五体満足で、健康で、成人で、男性」っていう「一番強そうな属性」こそが真の弱者なんじゃないかなと思うのです。

文学
うちに飾ってある写真よりやけに綺麗だと思ったら割と最近修復したばかり
さて、次回の世界哲学者会議は2028年東京です。
おそらくテーマは日本の哲学とかになるんだろうけど
果たして無事に開催できるのか
何ごともないことを祈ります。


ぽん
フォローしてる人と同じでアンチの対象とされる人の活動に貢献してる事を理解できない頭悪い人達だなぁと思ってる自分がいます
そもそもアンチなら何も言わないことが効果的なのに笑
しかし世の中の大半は人の悪口や陰口を言ってしまうアンチが必ず居るし、そういう人と群れることをしない人が基本仲良くなります
類は友を呼ぶとはまさに。
アンチと議論は違うのでそこら辺もアンチは理解出来ないので可哀想だと思うと同時に人間とはある程度の年齢に達すると成長することから逃げたがる生き物だなと
成長するには自己と向き合う必要があるから、そんな醜い自分を認めて受け容れるとこから始まる
それが嫌だから蓋をして見たいものだけを見る
度し難い生き物ですなぁ🤔

ぽん
人に勝つものには力があるが、自らに克(か)つことこそが本当の「強」さ
足るを知って身心(しんしん)に余裕があるものは豊かになることができるが、自分に克つ「強」をつらぬくものには「志(こころざし)」というものがある
境遇を保つことができた人は久しい命に恵まれるかもしれないが、しかし死を懸けても志を忘れないものは最後に微笑んで「壽(ほぎうた)」を歌う
『人を知るは智、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす。人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす。足るを知る者は富み、強を行うものは志有り。その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり』
自身を知る為には自身をさらけ出し自己開示する必要がある。ジョハリの窓の4つ目を開く事こそが心の明となりえる
老子よ
僕はほぎうたを歌えそうだよ

ぽん
今の僕の生き方と同じだと
きっとこの人も生きにくい人生だったんだろうな
それを経験しなければ到達出来ないから


マロ
人には必ず半身が存在し、成長につれて自己認識・形成されて半身は顕在化する。欠如していると認知した半身を埋めるピースを探し当てた説。
人と人は生まれた時から互いに独立している。偶然出会い少しずつ相反する自己自立性(主役と脇役)を互いに差し出し、いずれの面を共有しつつも承認しあえる関係に構築できていると意識でき、自己存在証明の対象が"私"から"私達"へと昇華できた説。

くらげ🤡🌚

ぽん
ちゃんと説教してるけど番組内だから…
でもハッキリモノが言える人は尊敬できる
むしろ甘やかして利用してきた指原はかなりの悪どいと思うが…
そもそもLINEも返さないような人間がフワに説教なんか出来るはずがないがね
類は友を呼ぶ状態
お互いの傷の舐め合い
指原という人間の内側が透けて見える
自分が得する為に自分より目立つバカを使って自分が優秀かのように錯覚させ周囲を取り込む
そしてそれに騙される民衆…
なんか政治の世界と似てて笑える話だね





ぽん
「ロフトケア」
と
「市子」
マジで両方観ると繋がってしまうテーマ
それは「孤独」
孤独とは他者には理解されないが故に起こることで生まれる状態
望んで孤独は孤独とは言わない
孤独は不幸とも言えるからである
1人が好きな人間は単純にそれが望みだから不幸では無い

文学
頭に鳩が止まっているジョルダーノ・ブルーノ像の写真を投稿してくれた
ブルーノの頭に聖霊が降臨なんてなんとまあ皮肉というか
とても美しい写真でした

ぽん
ホリエモンのド正論!みたいな感じで書いてて思わず「だから離婚したんだろうな」
と思った
家族って一緒に作りあげていくことに意味がある
それなのに「俺がいくら稼いでると思ってんの?、小遣い制?、世の中の男性2、3万の小遣いでなんの娯楽出来んの?」
とか言ってる
頭が良いと思い込んでる人って差別主義者なんだよな
東大出たエリート官僚とかに多いらしい
LGBTやSDGsとかそういうのに敏感に反応してたりする人
「トランプが大統領なった時も頭が悪い人達は考えれないからトランプなんかが当選しちゃうんだよ」
とかって…
そもそもそれが差別だと気が付いていない
ホリエモンのコタツ記事も全く同じレベル笑




虚無
その中に、芸術は否定のない絶対的肯定 という話がかいてあります。
「何かである」と書くことはできても、書かないことはできない。書かなければ無であって作品の中には存在しない という内容。
私はこれが気に入ったのですが、ただ、
「書かないことによって書かれているもの」は、存在するのでしょうか?しないのでしょうか?
という疑問がでてきました。
例えば水彩の白、
例えば例えや暗喩で表されているもの。
他にも色々。
想起し比較するのは意味や認識の問題であって
存在の問題ではないとされているのですが、
「無いが在る」を描くのは芸術としてあるのか、ないのか。芸術なのか否か。
と、考えていました。

にこにこにしてやんよ
どう?

puspisrow

ナメクジやめたい


puspisrow

ぽん

くらげ🤡🌚
もうね、人間はさっさと滅びてみんなで宇宙人になろう、ね。

puspisrow

マロ

マロ
絵でも音楽でも
それに対して
千人の共感を得ることと、
一人の共感を得ること
数を見出すことを目的意識とするのか
一人でも共感してくれたら満足か
どっちが幸せかな

ぬえ
「人生は努力か才能か」というのを例に出すと、
①人生は努力である
②人生は才能である
③人生は努力と才能である
④人生は努力でもなく才能でもない
という4つのレンマができる。
④に到達した時点で、誰が言い出したのか、第3項となる「運」というのが降ってきて、二項対立は調停された。(と言えるのかな)

ぬえ
という考えが提唱されている。
「精神疾患を持っている人は、他人よりも苦労し、苦痛をより多く味わう可能性が高い。
故に、その苦しみは、幸福な人々に程よく分配されるべきだ。(動物でもいいのだろうか)」
と言い換えることができるかな……。
自分で考えてて気分悪くなってくる。

ぬえ
全体と部分を例に出すと、全体は全体のみであるのではなく、部分は部分のみで独立存在しているわけでもない。(相依性)
全体ありきの部分、部分ありきの全体。
でも、この言い方だと全体、部分が独立して存在することになってしまう。
だから、「あるのは相互関係、相互作用だ」としか言いようがない。

SK

SK

SK


ぬえ
思考とはなにか?
ふと思い出した疑問。
『中動態の世界』國分功一郎
で
「言語が思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。つまり、人が考えうることは言語に影響されるということだ。これをやや哲学っぽく定式化するならば、言語は思考の可能性の条件であると言えよう。」
という文章があって、こんな疑問がでてきた訳だが……

ぬえ
この論理の穴は……比較対象が既にあるのにも関わらず一元論を提唱している所か。

ぬえ
人間関係なんてどうでもいいと思いつつも、どこかで期待している自分がいる。
表面上は攻撃的にコミュニケーションしているけれども、それは自分が傷つかないように先制攻撃を仕掛けているだけ。
「どうせお前も自分から離れて行くんだろう」とフォスを試してるみたいだったな。
回避性パーソナリティかな?

マロ
ミクロとマクロの中間から、マクロへ進み、再びミクロに再帰する段階を経て、色々なあり方を問う感じだった
自分自身:存在意義と存在証明と他人との境界線
民族、種族:文化と言語と立場による生きる目的の見え方の違い
人類:存在意義と幸福の定義
生命体:有機と無機物の境界線
そして救済には個の犠牲が憑き物
何をもってして幸せと決めるかは人それぞれ
もっとみる 

マロ
自分と他人を囲むように白線で引いた輪っかなんて最初は無かった
意思疎通して互いに生きるために無いものを分け与え合う関係を築いていく
いつしか共同体だと目印のために輪っかを白線で引いてお互いを囲んでいることに気付く
この内側にいるなら安全
だって安全だと言うことを知っているから
他の人には教えない
傷つけられたくないから
やがて白線の内側で人数を増やしていくと狭くなってきたから広げようと白線を書き足していく
書き足すためには白線の一部を削り、一度は外へ足を踏み出さないといけない
すると今まで内側しか見ていなかったので、外に誰かいるのに初めて気づいた
なにやらこっちを見ている
もしかしたら白線の内側にいる人によっては仲間に誘うかも、協力し合えばより生活の手助けにもなるかもしれないし
もしかしたら知らない奴とは関わり合いたくない居心地の良い奴だけと仲良ししていたい
だから入ってくるなと言う人もいるかも知れない
。。。
白線の内側が居心地良いのは誰のおかげだろうか

マロ
単に咄嗟の返事の返し方が思いつかず
傷つけることも傷付くことも怖かったから曖昧な嘘をついた
かれたのが発端
かもしれないし嘘では無かったのかもしれない

くろ
怒りの感情はどこからくるのか?
周囲の人を変えるとこはできないから、私が怒りに執着せず、どんどん手放していけばいいのか…?
そうやって怒りを手放すと、相手からは都合のいいやつ、ちょろいやつ、バカだなぁ、って見下される。けど、それすらも手放せばいいのか…?
怒りの感情と相手の評価を手放し、私の心が快適に過ごせることだけを考えればいい、のか…?

マロ
ネガティブに行き当たるということは 今までの人生で得た知見と価値観に反する違和感や疑問を発見できたと捉える
良くないのはその不満を解決するための行動を起こさないでSNSとかに吐露してその日を満足してしまうこと

マロ
疑問を抱いて広告の隣に回り道して向かい側にいた人と会話して互いの意見を交換する世代
さああなたはどっち

ぽん
知恵と慈悲によるものが本当の優しさである
知恵と慈悲は表裏一体
親切にすべき相手を田んぼに例え三福田と呼び
①悲田②恩田③敬田
親切にすべき相手はこの3つに当てはまる人にするべし
①は本当に困っていて悲しみにくれている人、この人には全面的に慈悲の心で優しくする事
②は恩がある人に対して行う
③は敬うべき人人に対して行う
この3つの人には親切にするべし
そして①の悲田の人に大事なのは「あるがままを見る」という事である
あるがままとは慈悲の心
あるがままの反対は
ワガママである
ワガママとは見たいものだけを見てる人(傷つきたくない煩悩)
問題を解決するためには問題が誰の課題か明確にする事が必要である

ぽん
老子の言葉
『人を知るは智、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす。人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす。足るを知る者は富み、強を行うものは志有り。その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり』
訳すると↓
人と議論するには「智」がいるが、自分自身を知るためには心の内面を照らす「明(あか)り」、「明(めい)」が必要である。
人に勝つものには力があるが、自らに克(か)つことこそが本当の「強」さ
足るを知って身心(しんしん)に余裕があるものは豊かになることができるが、自分に克つ「強」をつらぬくものには「志(こころざし)」というものがある
境遇を保つことができた人は久しい命に恵まれるかもしれないが、しかし死を懸けても志を忘れないものは最後に微笑んで「壽(ほぎうた)」を歌う
更に訳すると↓
自身を知る為には自身をさらけ出し自己開示する必要がある。ジョハリの窓の4つ目を開く事こそが心の明となりえる
そこが始まりの始まり

ぃ

あい
履かせてもらってる下駄に気づかずに、人の努力が足りないと言っているように見える。誰だって踏み外す可能性があるのに。

りく
賢さにより色々なものから満足の種を見出せる点では幸福かもしれないけど、それでもなお満足していないなら例え無知でも豚の方が満足しているから幸せに思える。
「良い」が「正しい」という意味だとしても、当事者の感じる満足度の大小が正しさの判断で優先されていないのが気になる。
賢者であることでしか得られない満足の方が優れているとしても「なんで優れている」って思ってしまう。
ほんとトートロジーっぽくなって上手く説明できないんだけど、「満足している方が良い」という考えが離れない。

夜虹(オーロラ)
IQの差が30と激しいので、発達障害の認定を受けました。
ですが、もし僕の言語性IQが後30だけ低ければ、IQの差がなくなるので、僕は健常者という扱いでした。
IQが30も下がると、障害者が健常者になる。
障害ってなんなんでしょうね。
弱者ってなんなんでしょうね。

文学
下手な大学よりも充実した講師陣
ただ、だから高いんだよね、費用が
そこがネックだけど
あれはお勧め

puspisrow

ののと
ただ、どうあがいても有限でしかない人間が自分自身を神のように(努力次第で無限に能力を獲得できると思い込み)自分自身を扱って苦しんでるのは倒錯でしかない。
一神教モデルは宗教だからこそ意義があり、それを世俗化するのは有害になるんだと思う。

ののと

スパルタ
自省録 2巻2章
スパルタ的には、スプラをあきらめよ。といったところでしょう。
快楽にふけっている場合ではないのだ。

夜虹(オーロラ)
ヤマトのストライキのニュースを見て思ったこと。
僕は本社の障がい者雇用枠でデスクワークでぬくぬく快適に仕事してる。
他方、健常者は暑い中倉庫で働いて倒れかけてる。
こうやって考えると、本当の弱者ってなんなんだろうね。
「邦人で、五体満足で、健康で、成人で、男性」っていう「一番強そうな属性」こそが真の弱者なんじゃないかなと思うのです。

キち○い(現ルンバ)
問題 ピノキオは嘘をつくと鼻が伸びます。では、ピノキオが「今から鼻が伸びます。」と言ったら、ピノキオは鼻が伸びるでしょうか?ピノキオは嘘をつくと鼻が伸びます。でも鼻が伸びたらそれは真実になってしまいます。さぁこの答えを導き出すことが出来るでしょうか。ちなみに僕は、分かりません。

文学
うちに飾ってある写真よりやけに綺麗だと思ったら割と最近修復したばかり
さて、次回の世界哲学者会議は2028年東京です。
おそらくテーマは日本の哲学とかになるんだろうけど
果たして無事に開催できるのか
何ごともないことを祈ります。


ぽん
フォローしてる人と同じでアンチの対象とされる人の活動に貢献してる事を理解できない頭悪い人達だなぁと思ってる自分がいます
そもそもアンチなら何も言わないことが効果的なのに笑
しかし世の中の大半は人の悪口や陰口を言ってしまうアンチが必ず居るし、そういう人と群れることをしない人が基本仲良くなります
類は友を呼ぶとはまさに。
アンチと議論は違うのでそこら辺もアンチは理解出来ないので可哀想だと思うと同時に人間とはある程度の年齢に達すると成長することから逃げたがる生き物だなと
成長するには自己と向き合う必要があるから、そんな醜い自分を認めて受け容れるとこから始まる
それが嫌だから蓋をして見たいものだけを見る
度し難い生き物ですなぁ🤔

ぽん
人に勝つものには力があるが、自らに克(か)つことこそが本当の「強」さ
足るを知って身心(しんしん)に余裕があるものは豊かになることができるが、自分に克つ「強」をつらぬくものには「志(こころざし)」というものがある
境遇を保つことができた人は久しい命に恵まれるかもしれないが、しかし死を懸けても志を忘れないものは最後に微笑んで「壽(ほぎうた)」を歌う
『人を知るは智、自(みずか)らを知る者を明(めい)とす。人に勝つ者は力有りといい、自らに勝つ者を強とす。足るを知る者は富み、強を行うものは志有り。その所を失わざる者は久しく、死しても忘ざる者には寿(ほぎうた)あり』
自身を知る為には自身をさらけ出し自己開示する必要がある。ジョハリの窓の4つ目を開く事こそが心の明となりえる
老子よ
僕はほぎうたを歌えそうだよ

おふろ
病んだ時踊ったらスッキリしたり、 SNS見て余計に病むのはこういうことなのかもな。老荘思想むずいな〜

ぽん
今の僕の生き方と同じだと
きっとこの人も生きにくい人生だったんだろうな
それを経験しなければ到達出来ないから


マロ
人には必ず半身が存在し、成長につれて自己認識・形成されて半身は顕在化する。欠如していると認知した半身を埋めるピースを探し当てた説。
人と人は生まれた時から互いに独立している。偶然出会い少しずつ相反する自己自立性(主役と脇役)を互いに差し出し、いずれの面を共有しつつも承認しあえる関係に構築できていると意識でき、自己存在証明の対象が"私"から"私達"へと昇華できた説。

くらげ🤡🌚

ぽん
ちゃんと説教してるけど番組内だから…
でもハッキリモノが言える人は尊敬できる
むしろ甘やかして利用してきた指原はかなりの悪どいと思うが…
そもそもLINEも返さないような人間がフワに説教なんか出来るはずがないがね
類は友を呼ぶ状態
お互いの傷の舐め合い
指原という人間の内側が透けて見える
自分が得する為に自分より目立つバカを使って自分が優秀かのように錯覚させ周囲を取り込む
そしてそれに騙される民衆…
なんか政治の世界と似てて笑える話だね





ぽん
「ロフトケア」
と
「市子」
マジで両方観ると繋がってしまうテーマ
それは「孤独」
孤独とは他者には理解されないが故に起こることで生まれる状態
望んで孤独は孤独とは言わない
孤独は不幸とも言えるからである
1人が好きな人間は単純にそれが望みだから不幸では無い

文学
頭に鳩が止まっているジョルダーノ・ブルーノ像の写真を投稿してくれた
ブルーノの頭に聖霊が降臨なんてなんとまあ皮肉というか
とても美しい写真でした

ぽん
ホリエモンのド正論!みたいな感じで書いてて思わず「だから離婚したんだろうな」
と思った
家族って一緒に作りあげていくことに意味がある
それなのに「俺がいくら稼いでると思ってんの?、小遣い制?、世の中の男性2、3万の小遣いでなんの娯楽出来んの?」
とか言ってる
頭が良いと思い込んでる人って差別主義者なんだよな
東大出たエリート官僚とかに多いらしい
LGBTやSDGsとかそういうのに敏感に反応してたりする人
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とかって…
そもそもそれが差別だと気が付いていない
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