
Rc.ぽこ
ゲーム実況者/他。
ここでは日常やテキトーなことを投稿していく所存ッ
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Rc.ぽこ
何故なら自分が死せば、その物語は終わりを告げるのだから。
むしろ自分の人生を客観的な視点で捉えているヒトがいるのならば、それはある意味狂気である。
だからこそ言いたい───自分の人生を他に取られるなど、愚行もいいところだと。
ところで、主人公症候群という言葉がある。
主人公症候群とは、この世界が自分という主人公を中心に廻っていると考えてしまうことである。
自分の人生の主人公は自分であるのだけれど、世界の主人公は決してそうという訳ではない。むしろ、”存在してはならない”とさえ思われる。
曰く──主人公症候群と呼ばれるのは、紛れもない傲慢であろう。
しかし考えてみると、意外に難しいものである。
世界の主人公でなく、それでいて他を主人公とすることも望ましくない。
しかし”誰しもが自分の人生の主人公である”と言われるのだから、果たして自分の人生とは何かを定義しなくてはいけない。
それは生涯の課題である。
生を受けたその時から真っ白なキャンバスが渡されて、あらゆる事を思い、感じ、考えて作り出した絵の具で彩るようなものである。
そしてきっと1枚の絵画が完成する頃には。
”自分の人生”とは何かを定義し終わる頃には。
「ああ、良い時間だった」
と、そんな事を呟きながら灰となって消えるのだろう。
さて、最後に疑問を投げかけておこう。
「あなたにとって『人生』とはなんですか?」
その答えはきっと、未来のあなただけが知っているはずだ。

Rc.ぽこ
西尾維新「化物語」シリーズ、『終物語』に出てくる名言である。幸せに限ったことでは無いけれど、どんなことであれ、なろうと思わない限りそうなることは有り得ない(但し、『こち亀』の両さんを除く)。
しかし、私の(くだらない事ばかり教えてくれた)恩師(故)からしてみれば、この見解も少し違うのだろう。「なろう」とするのではなく、どれだけ「なりきれる」か、”目指す姿形に成れると思い込めるかが重要”であると彼ならば語るはずだ。
多くの場合、そういった思い込みは人間一人ひとりに、意外にも大きな影響を与えていることも少なくない。例えば、有名なところで言うならば、プラシーボ効果がある。
プラシーボ効果とは、端的に言ってしまえばそれがそのように感じるという肯定的な思い込みが、実際にそうであるように感じることで、実際に肯定的に感じることである。この効果をくだらないと信用しない人も実は多いけれど、研究によって示唆され、そしてその効力もまた確かなものであることは事実である。
さて、その他、ピグマリオン効果やホーソン効果何てものもまぁ、比較的有名ではあるけれど、それらについては自分で調べてみてくれと投げやりに紹介しつつ、今回は割愛させてもらう。
さて。
無論、その思い込みの影響は肯定的なもののみならず、否定的…ネガティブな影響をもたらすこともある。だからこそ、私からしてみれば「病は気から」なんて迷信を完全に否定しきれないわけで。
そんな風に考えてみると不思議なもので、「思い込む」ことをむしろ力と変容することも、もっと言えば、現実を変革するものでもあるとも感ぜられる。例えば「自分は選ばれた人間だ」と思い込めば、自分はそうなのだろうし、つまりは言い様によっては、全厨二病患者を肯定することさえもできよう。
だが、それは何故かと言えば、色と同じように、私たちが見ているものが現実なのではなくて、私たちが主観的に見て初めてそれは「現実」となりうる為であるということに他ならない。
曰く、人によって見ている「現実」は異なるということ。
そう思えば単純に、人のことを批判しようとは思うまい。
嗚呼、実に不思議である。

Rc.ぽこ
この一文に、矛盾があることが分かるだろうか。
実はと言う必要も無いだろうが、この文は「絶対」はないと主張しておきながら、断言しているのだ。つまり言い換えるのであれば、
“この世の万物に「絶対」は絶対にない。“
と主張している。まさに矛盾である。
そういえば、「理想論」なんて言葉がある。
理(ことわり)を想う、と書くようにそれは希望であって、現実ではない。だからこそ「想(い)」「理論」という現実に挟まれて、やがて潰されてしまうのだろう。
だがその現実に消される中には、その理想を叶えてしまう人も存在する。例えば、ライト兄弟のような。そして、その理想を現実にすることが出来ると、まるでその人たちが現実になったかの如く、周囲の人はその人たちの努力と事実を評価し始める。
きっとそれはとても嬉しいことであるけれど、人間の浅ましさを示すだけで、決して素晴らしいことではない。
ここでようやく主題となるけれど、よく偉人となる人は変人だったと言い伝えられることがある。
だが、それは逆なのではなかろうか。
私たちは当たり前という、「絶対」の矛盾に数多と囚われている。そしてそれが正論だと、正当だと信じて疑わない。
しかし彼ら変人は異なった。その当たり前に疑問を抱き、反逆し、現実の中で理想を謳い続けた。
その末に結果を遺して、偉人と成った。
勿論、偉人全員がそうである訳ではなかろう。偶然見つけたものもいるだろう。
しかしその偶然が果たして本当に偶然なのかも怪しく、ラプラスの悪魔などからしてみれば、物理学的には、量子力学的にはそれは単なる”成るべきして成った”存在である可能性もある。
そんな事を考えてみると、面白いことが分かる。
私たちが無理だとか絶対だとか言うそれは、統計学の有意水準のように、1%やら5%やらで弾き、”ない”と見なしているだけであって、しかし決して0ではない。
だとすると、魔法も、UMAも、不老不死も、タイムマシンも存在を否定は出来ないだろう(ただし、それによる弊害は知ったことでは無いが)。
つまり”夢を諦める必要はない”のだと、そんな綺麗事(エゴイズム)で、今回の話は結論付ておくことにしよう。

Rc.ぽこ
いや、綺麗事というか、幻想というか───つまり、なり得ることは無い。だから寧ろ、綺麗事と書いてエゴイズムと読むのではなかろうか。
「公平」、「平等」。あとは「均等」とかそんな表現があるけれど、今回は特に使われる(※主観だから多分)前者2語について取り扱っていく。
ではそもそも両者の違いとはなにか、というのは3人の箱に乗っている人の図が最もわかりやすい。
画像自体は著作利用不明瞭のため添付しないけれど、詳しくみたい人は「平等 公平 箱」なんて調べると出てきたりする。
身長が大・中・小の3人が野球を観戦している。
「平等」はそれぞれ箱が1つ乗る。
「公平」は小さい人は2つ、中くらいの人は1つ、大きい人は0つの箱に乗る。
ここで言われるイコールはつまり、「平等」は与えられるものが同一で、「公平」は状態が同一であるということになる。
一瞬はその話に、納得と共感を成すだろうが、私はむしろ疑問を出してみよう。
それはつまり、完全な同一になることは絶対にないことを示唆するものではないか?、と。
確かに集中的に見れば、それは非常に良いように見える。状態にせよ、物資にせよ、等しく公正であるように思われる。だが、結局それらは何かしらの不平等、不公平の上に生じている。
だからこそ、綺麗事でしかない。
だからこそ、理想論でしかない。
だが、エガリタリア二ズムに幸福論をぶつけてみよう。その事実は理想論からただの事実に変容する。
問題は社会という怪物ではなく、その一細胞である“一人“に焦点を当てて考えてみよう。
「平等」とか「公平」とかは考えず、「自分が幸せである方法を模索する」のだ。
少なからずその人にとっては、有意義な時間の使われ方では無いだろうか?

Rc.ぽこ
例えば先日投稿した性善説、性悪説の話。端的に言ってしまえば“人間は生まれながらにして〇〇“といった話である。この場合、善性を持つか悪性を持つかという善し悪しに分かれるわけだ。
とても前の投稿であれば、ヒーローと悪役の話も同様である。私はその都度、良い悪いに分けることに疑問を示してきた。
なぜそれが良くて、それが悪いのか──その答えたる存在はもう既に投稿した内容にあるけれど、今回はそれとは別の視点の話をしよう。
概念、と呼ばれるものがある。
いや──正確には存在しないのだが、ヒトはそれをあたかもあるように振る舞うことがある。
例えば「心」や「勇気」などがその部類に入る。
一プログラミング従事者(自称)からしてみれば、良いや悪いもまたカプセル化された概念である。
いや、正確にはカテゴリーと言うべきか、とも思うけれども、良いものと悪いものという2つが概念として存在しているのではないかとも思う。
ここで重要な点は、そのカプセルが、カテゴリーが異様に歪な点であろう。良い悪いにも度合いがあるため、その中での大きさや位置が異なり、歪む。なぜならそれを単純に2つに分けて考えてしまうのだから。
ダブロイド思考といって、複雑なものを単純に考える思考がヒトには備わっている。だからこそ差異を抑制し、歪を作り出してしまっているために、良い悪いという二分的な考えが生じる。
本来であれば、もっと細分化して考えるべきであろう。多くの研究調査でYes/Noの閉ざされた質問で回答される事例は、固定的かつダイレクトな、それでいて不変的事実を訊ねるものばかりで、結局、3件法や5件法などで訊ねている。
それはむしろ、そういった研究が単純な0/1で決めてはいけないことを示唆しているとも言えるのではなかろうか。
ところで、なんでそんなダブロイド思考なんてものがあるのかと考えてもみるが、やはりそれは私たちがどこまでもポリス的動物であって、「社会」という怪物の細胞であるからという点に回帰する。
嗚呼、なんてヒトは残酷で悲しい生物なのだろうとさえ思えてしまう。

Rc.ぽこ
かつて江戸時代に、最低階級のものを差別的にそう呼んでいたのだという。
実に醜く、浅ましい過去ではあるけれど、私は彼らの偉大さをよく理解していたいとさえ思う。
ところで、人には上下左右奥手前といった3次元空間において、好みがあることを知っているだろうか。詳細な理論や研究は割愛するけれど、多くの場合、上、右、手前を好む傾向にあるという。
例えば、自分の好きな物は手元に置いておきたくなるし、嫌いなものは奥に追いやりたくもなる。気分が落ち込んだ時は下を向いて歩くだろう。
そう考えてみると、「♪上を向いて歩こう」は心身一体的であるヒトにとって、非常に有益な手段であるとも言える。
しかしどうだろう、下方比較というものがある。
見下すことで安堵を得るそれは、果たして上を好んでいると言えるのだろうか。
いや、違う。
下を見るからではなく、下に見た人よりも上に自分がいるというそれが、安堵という肯定的感情を生起させるのである。
「自分はあの人よりも上だから」
「あの人の方が全然ダメだから」
そういった歪んだ肯定的感情は、一時的にも焦燥感を欠き、反抗心を喪失させるのだ。
さて、ここまでの流れでもはや何を言わんとしているかはわかると思うが、江戸時代では、穢多や非人といった人達がいたために、内乱を抑制していた。約260年という長い歳月をやってのけた理由の一つであろう。
つまり何が言いたいか?
“人は不平等の方が平和である“などと言いたい訳では無いし、その主張にはあからさまなエビデンスが不足している。
そんなことよりも、表面上は全員が平等である現状で、不平等にて成立していた役割が不成立になるはずがない。というより、してはいけない。
曰く、“私たちは皆それぞれに役割を持つのであって、その大小に関わらず、その個人は必要なら存在である“というのが、今回の件投稿における主張であった。

Rc.ぽこ
テレビ番組でも稀に放送される、御伽噺というか、昔話の真実を知っているだろうか。
有名なところだと、眠り姫やシンデレラ、ピノキオなどが挙げられる。眠り姫は王妃が人喰いだったし、シンデレラは靴を履かせようと踵を削り、指を切ったという。ピノキオもまた、ラストに木に吊るされて殺される。
上記の3つは西洋から流れてきた(?)話であるけれど、日本昔話もその例外では無いのではなかろうか。例えばそう、浦島太郎とか。
ともあれ、そう考えてもみると、性善説を支持したくなるところではある。
性善説と性悪説───今も尚語られ、そして議論し続けられている不朽の仮説。
そもそも善し悪しなどについては以前投稿した内容にも記載したように、結局は構成概念の1つでしかなく、単純多数決性によって決定づけられるものでしかない。
だからこそこの議題は不朽であり、不屈であり、終わりを迎えることは神様でもご降臨なされない限りは有り得ないのである。
………などと、そんなことを述べておいてなんだけれど、御伽噺の話に戻ろう。
御伽噺の多くは残酷なものや戦うものが多く取り上げられる。眠り姫ないし、シンデレラないし、ピノキオないし、浦島太郎ないし。
戦争反対を謳う我々が、何故そんな話を子供に伝え繋ぐのか。それが固着された人間の伝統性のようなものだと思えば、なぜそのような話がヒトという生物に固着しているのだろう。
単純に考えれば、生物学的なことであって、無意識的な問題なのかもしれないけれど、だとすれば性善説が正しくて、そういったところから地道に悪に染められていくのではとも思えるのも無理はなかろう。
私はそもそも善し悪しの概念すら否定しているからなんとも言えた話では無いけれど、だとすれば御伽噺が残酷で、昔話が戦う理由も一大人として納得出来るものであろう。
しかしだからといって、御伽噺に触れていないから善性を持った子供になるかと言われたらそうでは無いのだろうし、研究してみなければ不明だけれど、そんな私のたわいもない話でしたとさ。

Rc.ぽこ
簡潔に述べてしまうならば、何事も一流になるには1万時間の時間が必要というものである。
さて、そもそも1万時間とはどれくらいだろう?
まず、1日が24時間。うち12時間は食事やトイレ、睡眠といった生活必要最低限の生活を送るものとすると、1日の活動時間は12時間くらいだろう。つまり───、
10000 / 12 = 833.33… となる。
1年が365日とすると、833日は約2年4ヶ月程になるはずだ(計算が間違っていなければ)。
但し、どこぞの金持ちか引きこもりニートに限るけれど。
つまりを言えば、最短で人間がプロになるには約2年ちょっと全てを投げ打って頑張ればなれる!
……という理解は些か誤解も甚だしい。
それ以前に、この1万時間の法則というのは、後付けされた法則名に過ぎないという点は何とも言えないところである。
かつてアンダース・エリクソンは、とある研究の中で、一流になるためには膨大な時間が必要だと述べた。それが1万時間であり、この法則の本元である。そして、この研究を受けて、マルコム・グラットウェルが一冊の本を書いた。そこで用いられた言葉が「1万時間の法則」だ。
果たしてマルコムは法則という言葉を理解しているのだろうか? この研究を読んだのだろうか?などと思わざるを得ないところは色々あるけれど、しかしそれも致し方ないところであろう。マスコミなどもそうだが、彼らは「真実」ではなく「話題」を追求するのだから。
結局のところ、そういった誤認は世間体に流布されているけれど、つまり「1万時間」が間違っているという訳ではなく、1万時間の努力が実ることもあれば実らないこともある。
ましてや、才能とかいうバケモノを人間は知らぬ間に飼育しているのだから、一流になるためには決して1万時間が必須であるということはない。
ただし、努力にせよ才能にせよ「1万時間“ぶん“」の何かは必要だろうが。

Rc.ぽこ
貴方ならどうするだろうか。
普通なら、「大丈夫ですか?」と声を掛けて救急要請をする所だろう。
では、そのお爺さんがあたかも小汚い格好をしていても、あなたは同じことをするだろうか?
ハロー効果、という表面的印象に内面的印象が引っ張られるというそれは、恐らく心理学に触れていない人でもどこかで耳にしたことがあるだろう。
その有名(?)な実験の1つが、まさに先のお爺さんの例である。
とあるお爺さんが同じ場所にて苦しみ出した際の、周囲の反応を見るという観察。ただし、スーツで着飾っている場合と、小汚いホームレスの格好をした場合の2パターンの観察。
その結果、不思議なことに、スーツを着てる場合は数人がすぐに駆けつけるけれど、ホームレスの格好の場合は誰も駆け寄ろうとしない。
同一人物であるというのに……。
そういった、ハロー効果のような認知バイアスは日常の中によく存在する。例えば、極端な例ではあるけれど、小綺麗な男性と小汚い男性と果たしてどちらが良いと思えるだろうか(きっと、そういったフェチズムの人以外は前者を選んでいるはずである)。
そういった選択は、必ずという訳では無いにせよ、良い方良い方に偏り、傾いてしまう。そう思うと、実は人間は意外にも不安定な存在なのかもしれない。
さて、前回の投稿で私はとある命題を掲げた。
「正義」が正しく、「悪」が間違っているのか───と。
単純多数決に基づくそれにも、認知バイアスは存在する。当然、多数決というからに、選択肢の善し悪しの差が対立的でない場合、個人的良案に投票する可能性もあるけれど、例えばイケメン/超美人の有名人が「コッチに投票したよ!」などと投稿すれば、同じ方に入れる人もいるだろうし、単純にこの選択肢の方が多くの人から賛同を得ているからという理由で自分の選択をねじ曲げてしまう人もいるだろう。
そうやって、「社会」という集合体生物を保全するために、そういった機能がヒトにはある。だからこそ、多数決という手段は合理的で効率的であり、それでいて差別的で、正確性の欠ける愚法だと私は述べる(しかし代用手段があるかと言われると明言できないが)。
そう考えてみると、「正義」や「悪」というのが、隠された多数決性による仮想的定義であることが分かると思う。要はそもそも両者に正誤もないのである。

Rc.ぽこ
こんな話を聞いたことは無いだろうか?
ある少年が急に踊り出す。その少年は一見怪奇に見えるけれど、その少年に便乗した2人目の少年が同じように踊り出す。
するとどうだろうか、3人、4人、5人と、次第に人数を増やしていき、やがては十数人に渡る舞踏団が出来上がる。
私たちはよく「1人目」に目を向けがちであるが、その1人目はただの勇気のあるだけの馬鹿である。
なに、貶している訳ではない。ただ、尊ぶべきは「2人目」であることを忘れてはならないと、そう告げたいだけである。
さて、そんなことを述べた後に、自分を棚に上げるようでなんだが、私はこの度その「2人目」になりそうだった。というより、なることになった。
私はどうやら、直近の忙しなさからその「2人目」を尊敬こそせず、むしろ愚かだと思っていた愚かの中の愚者であった。
すっかり忘れていた。
天才を尊ぶことを疎かにした、愚かである。
何故私は「2人目」になることを恥じたのだろう。
まぁ、実際は多分「2人目」というよりは「2番目」だったり、「2人目群」だったりするのだけれど、それでも恥じることは無いと、むしろ光栄に思うべきであると、何故考えなかったのだろう?
忘れるとは、「心」を「亡くす」と書く。
きっとこれまでの私は、他の人達とも異なる“自心“を亡くすほど、忙しなかったのだろう。
……しかしまぁ、その「1人目」を自ずが見つけたのではなく、他者に教えて貰ったというのは、些か不本意(?)ではあるけれど、まぁ、それに関しては「1人目」を探す目を持たぬ私では見つけられないのだから致し方ない。
とりあえずまずは、その「2人目」となれることを有難く思うべきである。

Rc.ぽこ
例えばカエルなどであれば明瞭であろう、オタマジャクシとカエルである。それぞれ姿も形も、その部類も異なる。
無論変わらぬ動物も多い。大きさが変わるだけの場合もあるし、何なら逆に成体の方が弱いこともあるという。実に興味深い話ではあろうが、生物学のことが知りたいのであれば、生物学者にでも聞いて欲しい。
私が問題としたいのは、“どこまでが“子供で、“どこまでからが“大人であるかということである。
定義上は一応20(※18)歳を超えたら、と言われている。だがその定義もその境界の曖昧さを無理矢理確立させているに過ぎない。ルール上で「ここだ!」とさえ決めてしまえば、それ以上考えることは無いのだから。
さて。
話は少し変わるが、生物とは学習するものである。───そう、学習する。
その学習の積み上げ方によって、生物は大きく変動する。かつて迷子になり行方不明となった幼子が山狼(?)に育てられ、数年後、まるで狼のような姿で共存していたという事例が実際にあったという。詳細は多少異なるかもしれないが、そんなフィクションじみたことが実際にある。
要は、その学習における「環境」が重要なのだ。
性格を作るのも、個性を育むのもまとめて「環境」を要因としており
───曰く、子供を大人へと変えるのもまた「環境」であると言えよう。
もっと正確に述べるならば、ヒトは学習を繰り返す。繰り返し、繰り返し、繰り返す。知性を高め、理性を持ち、社会性を育てる。
そうした繰り返しの末に、私たちは社会という「環境」によって、自分がもう大人であると学習する……否、させられるのだろうと思う。
なに、多少割愛しているため分かりにくい箇所もあるだろうが、ただ1つ言えることがある。かつてアリストテレスは「人間はポリス的動物である」と述べた。ポリス的動物───それは警察のことを意味するのではなく、要は社会的動物であることを意味し、つまり、社会という輪を拡げる必要があるということでもある。
さて、時に。
数匹の群れを成し、狩りを以て生を続ける動物に対して、ヒトとは大群を成す。
はてさて、果たしてヒトは生物上において強者なのだろうか?

Rc.ぽこ
卒論の話である。
論題とかテーマとか「こういうことを研究したいです」という話を教授とする。
他の人がどんどん進む中、私はただそこに停滞していた。その理由はまさに序文の通りである。
「なんか、○○さんぽくないね」
それを理由に幾度とテーマやら論題を蹴られた。
なに、それで別に教授を恨んだりはしない。むしろ、こんな駄目駄目な私を少ない時間ながら気にかけてくださっていることに、とても感謝している。
ただ。
ただ思うのである。自分ぽさとは何か。
そもそも私の研究が決まらないのは、理由がちゃんとある。
なに。単純な話、私が強欲だからである。
研究を決めるために、自分のしたいことを考える。皆それぞれに気になること・興味のあることは違い、それぞれに「特に」が存在する。
だが、私にはその「特に」が存在しない。
全て等しく興味を持ち、全て等しく知りたいと思う知の強欲。それ故に「特に」を持たないという、無欲でもある。
それ故に、「自分」を持たないということでもある。
だから人一倍研究を決めるのは難航しているし、加えて一昨年からの精神疾患やらなんやらも含めれば、いくらでも理由はあるだろう。
そんな中、「自分ぽさ」とはなにかを問われる。
はて。自分ぽさ。
「自分」を持たない私に、それを問われれば、私は何を解と成せば良いのだろう。
しかしだからと言って、「何も無い」と答えても研究は始まらない。
自分を偽らなければ。偽らなければ。

Rc.ぽこ

Rc.ぽこ
卒論を始めて改めて思い始める。
これまで自分は否定されながら生きてきた。
それ故に「したいこと」は常に秘密主義とし、家族に知られてはいけない縛りを設けた。
そして現在、担当の教授は口にする。
「何が研究したいのか?」と。
自分は確かに色々なことが知りたい。
研究したいことはあるはずなのに、それがはっきりと想起できないのはきっとそのせいなのだろうか。
はたまた、私は教授のことさえも恐れて上手く言葉にできていないだけなのだろうか。
もしくは…自分はもう空っぽになってしまったのだろうか。
そんなことを思いながら、ホームページをリニューアル。
「いや、先行研究探せよ」と頭で思いながらもただその迷いと不安が自分の手を止める。

Rc.ぽこ
才能を、趣味や娯楽も、将来の切望も。
自分の生き方さえもまた否定されて。
きっとだからこそ、この腐敗した醜悪な性格が出来たのだろう。
しかし社会はそれを許さない。
先生は、両親は、人間は。それらの「好き」は邪魔であるとして迫害する。
彼らが望む姿へと、言葉という強制力を以て改変させ、社会における見せかけの安定した輪を歪めぬように仕向けるのだ。
だからこそ、その社会で「好き」を維持させ続けることは非常に困難なのだろう…。
無論、その考えが理解出来ない訳では無い。事実、「好き」は多くを歪める。
だが私はその根幹に除草剤を振り撒き、土から全てを一掃するようなその考えが、どうにも腹立たしくて仕方がない。
───だから。
私は誰かの「好き」を全て肯定出来るような人間になりたい。
それはつまり『社会』の否定者であり、その輪を乱す悪魔でもある。
故に、“社会の悪魔“になろうと決めた。

Rc.ぽこ


Rc.ぽこ


Rc.ぽこ
しかし現在、将来について悩んでおる最中…
自分にはやりたいことがある
しかし親はきっと…いや、絶対にそれを許さない
そのコンプレックスな状況下にまたしても精神をやられそうである( ´・ω・`)

Rc.ぽこ
買ってみようかと思ったけど、自分の手が財布を開くのを拒んだのだった。。。



Rc.ぽこ
自分の腕が下手すぎて草
皆さん、ゲーセンの練習ってどうしてんの??
#ゲームセンター
#大敗

Rc.ぽこ
(内心の私「なんか思いつきでやりたいとか色々思いつくよなぁ、ホント(^_^;)」)

Rc.ぽこ
ポケモンセンターに用があって行ったら向かいがこれでビックリΣ( ˙꒳˙ )!?
スーパー戦隊や仮面ライダー共々いすぎなんよw
もはや初代がほとんど見えとらんwwww


Rc.ぽこ
受かりました!v(。・ω・。)ィェィ♪
あとは免許センターにて試験受けるだけです!
#教習
#卒業検定

Rc.ぽこ
パリピパリピィー!!\(°∀°)/イェェエエエイ!!!!
あと【みきわめ】と卒検と、学科試験だけだ!
頑張るますv(・∀・*)
#教習

Rc.ぽこ
まぁ、全部親が変なこと言ってくるんが原因なんだけどね(苦笑)

Rc.ぽこ
(※皆さん、よく見るんだ……)
キティちゃんはどうやら”地域猫”ではないことが判明した∑(°口°๑)
そしてドラえもんは完全なる”地域猫”であることが判明したΣ(・ω・ノ)ノ
ごめんよ、ACジャパン。
真面目な話なのにそんな捉え方しか出来ない私を許しておくれ……(*´・ω・`*)グスン

Rc.ぽこ
と、公式に呼ばれた気がしたので投稿。
寝たい(2徹)。。。

Rc.ぽこ
これでコンビニおにぎりより高いとは……
(;`皿´)グヌヌ


Rc.ぽこ
御歳遂に20歳になりました(※時間的にはまだだケド)!
今日はぁ、学校行って、バイト行って、夜遅くに帰ってきて…ご飯食べて、寝る予定です(( ´ ᐞ ` ))
つまり誕生日なんてものはないという……w
そしていつもの恒例。
Happy birthday ………to me.( ˙-˙ )
と、1人自室で呟くのです。。。

Rc.ぽこ
暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い……って繰り返してると威圧してるように聞こえるヨ!ww
あついあつ……いあついあついあつ……(*´艸`*)
くだらなくてすいませんm(_ _)m

Rc.ぽこ
特に不満もなく、楽しくやってますが、一つだけめっちゃ気になるのは、性格診断結果である【愛する人】がずっとマイページに表示されていること(*^^*)
なんかジワるんだけど、他にどんなのがあるんだろうwwww

Rc.ぽこ
友「(※ほかの友達複数)は会ったし話したよ」
俺「え、俺誰一人とて会ってないんだケド?」
果たして自分が気が付いてないだけなのか、それとも避けられているのか……或いはマジで会わないのか(多分3つ目)

Rc.ぽこ


Rc.ぽこ
腰に手を当てて変な歩き方をしてる奴がいたら多分それが私です( ˙꒳˙ )

Rc.ぽこ
絞り袋の使い方を誤っていたことに気がつく
(* ˙꒳˙ * )ヌン


Rc.ぽこ


Rc.ぽこ
よーし読むぞー\(*°∀°*)/


Rc.ぽこ
アドバイスを頂いた後、色々と調べていたのですが、先刻投稿した「最近の若者は……」っていうそれはエルハラ(エルダーハラスメント)に該当する可能性があるらしいですね((((;゚Д゚)))))))
私としては別段そこまで気にしてない(むしろちょっと面白がってた節があるケド)ですが、他の教習生の為にも、教習所の方にはメールではありますが正式な形で報告することにしました。
なんか愚痴っぽくなってごめんなさい。
アドバイス、ありがとうございますm(*_ _)m
皆さんも今回のような事例には気をつけて下さい
……ところで。
最近のハラスメントって種類あり過ぎてわからな過ぎて草

Rc.ぽこ

Rc.ぽこ
2月頃から通ってるんだけど、今日の教官はなんというかなぁって感じ(別に悪くは無いんだけど)
「止まるんじゃない(前の車が急に止まったんだから仕方ないと言いたいが)」とか「レバーは1個ずつ動かせよ。最近の若者は」とか。なんというか、その、典型的な若者批判的なおじいちゃんでした( ゚ー゚)ウ ( 。_。)ン
車間距離も充分取った(今までの教官に言われた通りな)のに車間距離が近すぎるだの、ここは分離信号だろうが、そんなこともわかんねぇのかとか、理不尽がすぎるよね、ホント。
ところで生まれて初めて聞いたよ、「最近の若者は」ってフレーズ。本当にあったんだww
#教習所 #運転免許 #最近の若者は

Rc.ぽこ
普段はYouTubeとか色々なとこで活動している者です(最近は諸事情ありで低浮上中)
Gravityってなんじゃろなと思って初めてみましたヨロ(`・ω・´)スク!
追記:宣伝とかは特にしない予定です。プライベートなのでw