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manacuba
日本ではSNSで、自分が病気だと表明した障害者をブロックする差別主義者がいる。
Xで相互フォロワーだったが、自分の欠点に少しでも触れられるとキレだすおかしな人間だった。
障害にコンプレックスを持っているのに、強者ぶって、捻くれるりよりは、素直に病気を認めた方がいい。
私の強がりは、病識の自覚を阻害して回復を遅らせた。
強がっていたから、精神的に強くなれて、トラウマに勝てたという側面もあるが、私はその時点で、自閉症を克服していたから、それ以上強くなる必要はなかったのだ。
結局、私は自分の能力を捨てることにより、PTSDと二次被害のウィークネス・フォビアから回復したのだ。
どんな優れた思想にも反作用がある。
薬に副作用があるように。
欠点修正主義だけは、万能の回復術だと思っていたが、それは完璧主義を生み、さらなる苦しみを生み出した。
最終的に思うことは、Xで出会ったそれなりに優秀で、私に批判をしてきた人たちは、大したことはなかった。
自己肯定とやっかみ批判だけの人たちだ。
この程度の国で一番になる実力もない。
現在では、多くの女性が男に失望しているが、私もエリートの男に絶望している。
最後に一言。
年に一度くらい、自分が馬鹿であると、明るく馬鹿を披露して、みんなでお互いに馬鹿と欠点を許し合う、一種の祭りを私は考案したい。
罪の概念がわからない日本では、そのくらいしか反省の機会はないだろう。


manacuba
私は精神障害者にも、薬害の被害者、その他の病気の人間にも、ずっと闘病を勧めてきた。具体的な自己治療の方法も教えてきた。
しかしほとんどは無駄だった。大半の人間は闘病の道を選ばなかった。
不可の少ない短期間の断食すらもやりたくないんだそうだ。
私の精神障害の完治のための、自己批判(欠点修正)に基づく精神トレーニングなど誰もやるはずがない。
私は、ここで内海聡医師の苦闘と諦観がわかるようになった。


manacuba
一つの能力を訓練によって研ぎ澄ますには、実は全人的な教育はいらない。
教育とは総合的な精神涵養であり、欠点修正としての「平凡の強制」である。
そうでなければ野球選手の「イチロー」のように歪んだ人間を生み出してしまう。
旧Twitterのアカウント、なうちゃん氏が「イチロー」を批判したのは正しかった。
どれほど能力が高かろうと、「イチロー」のような恥知らずで、罪という概念もわからない人間を正常とみなせない。
教育とは、正常を志向することであると結論し、この文章は終わる。

manacuba
私も少し前まで精神疾患だったからわかるけど、負け犬は休むことが下手。
クズができる欠点修正の初めの一歩はしっかり休むこと。
どうせほとんどのクズ人間の人生が上手くいかない理由なんて、上手く休めないくらいのもの。
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