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Rc.ぽこ

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とある街中で急遽、お爺さんが苦しみ出した。
貴方ならどうするだろうか。

普通なら、「大丈夫ですか?」と声を掛けて救急要請をする所だろう。

では、そのお爺さんがあたかも小汚い格好をしていても、あなたは同じことをするだろうか?

ハロー効果、という表面的印象に内面的印象が引っ張られるというそれは、恐らく心理学に触れていない人でもどこかで耳にしたことがあるだろう。
その有名(?)な実験の1つが、まさに先のお爺さんの例である。

とあるお爺さんが同じ場所にて苦しみ出した際の、周囲の反応を見るという観察。ただし、スーツで着飾っている場合と、小汚いホームレスの格好をした場合の2パターンの観察。

その結果、不思議なことに、スーツを着てる場合は数人がすぐに駆けつけるけれど、ホームレスの格好の場合は誰も駆け寄ろうとしない。
同一人物であるというのに……。

そういった、ハロー効果のような認知バイアスは日常の中によく存在する。例えば、極端な例ではあるけれど、小綺麗な男性と小汚い男性と果たしてどちらが良いと思えるだろうか(きっと、そういったフェチズムの人以外は前者を選んでいるはずである)。

そういった選択は、必ずという訳では無いにせよ、良い方良い方に偏り、傾いてしまう。そう思うと、実は人間は意外にも不安定な存在なのかもしれない。

さて、前回の投稿で私はとある命題を掲げた。
「正義」が正しく、「悪」が間違っているのか───と。

単純多数決に基づくそれにも、認知バイアスは存在する。当然、多数決というからに、選択肢の善し悪しの差が対立的でない場合、個人的良案に投票する可能性もあるけれど、例えばイケメン/超美人の有名人が「コッチに投票したよ!」などと投稿すれば、同じ方に入れる人もいるだろうし、単純にこの選択肢の方が多くの人から賛同を得ているからという理由で自分の選択をねじ曲げてしまう人もいるだろう。

そうやって、「社会」という集合体生物を保全するために、そういった機能がヒトにはある。だからこそ、多数決という手段は合理的で効率的であり、それでいて差別的で、正確性の欠ける愚法だと私は述べる(しかし代用手段があるかと言われると明言できないが)。

そう考えてみると、「正義」や「悪」というのが、隠された多数決性による仮想的定義であることが分かると思う。要はそもそも両者に正誤もないのである。
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