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マサヤス龍之介
#GRAVITY昭和部
灰田勝彦 .26
さて、話は昭和17年10月、♯ 26で紹介した♫新雪 のレコード番号はA-4351だが、次の灰田のレコードが♫鈴懸の径 である。そして番号 A-2352は、♫新雪 の続き番号である。一瞬、アルバムか?と誤解してしまうが、そうではなくシングル盤としてのリリースだが、戦争で多数の歌手が慰問や或いは兵役に就く者も出た為、灰田がレコードリリースを盛んに出せるシンガーだったと推測出来る。が、シングル2枚同時リリースと云うのは同じビクターが、平成に入ってからもサザンオールスターズがやっていたので、存外ビクターの伝統商法なのかも知れない。♫鈴懸の径 は兄晴彦が書いた楽曲の中でも、最高傑作の誉が高い。
曲は三拍子のワルツ調、佐伯孝夫の詞もいつになく深淵ですべて一行七字で規則的であり、その行き方は純粋詩に近い。灰田勝彦が嘗て通った立教大学時代を彷彿とさせるもので、灰田のヴォーカルもいつに無く低く抑えられて改めて灰田がバリトン歌手であることに気付かせてくれる。これは所謂、セミクラシックとしても通用する世界を
持った楽曲であり戦後この歌は、海を越えて海外でも♫アワ・ラスト・サンライズ と改題されてビリーボン楽団、オスカーピーターソンらがリリースして、我が国では若きクラ奏者鈴木章治率いるリズムエースのテーマ曲としても、馴染深い。
1982年10月26日、灰田勝彦は天に召される。
その丁度1週間後の11月3日に母校立教大学の構内にこの歌の歌碑の除幕式が行われた。灰田はこの歌の創唱者として、歌碑に刻まれた歌詞の文字を書き無論、当日はその歌碑文字をプリントしたTシャツを着て式に出演、この歌を歌うと云う最大のハイライトが予定されていたが、遂に病魔には勝てず、当日は兄有紀彦(戦後に晴彦から改名)が出演した。晴彦がこの歌のモティーフを書いたのはずっと以前の昭和11年に遡る。中野駅から高円寺に向かう線路沿いを歩いていた時に、湧いた曲想らしい。
つづく…。

鈴懸の径

りょん🍏🍏🍏
VTuberの人
漫画家さん
天皇陛下
美輪明宏
鈴木章治
会いたい人いっぱいいるよ。絞れませーん
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