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マサヤス龍之介
#読書の星 #音楽本
☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
さて、牧村氏の手掛けたミュージシャン、お次は山下達郎である。牧村氏は昨日も述べたCM制作会社ONアソシエイツに入社していたが、牧村氏はまたもや、その上司になっていた大森昭男から新しいCMに起用するバンドor新人はいないか?求められ、迷わずシュガーベイブを推した。それが1974年のこと。牧村氏が初めてシュガーベイブを知ったのはその前年のこと。当時人気だった山本コータローから話を聞いて認識した。山本は自分のライブの前座でシュガーベイブを演奏させたという。これは山下達郎本人も証言していて、やまさんにはあの時のことは感謝している、と述べていた。程なくシュガーベイブの実演を青山タワーホールに観に行ったが、最初からその圧倒的なボーカルと巧みなコーラスワークに魅せられたという。それはそれまでの日本のどのバンドにも無い、コーラスの概念を覆すものだったと言い切る。当時はまだダークダックスやデューク・エイセスといった三声、四声が声質に合わせて役割分担するグリークラブ的なコーラスが主流だった中で、所謂ヴォイシングに力点を置いた新しい響きだったという。そもそもファルセット何ていう認識すら無かった時代である。流行歌の世界では灰田勝彦が戦前からやっていたことを当時の音楽業界は全く学んで居なかったという訳だ。だから当時シュガーベイブのプロモ時に「どうして女の子がいるのに、男が女みたいな声を出しているんだ?」という見当違いなことを言われた事もあるという。だから疲弊し切っていた音楽界に山下達郎はあらゆる意味での先駆者たり得たのだ。それは彼を見出した大滝詠一とも、引いてははっぴいえんどとも違う音楽性だったと牧村氏は断言する。それを実現出来たのには一にも二にも山下達郎の強烈な個性があったからだ。前述の青山でのライブではレパートリーが少なくて僅か1時間のうち、その半分が山下のMCに終始したという。まるで古典落語のように江戸っ子感丸出しに、とうとうと喋るその様は現在もOA中の"サンソン"を地でいっていたことだろうことは、容易に想像される。
つづく…。


マサヤス龍之介
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☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
さて、サブタイトルにわざわざその名を出すくらいだから大滝詠一については相当数の紙数が費やされている。その取り上げ方がまた実にいい。
項目に"ヒットソングの条件"とある。
そのものズバリで、なるほど本書のタイトルにこれはかなり肉迫している。
大滝が初めて取り組んだCM音楽が♫サイダー であり、その仕事についても経緯が詳述されているのだが、牧村氏はこの仕事ではただの紹介者と自ら自嘲して言っているが、大滝をONアソシエイツというCM制作会社の大森昭男氏に紹介したのがこの牧村氏である。大森は後にサイダー'73 と呼ばれるこの作品を気に入り数々のCM音楽を大滝に持ち込む事になる人物である。この'73 の演奏者達も牧村氏は記憶(或いは記録か)していて、およそそれはキャラメルママからティン・パン・アレーへと連なるメンバーとは程遠い原田裕臣(ゆうじん)のdsにアランメリルのb.そしてKBには元スパイダースの大野克夫らが引き受けていた。彼らはアルファの村井邦彦とミッキーカーティスが主宰したマッシュルームレコードのスタジオミュージシャンであった。こうした他流試合に大滝は割とすんなり打ち解けていったのである。そして、ヒットソングの条件とは、大滝がこのCMソングの作詞家伊藤アキラに「あ行で始まる詞でお願いします」と注文したのである。あ行で始まる詞はインパクトがある、というのは既に業界の不文律として定着した法則だったのである。大滝がその事を知っていたのか否かは不明だが、この大正末期から脈々と受け継がれてきた作詞原則論を敢えて伊藤に意識させたところに大滝の並々ならぬ才能を牧村氏も強く感じ取ったようだ。才能というかそうしたことをしっかり勉強していた、というべきか。はっぴいえんどとしての最後のアルバムはロスアンゼルスで録音されたが、その時も大滝は現地のエンジニアに質問攻めをした、という話もこの本の中で紹介されている。それだけ音楽で身を立てることに一際熱心で、マニアック魂に火が点いたら止まらないのが大滝の人間性を物語っている。


CIDER '73 '74 '75

マサヤス龍之介
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☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
ところが、出されたリストに載っていたのは牧村の周辺ミュージシャンばかりであった。このリストの中に山下達郎の名があったのは、まりやがシュガーベイブのファンだったからでこの頃は無論、何の関係性もない。そしていよいよファーストアルバム『BEGINNIXG』が誕生した。1978年のことであった。この頃の牧村周辺の年表がこの本の巻末に載せられていてとても有難い。前年の1977年には大滝詠一は念願だった自分が携わってきたCM音楽を集めた意欲作『ナイアガラCMスペシャル』をリリースした。山下達郎は2枚目のアルバム『SPACY』をリリースするが売れ行きは捗々しく無かった。大貫妙子も2枚目『サンシャワー』をリリース。山下同様余り話題にも上らずに終わった。大貫が青山の喫茶店で薄笑み浮かべながらまりやに語ったのは丁度この頃のことで、どんなに素晴らしい演奏でアルバムとしての完成度が高くてもちっともレコードが売れないと云う自分が置かれている状況を憂いてみせたのであった。又同様に山下もこの世界に導いてくれた恩人大滝詠一にレコードが売れないのは一時の流行しか追わない聴く側の問題だ、送り手だってちっともプロモしてくれない無い‼️と慟哭していたと云う。
78年になるといよいよYMOが結成される。加藤和彦はこの年アルバム『ガーデニア』をリリース。加藤はこの後牧村が本格的にプロデュースを手掛けることになる。細野晴臣はYMOと平行して自分のソロアルバム『はらいそ』をリリースする。後にYMOのファーストに所収された名曲♫コズミックサーフィン の最初のヴァージョンが収められているが、横尾忠則が手掛けたジャケが高い芸術性を表して話題となった。大貫は売れない現状を嘆きつつアルバムは意欲的にリリースしていて、YMOの坂本龍一がオールアレンジメントを施して名曲がズラリと並ぶ傑作アルバム『ミニヨン』が、坂本龍一も自己のファーストアルバム『千のナイフ』を出したところでYMO待望のファースト『イエロー・マジック・オーケストラ』が出された。
つづく…。









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☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
その声を聴いた途端、牧村は…彼女こそ探していたシンガーだっ!素晴らしいショック、とでも言おうか、少々の音程の狂いなんてまるで問題ない、その位その声に惹かれたのであった。竹内まりやのデビューきっかけの瞬間だった。
ロフトセッションズはプロ・アマの垣根は関係無かった。竹内はオファーをするとあっさりOKした。当時の竹内はまだ慶応大学生であり杉真理が主宰していたリアルマッコイズに所属してマックでバイトする普通の女子大生だった。そんな折に杉真理がビクターからソロデビューする運びとなり、竹内もコーラスで参加することになった。牧村が川原から渡されたテープはその時のものだったのだろう。竹内は回想する。
…私は三曲くらいコーラスをやらさせて貰ったんだけど、いつもやってた曲だったから、あっという間に終わっちゃって、もう少し歌いたいなあって思ったくらい。そしたらビクターの人が「はい、お疲れ様」って3万円のギャラをくれたの。「ゲゲッ!?」って思っちゃったよね。だって、あんなに汗水たらしてマックでバイトしたって、1万円貰うのはやっとのことだったし…。こんな楽しいことして3万円貰えるなんて「プロっていいなぁ」って皆で盛り上がったけど、決して私が行く場所じゃないと思ってた。…
竹内はこの時はまだプロになる気などさらさら無かったのである。そんな頃、牧村は竹内のソロアルバムリリースに向けて先ずはレコード会社探しから始めた。さしあたってはロフトセッションズの発売元であるビクターに相談した。しかし返ってきた答えは「どこがいいの?」だった。それでも粘ると、「ライブハウスレーベルものなんて、具にも付かないものを出してやってるのに!」と終いには怒り出す始末だった。そんな折にRVCレコードの宮田茂樹から「カレンカーペンターみたいな声のシンガー、いませんかね?」との相談があった!渡りに船で牧村は「カレン、日本にもいるよ」と、早速件のテープを聴かせたところすぐに「会わせて欲しい」との返答が返ってきた。こうしてレコード会社の問題はクリアした。
つづく…。






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☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
実際、売れるかどうかも判らないのに海外レコーディングを行い、海外のプロデューサーやアーティストと組むという条件を呑んでくれるレコード会社を探すのは現実的に困難だったが、そんな時に現れた2人の救世主が昨日紹介したお二方だった。レコードはA面をニューヨークで録音したものを、B面はロスで録音しようという運びになり、ニューヨークサイドのプロデューサーはフォーシーズンズのアレンジャーとして名高いチャーリーカレロに依頼したいと言う山下の要望を受けRVCの辣腕交渉人小杉理宇造が見事に期待に応えた。
カレロはニールダイヤモンドの♫スイートキャロライン やグレン・キャンベルの♫サザンナイト
など名曲のアレンジャーとして名を馳せたベテランプロデューサーでもあった。小杉がどうやってカレロを口説いたのかは不明だ。山下の書いたスコアを見てその才能を素早く見出したのか、はたまた有り余るほどのジャパンマネーで納得させたのか。ただこれだけははっきり言えるのは、ニューヨークでの録音後にギャランティーを牧村がカレロに支払う際に、カレロ本人から言われた言葉、「お前のマネーが俺に良いアレンジをさせた」。。牧村は…これがアメリカの音楽ビジネスか、と痛くカルチャーショックを受けたという。
ロスでの録音ではケニーアルトマンのbが加わってからはジェリーイェスターに山下本人もセッションに入り一同ノリノリで録音を終えられた。2度目のセッションでは計12時間に及ぶ白熱のレコーディングとなり、無事にレコード両面分の録れ高は埋まったという。
この山下のレコーディングを書きながら牧村はこの時代に大滝詠一や山下達郎らと出会い、彼らが愛したビーチ・ボーイズの音楽やその周辺のアーティストやプロデューサー、ミュージシャンといった人々の本場の音楽に触れて、音楽的スキルを高められたことが、後の自分の仕事にどれほどの恩恵をもたらしてくれたことか感謝しかないと書き、こうその項を締めくくっている。
『結局はいい音楽を作ることにしか未来はないと信じ合えた」と。
つづく…。




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☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
新書本はインパクトのあるタイトルが売りである。正に売らなければならないからだ。従って、こうすれば売れる!とか或いは竿竹屋はなぜ潰れないのか?みたいな、皆んなが莫と思っていることを炙り出して、その答え教えます!と云う風なタイトルは読み手の好奇心を刺激するのだろう。
この本もメインタイトルだけだったならば、恐らく買ってはいまい。サブタイトルに"大滝詠一"が冠に付く本と云うのが大きかった。また、著者の牧村憲一氏については、それ以前にシンコーミュージックから出ていたシティポップ本で、写真付きで牧村氏のインタビューが載っていたので知ってはいたから、信頼出来たのだ。が、こういう時流に即したタイトルはいかがなものか?と思いながらも取り敢えず買ったのだが、実際に牧村氏が過去に製作したアルバムや大滝詠一を始めとする、今では評価の高いアーティストについて製作者側からの視点であの時代の音楽を描いた、貴重な記録となっていた。決してヒットソングの作り方を教えるイロハを教えてはいない。ただ、時代をこえて高評価されているアルバムやアーティストらの音楽制作がどういったことで生まれ、アーティストは何を考えていたのかは、この本から確かに伝わる。この種の本がアーティスト側からの発信は確かに多いが、アーティストと共に制作に携わった人の本や資料は究めて少ない。そういう意味ではこのタイトルが、見掛け倒しに終わっていないことだけは確かである。
牧村氏がアマチュアの立場で音楽業界に携わったのは1968年のことだった。その頃はまだフォークソングでさえメインストリームではなかったが、グループサウンズのブームにも陰りが差して新しい音楽が出来つつある時代の端境期でもあった。そんな時代に牧村氏が音楽業界に飛び込めたのはいいタイミングであった。なんと言っても、今でこそあのフォークソングブームの代表曲と言われている♬神田川 の制作にも牧村氏は深く関わっていたからだ。そういう意味では牧村氏はフォークからニューミュージックと言った時代の音楽を制作し支えてきた功労者なのである。


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☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
牧村がシュガーベイブの音楽制作・広報担当
マネージャーをやる前の経緯も興味深く読んだが、それまで勤めていたCM制作会社ONアソシエイツを辞めて、丁度その頃泉谷しげるが新しい音楽出版社を立ち上げるタイミングと符号したこともあったが、牧村をやる気にさせたのは、泉谷の「儲けたお金は自分で遣うより、若い連中に遣って貰いたい」という崇高な志に打たれたからである。こんな話はこうした本で関係者が語らないと永遠に埋没してしまうだろう、泉谷本人は決して語りたがらない人だから。その名もパパソングス。
だが、実態は赤字続きですぐに継続不能に陥る。そこで牧村は新たにアワハウスとい音楽事務を設立した。通常、音楽事務所と言えばアーティストのマネージメントに終始するのが通例だが牧村はONで、CM制作に携わり大滝詠一の仕事を間近に見てその愉しさに魅了されたので、拘ってやってみたくなったのだ。
そしてアワ・ハウスとしての最初の仕事はシュガーベイブの2ndアルバムの制作であった。
シュガーベイブの1st.アルバムリリース後ナイアガラが契約していたエレックレコードが倒産するという不測の事態に陥り、シュガーベイブの2ndアルバムの話は宙に浮いてしまった。その時のナイアガラのスタッフへの山下の不信感があったという。契約やレコード制作の条件が明快でなく、エレック倒産の際の対応もないままだったという。そこで牧村がマネージャーとして山下と共に大滝の下を訪れ、ナイアガラから抜けさせて欲しいと要望をだし大滝も応じた、という。こんな話も初めて公表されたのではないだろうか?内部の人間しか分からない事情がこの本によって陽の目を見たのである。山下本人もこうした話は好んで語りたがらない。牧村の当時の立ち位置からしたらやはり表沙汰にするべき事柄だと思ったのだろう。誤解があってはならないが、これは大滝本人の問題ではない。大滝の事務所を運営していた当時のスタッフの問題である。大滝と山下との人間関係は大滝が亡くなるまで終生保たれたと信じたい。
つづく…。





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☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
前回から大分間があいてしまったが、又ぼちぼち再開してゆきたい。前回はシュガーベイブのとこまでだったから今回はその続き。山下達郎がいかに才能があるかについて牧村氏が語った所で終わってしまった。
大滝詠一にしろ山下達郎にしろデビュー当時はレコードだけではとても、生活してはいけなかった状況だったので、CMソングライターとして彼等の音楽キャリアが始まったのである。
シュガーベイブが大滝詠一の知る所となるエピソードに高円寺ムーヴィンというロック喫茶で伊藤銀次が山下達郎のインディーズアルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を聴いてビーチボーイズのカバーを山下が器用に唄いこなしているのに感心して、福生に帰って大滝に報告したというストーリーが語り草となっているが、この本の中で牧村はその辺の事情をかなり具体的に且つ欠落している未確認情報を綴っている。更に、大滝詠一のナイアガラプロジェクトの第三弾であるアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』についても当初は山下達郎はメンバーではなくセンチメンタルシティロマンスの告井延隆と伊藤銀次、大滝詠一のトライアングルで計画されていた事を克明に記している。そして何故告井から山下に変わったのかが、ここには書いてあるし当時の大滝詠一を巡る人脈相関図がはっきりと記されている。又、シュガーベイブ結成のキッカケも現在四ツ谷にある老舗ジャズ喫茶『いーぐる』が『ディスクチャート』と言っていた時分にそこであったことが、証言され、大貫妙子やドラマーの野口明彦らの人脈により結成されてゆく様がさらっと綴られていた。そしてその項に書かれていた一言は「物事はすべてリンクしている」であった。偶然に思えた高円寺ムーヴィンでの伊藤銀次のリスニングも仕組まれていた必然だったし、矢野誠が大貫妙子をディスクチャートに連れて行かなければ、山下達郎との出会いはもっと遅く、シュガーベイブは又別の形になっていたかも知れない。人の出会いにはそうした或る必然があるのである。
つづく…。





マサヤス龍之介
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☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
テイク・ワンという音楽事務所は、ジャズピアニスト山下洋輔のマネージメントをしていた柏原卓とはっぴえんどの事務所として有名?だった風都市の前田祥丈とで新たに立ち上げた事務所だった。一方、シュガーベイブの当初からのマネージャーだった長門芳郎(南青山の伝説のレコード店パイドパイパーハウスの後の店長)に1975年になり細野晴臣からマネージメントの依頼があり、長門は悩んだ挙げ句にシュガーベイブを柏原に任せることにして、細野のマネージメントを引き受けることにした。柏原は現場のこと出来るけども、制作や宣伝は一人で無理ということで牧村に声を掛けて来たのだろう、と牧村は推測する。そこから牧村がシュガーベイブのスタッフに加わることとなった。そして前回の話に繋がる訳だが、当時CBSソニーの洋楽部にいた元ランチャーズでリードギターを担当していた堤光生氏から「洋楽部で日本のアーティストをリリースする計画があるんだが、協力してくれないか」という依頼があり、渡りに船とばかりにシュガーベイブを推した所、堤氏もやりたいと言ってくれた。これでシュガーベイブの2ndアルバムを出す環境は整った。既に新曲も5曲程はあったという。ところがその最中の'76.1に突然シュガーベイブは解散してしまう。
こうなるとアルバムも何も御破算である。マネージャーの柏原氏から「このまま何もしないで解散は流石によくない」と提言があり、荻窪ロフトで解散コンサートが挙行されることになるのである。チケットは即完売、急遽2日間の追加公演が組まれることになるほど、シュガーベイブの人気は沸騰していたのだという。シュガーベイブ一つ取ってもこれだけの人々が関わっていたのであった。この辺の人間模様は山下達郎や当時のシュガーベイブのメンバーは当然知っていたのだろうとは思うが、解散のタイミングが余りに罪深い。だが、この本には触れられていないが、山下達郎はこのことをどう思っていたのだろうか?聞けるものなら是非伺ってみたいものだ。憶測だが、山下はもうバンド活動は懲り懲りだと思っていたのではないだろうか?



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☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
牧村憲一はシュガーベイブが突然の解散により暫くは途方に暮れたという。無理からぬことだ。
だが、すぐに頭を切り替えて解散コンサートの時に山下達郎と大貫妙子らにソロアルバムを提案した。山下にはナイアガラでは出来なかったインパクトを出す為に、思い切ってアメリカ録音を進めた。すると山下はほどなく、一緒にやりたいプロデューサーやミュージシャン達の候補を挙げてきた。
一方、大貫妙子はシュガーベイブあっての自分だという思いが強く、ソロでやるという想定すら無かったようであった。
牧村の山下達郎のファーストソロアルバムに関しての思いは並々ならぬ思いが籠っており、正に真剣勝負だったという。それは山下達郎という豊かな才能をもっと前面に押し出して、メロディーメイカーとしての資質を証明したいと言う決意、とでも言おうか。そしてそこにはもう一つの意図があり、それは洋楽ファン層へのアプローチであった。というのも、1976年当時、日本のサブカル界隈を取り巻く環境とそれを支えるファン層は、今以上に洋楽志向が強かったのだという。山下の紡ぐ楽曲には何処か日本人離れしたものが漂っており、それこそ洋楽志向のファン達に刺さる楽曲であると、これはもう牧村の触覚というか嗅覚の鋭さと本物を見抜く力であろう。
そんな折に山下の海外レコーディングに手を差し伸べる頼もしい人達が現れた。フジパシフィック音楽出版の朝妻一郎とRVCビクターの小杉理宇造だった。朝妻は早くから自分の好きなアーティストにスポンサーとして目を掛けて育てる明白楽で、大滝詠一なども彼がバックボーンとしてずっと下支えしていた。小杉はそれこそ、山下達郎のビジネスパーソンとして正に二人三脚でずっと歩を一に歩んできたのだが、このファーストアルバムでの奮闘振りは目を見張るものがあり、山下と意気投合してこの時より現在に至るまで山下の音楽環境を取り巻くあらゆる困難から山下を守り山下を援護してきた重要なパートナーの一人となる。そんな心強い人達の協力を得て牧村は山下と共にニューヨークに乗り込む。
つづく……。




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☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
竹内まりやのファーストアルバム『BEGINNIXG』のクレジットには竹内のあげたミュージシャン達の名前がズラリと並んだ。牧村の中では勿論、このアルバム1つで世の中を変えられるとは思って無かったものの、その先見性たるややはり確かだったのである。彼女は後に「昭和・平成・令和3時代で1位を獲得した初の女性アーティスト」となると同時に、「女性最年長1位獲得アーティスト」(64歳6か月)と云う偉業を達成する事になる。つまり、牧村の初心は完徹することになったのだ。彼女は正に時代を動かす吉田拓郎のような、いや、或いは吉田以上の存在になったと云うべきであろう。牧村は竹内まりやのオリコンチャートが右肩上がりに売れてゆく様(初期の頃)を観て、自分の願いは通じるかも知れないと竹内の爆発的ブレイクを予見したと云う。
また、若い時から苦楽を共にしてきたミュージシャン加藤和彦に竹内まりやのデビューシングルや初期作品を依頼して、加藤の云う「ヒット曲を書きたい」と云う願望が叶うことになる。加藤もアングラからフォークを経てギンギンのロックバンドをイギリスで成功させたのだが、クリエイターとしての揺るぎない自歩を築いたのは竹内まりやの作品を書いてからであった。又、竹内の2枚目のアルバム所収の楽曲(♬ブルーホライズン)を山下達郎に依頼して、その歌入れが済み山下もその時に立ち会っていた時の話だが、牧村プロデューサー以下スタッフ達は竹内の唄にかなりな好感触を掴んでいたのだが山下は「違う‼️」と言い実際に自分で唄ってみせてくれたのだが、牧村はシャッフルリズムの奥義を山下から学んだ様だった、とこの本の中で独白している。恐るべき山下達郎。その後竹内に再度唄って貰ったものは見違える出来になったのは言うまでもない。
つづく……。




ブルー・ホライズン

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大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
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次なる問題は竹内まりや本人への説得であった。牧村は自分の事務所アワ・ハウス近くの青山三丁目の喫茶店で竹内に、アルバムを作らないか?と提案した。その時たまたま外に大貫妙子が通り掛かるというドラマの様な展開になり、牧村は援護射撃して貰おうと店内に促した。大貫妙子の第一声は「何してるんですか?」だったという。訳を話すと大貫は笑いながら「辞めた方がいい、デビューは。レコード作っても、いい事なんかないんだから」……ガーン😵であった。
よりにもよって反対するとは…しかし彼女の嘘偽りない心境を思うと、牧村は二の句を継げなかったという。しかし牧村は同書でのこの箇所で大事な独白をする。竹内まりやの場合、単にいい声だから…というだけではなく、やがて彼女の存在はこの疲弊した邦楽界を活性化してくれるだろうと。つまりフォーク界に於ける吉田拓郎のような大きい存在になるという第六感が牧村には感じられたのである。吉田拓郎ようなというのは、吉田拓郎の人気によりそれが結果的に彼の周辺にいるミュージシャンたちにも恩恵をもたらしたことを意味していた。拓郎は自分がいいと思ったミュージシャンの曲を積極的にカバーしたりすることで、その存在を世間へと知らせる役割を様々な形で果たした。それと同じようなことを竹内に期待したのだった。大貫妙子がシビアな現実を伝えてくれたことで、竹内には逆に刺さったという一面もあったのかも?と牧村は振り返るが、結局その日は結論を出さず別れたのだが、次に会ったときに竹内は「この人たちにデビュー曲を書いて貰えたら、やってみようかと思う」と条件を出してきたのだった。そのリストアップされた布陣をみた牧村は表向きには深刻な顔をしながら、心中では快哉を上げていた。
加藤和彦、山下達郎、センチメンタル・シティ・ロマンス、細野晴臣、そして杉真理。
竹内はこれだけのラインナップは揃えられないだろうと、だから断るキッカケになるという思いで書いてきたのではないか?と牧村は書いている。
つづく…。




イメージの詩

マサヤス龍之介
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☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
1976年のオリコン年間チャートの第10位に食いこんで居たのが荒井由実の♬.*゚あの日に帰りたい
だった。TBS系のドラマ主題歌というタイアップも大きかったかも知れないが、ロックポップス部門では唯一のトップ10入りで累計61万枚以上を売上げた。正に快挙だった。この後もユーミンはアルバムを出せば10万枚は固いと言われ、同時期同ジャンルのアーティスト達は10万枚を目標に皆頑張ったのである。そういう決してメインストリームでは無かった時代から音楽を続けることの、如何に大変かはこの時代からロックポップスを提供し続けていた牧村達らには肌身に沁みていたに違いない。
ロフトセッションズは昨日述べた様な経緯と、時代は確実に自分達の方向に追い風が吹いていることを実感した牧村の最初の一手であった。
ロフトセッションズのレコード化に当たってはビクターが既に✋手を挙げていた。アルバム全体の構成を考えるとどうしてももう1人シンガーが足らない。そんな折、ビクターの川原伸司が一本のデモテープを渡してきた。「杉真理のバンドでコーラスをやっている子がいる」というのである。川原は当時ビクターでピンク・レディーの宣伝を担当していたが"出来る"人であり、後に大滝詠一と意気投合し、数々のレコードを制作、どれも不作だったがそれらの仕事が見事に昇華されたのが80年代に話題を振り撒いた♬.*゚イエローサブマリン音頭 に結実する。又、大滝の助言で川原は平井夏美名義で作曲もこなす様になる。その第一作が松田聖子に書き下ろした♬.*゚Romance だった。これは大瀧が聖子に書いた♬.*゚風立ちぬ のカップリングとして所収されて好評を博した。当時の歌番組でもB面楽曲にも関わらずよく唄われた。その後川原はソニーに移り井上陽水と共作した♬.*゚少年時代 が大ブレイク。異色の作曲家として注目された。川原の持参したテープに入っていたのはワンポイントマイクで録られたひどく聴きにくいものだったが、ワンコーラスだけ唄われたその声を聴いた牧村は確信した。






ハリウッド・カフェ

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☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
1976年10月1日から10日間に亘り、平野悠は新規開店させた新宿ロフトのOPイベントを挙行した。出演したのは荻窪を始め千歳烏山、西荻窪、下北沢まで展開させていたロフトの常連メンバーと全国で局地的に名を轟かせていた猛者達で今観ると豪華な面々である。大貫妙子、矢野顕子、ムーンライダーズ、センチメンタル・シティ・ロマンス、美乃家セントラルステーション、土岐英史、サディスティックス、難波弘之、村上ポンタ、田中章弘、紀の国屋バンド、ホーン・スペクトラム、徳武弘文ら錚々たる凄腕ミュージシャン達である。牧村はこれに新人の女性シンガーを組み合わせて新人歌手の登竜門にしてしまおうと画策した。何故女性シンガーだったか?というと、当時のロフトが圧倒的に汗と涙の男の世界だったからそのイメージを払拭したかったらしい。それによりロフトを ベースにしていたミュージシャンも売り出せる、という相乗効果も期待できた。
転じて1976年昭和51年の日本の音楽事情を垣間見てみると、この年のレコ大は都はるみの♫北の宿から 最優秀歌唱賞は八代亜紀の♫もう一度逢いたい 他大体の賞は演歌・歌謡曲が独占、最優秀新人賞には内藤やす子という布陣。アイドルでは西城秀樹、郷ひろみらが活躍、ピンク・レディーが♫ペッパー警部 で華々しくデビューしたのもこの年だった。売上的には子門真人の♫およげ!たいやきくん が独占、450万枚とも500万枚とも言われる売上はシングルでは未だに記録を破られていない。これだけ売れたのにも関わらずレコ大ではどの賞も受賞されなかった。答えは簡単でたいやきの方はライバル局のフジテレビの番組で流されたからである。公平性に欠けたこの賞が日本で唯一の大賞番組としてNHKでも翌日にニュースで報道される度に不思議な感覚に陥る。
当時の日本の音楽事情は演歌・歌謡曲と子供相手の楽曲だけにスポットライトが当たると思われるが、ロックポップスは翌年、更に二年後と右肩上がりに売上を伸ばしていく。その萌芽がこの年に既に出ていた。
つづく…。





愛は幻

マサヤス龍之介
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☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
山下達郎のファーストアルバム制作話の後、本書は大滝=山下の音楽上のスタンスの相違点を述べて、その後は山下が大滝亡き後に追悼番組を馴染みのラジオ番組で簡単にはやらない理由を明文化して山下の大滝愛が如何に深いかの理由を述べて、その章を締めくくっている。同時に大滝に関する記述もここで一区切りつけている。以後は牧村のレコードプロデュースの旅が始まる。先ず手始めはロフトセッションズという1978年にリリースされたオムニバスアルバムから始まる。これはシュガーベイブがライブの拠点にしていた荻窪ロフトで解散ライブを行った場所でもある「ロフト」の主宰者平野悠の「ライブハウスがレーベルを持ってもいいじゃないか」に賛同した牧村が制作したアルバムだった。平野が、ジャズ・シャンソンが中心だったロフトのプログラムをロックへと方向転換したのは時代を読む嗅覚が鋭かったからだろう。当時ロック専門のライブハウスはまだ希少だった。又彼は確たるポリシーを持ち合わせており「自分達は飲食代で稼ぐ。入場料でミュージシャンにギャランティーを払う」この当たり前とも云うべき商売の鉄則をかたくなに守る平野の姿勢に牧村は共感したのであろう。平野は出演するミュージシャンに入場チケットを売らせる様なことは決して無かった。だから、ミュージシャン達からの信頼も厚かった。現在に至るまで、出演ミュージシャンにチケットを売らせる本末転倒な商売をするライブ店主のなんと多いことか。
1976年当時の日本ロック地図はアウトローの音楽から又別のタイプの人々の参戦により、ロック=ポップスへと塗り替えられていた丁度過渡期であった。それはその前年にリリースされた邦ロックアルバムのラインナップを見れば納得的だと思う。それは山下達郎が比較的最近のテレビ番組で語っていた言葉に集約される。「僕が音楽をやり始めた頃は、僕を含めて本来音楽をやらない人種が大量参入してきた時代だった。」。
それまでのトレンドや固定観念に縛り付けられていたのは、誰あろう当時現役だった同業の先達らだったのだ。
つづく…。



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