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まる

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今日はお昼すぎぐらいからピザを食べることを楽しみに過ごしていましたが、さきほど買いに来たところ買えませんでした。私は世界がさほど好きではありませんでしたが、つい先ほど嫌いになりました。

一体全体世界というのは何のために存在しているのでしょうか。みんながピザを食べたい時に食べられることを目指して日夜色々な人々が頑張っているのではなかったのでしょうか。

強めの雨まで降りはじめました。いいんですね?ほんとに世界を見限りますよ。という気分です
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サンド

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俺が3時のバイトを急に飛んだら一体全体世界はどうなる?!
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アマテラス

アマテラス

そもそも多様性の解釈間違っていないか?
地球全体、世界全体のなかの日本という国独自の文化、景観の多様性、風習の多様性は日本だけのものであり、外部からの文化で侵蝕させてはいけない
外部からの異文化の受け入れはあくまでその国の日本が持続可能な発展で必要性を認めた承諾の上でなされるべきだ。
 
イスラム教文化など外国からの過剰な外来異文化を定着させるというのは、日本の多様性の破壊、強いては地球全体の多様性の破壊に他ならない。
少なくとも日本人が異様に感じてしまうような外来異文化の土着 (土葬など) は日本の景観文化の多様性を守るという観点からも、もっと堂々と毅然とした態度で拒否してもいいと思う。
#多様性 の話
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エブリン・ワン

エブリン・ワン

#箱男

不可解性から自分なりのテーマを紡ぐ思考遊び⑥

◾️ホンモノの先にあるもの

実用性が全くない文学が存在し得る本質は、文学が人々を予測可能な満たされた監獄から予測不能な不可解性の自由な世界へ呼び込むことにあって、感覚的な領域で自分に絡んでくるものに強引にしがみつき展開することが芸術的な営みであり結果としてテーマが滲み出てくるのが文学作品である。(安部公房講演会より)

全てを情報化・予測可能化して登録しようとする波に抵抗する事を究極的に行うとどうなるのか。
『箱男』はこの問いへの文学的解答であり、映画は「この世を去るか箱男になるか」という選択肢を示している。世界と完全に切り離された存在になるには他に同じように世界から出るものが現れてはならなず自分だけが世界から出ている必要がある。ノートへの記録が象徴する「世界の観察者」としての立場は自身の観察行動が対象(全体世界)に影響を与えないことで完全に世界と切り離された状態を獲得できる。
自分以外の全てと関係を断ち切り完全に世界から離脱できた「ホンモノ」の自分とはどのような存在なのか。それを定義するには自己の対象化が必要になるが観察者としての自己と観察対象としての自己は分断可能なのか?対象化している自分を対象化している自分を対象化している自分という無限のループが始まる。

自我を玉ねぎの皮のように剥いても何も出てこないのは、自我が評価関数であり何かを受け取ったときにどんなアウトプットを出すか、その時の固有性を指すからである。自分が何者かという答えは周囲の関係性なしには導きえないものである。その意味ではホンモノとは何者でもありうるが何者でもない。
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エブリン・ワン

エブリン・ワン

#箱男
不可解性から自分なりのテーマを紡ぐ思考遊び⑤

◾️ホンモノになるとは

箱は単に特定の個人が匿名性を得るための防壁ではない。それは本当に誰でもなくなると同時に誰でもありうる状態を獲得するためのツールである。
安部公房の思考実験的究極のデモクラシーは、すべての人が身分・性別・出身・貧富等の属性に関わらず完全に等しく扱われることで固有性が無くなり、「誰でもない存在」になることが「誰でもありうる」状態を生み出し反対に(属性で差別されることのない)主体性を得るというものである。
社会学者であるレイモンド・バトテンは1つの社会システムが安定して機能するための人口には上限があるとしているが、それは集団には所属する人間の顔が浮かび上がる範囲で、ある決定が仲間にどのような影響があるのかを皆が想像し気にかけることができることが条件となる。箱に入った人間は属性情報を完全に遮断している一方で、対峙する人間からすると、ひょっとすると自分の知っているあの人かもしれないという無限の属性の可能性を手にすることでこの条件を満たしている。

同じ街に2人目の箱男が出ることが許されないのは、1人目の男がその街で「誰でもありうる」ための条件を失うからである。

ここまで来ると現代の私達は、この誰でもないが誰でもありうる状態で世界の全てを部外者として覗き見ることのできる「ホンモノの箱男」に1970年代には無かった技術革新によってたどり着いたように思える。しかしホンモノになるにはまだ1つ足りないものがある。

映画の最後に「箱男はあなた(観客)だ」とのテロップがあるが、それは単純に私達のスマホ的な世界とのコミュニケーションを指しているのではなく、映画の世界から完全に隔離された立ち位置から映画を「観察」する完璧な観察者としての立場を指しているように思える。箱男がのぞき穴から執拗に世界を記録するのは実験における観察者の立場の如く観察対象(全体世界)と自分とを完全に切り離すための行動に思える。
映画世界は存在を登録されたもの(セット)の中で脚本通りに物語が進み、登場人物はどう足掻いてもその世界からは出られない。観客はそれらの登録から完全に自由である。
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