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k(CV:五ェ門)
勤め先から睨まれぬように。
世の中で理不尽なことが起こり、腹の立つことがあっても、新聞や月刊誌の読者投稿欄に、自分の名前を出して意見投稿するようなことは一度もなかった。
先日、先輩を訪ねた際、
「今、新聞の読者投稿欄に投稿するとしたら、職業『無職』ですよ」
と答えた。
先輩からは、
「自営業は、しがらみないから。自分で全て責任取らないといけないけど」
と言われた。
そう。
私がどこで何を発言しても、私自身の責任で済む。国際問題にでも発展するような大きな話でもなければ。
「お前、あんなこと言うな」
などと勤め先から発言を封じられることはない。
ただ、それをやれば、もはや勤め人には二度となれぬだろう。
不退転。
世間の人が今の私を呼称するとすれば
「引きこもり」
それ故、お日様の下に出てきなさいと。
先輩は、私を畑作業に引っ張り出そうとしてくれている。
#無職 #引きこもり

k(CV:五ェ門)
犯人とされる人は、同世代だ。
その人が手にかけた子どもたちの年齢が少し幼いとの指摘が、ネットニュースの読者投稿欄で目に留まった。
人によっては、子どもが成人していてもおかしくはないからと。
そうなのだ。
私は、急に自分が恥ずかしくなり、その他のコメントを読み進めることをやめた。
その気力が失せた。
地位や立場が、人の意識を形成する。
私は、親になる道を辿らなかった。
結果、未だに幼稚なまま、みっともない生き方をしている。
ただ口を開けて、腹が空いたと餌が運ばれてくるのを鳴いて求めるだけの雛鳥だ。
親とは、必ずしも、誰かと婚姻して扶養家族を形成することばかりではない。
確かに、この国では非婚化が進んでいる。
しかし、問題は、その事自体ではない。
社会が、人々が幼稚になっている。
利他ではなく、利己。
そこに自分しかいない。
私自身がそうだ。

k(CV:五ェ門)
全く頭になかったが、改めて言われれば、今更驚くことでもない。
何から何まで物価高騰が起きている我が国において、引越代だけ据置きで済むはずがない。
ただ、気になったのは、その中身であって、前回までの引越時と現在とでは、かなり状況が異なる気がする。
この国は、我々は、本当に貧しくなったのだと実感せざるをえなかった。
我々はというのは言い過ぎか。
”私は”と訂正しておこう。
左うちわの人だっているかもしれない。
繁忙期か否かでももちろん金額は大きく変わるだろう。
しかし、時期を問わず、目を疑うような見積もりが出されるような予感がして、今から憂鬱になる。
”引越代を抑えるために荷物を減らす。”
読者投稿欄には、同趣旨の意見がいくつも載っていた。
今後はもう”物を持たない”ということであれば、まだ分かる。
しかし、まだ使えるもの、使用中のものを処分するのは、気が重い作業だ。
亡命、夜逃げ。
そういったやむにやまれぬ逃避行の際の発想だもの。
楽しいわけがない。
それでも覚悟して物を手放す。
そこまでする以上、もう新たな物は持てないね。
手放した物に申し訳ないから。
一つひとつの物が、まるで命と魂を持った生き物のようで。
だからこそ、こんなにも胸が痛むのだろう。
”単なる物”だなどと割り切れない。
もしも、右から左へとぽいぽい捨てられるようになったら、そのことの方が恐ろしい。
一度失った感情、愛情を取り戻すのは容易ではなかろう。
いとかなし。

k(CV:五ェ門)
読者投稿欄の中のあるコメントにて。
現在67歳と称する筆者が、自分の余命をあと20年と見込んでいた。
正直、意外に感じた。
一方、別の投稿者が、独身男性は皆、年金受給開始前にバタバタ亡くなっていくと述べていた。
こちらの方が実感に近い。
結果的に生き長らえる人はいる。
近年、ネットニュースで著名人の突然死をよく目にするが、ああいった特殊事情でもないかぎり、医療・介護の世話にさえなれれば、人は、ぎりぎりまで生かしてもらえることだろう。
私の母は、体の弱い人だったとは思わない。
むしろ、健康に留意して生きてきた。体が衰えないように、健康増進にも努めていた。
そんな母に対してですら、私は、子どもの頃、明日にでも彼岸に渡ってしまうのではないかとの根拠なき恐怖におののいていた。
父が若くして失意のうちに死去したことが、私のトラウマとなったのだと思う。
少年期から青年期にかけて、体に異変が見つかるたびに、母は私の癌を疑った。
不思議なことに、私自身、その指摘に対しては、「ついに来たか。まあそうなんだろうな」と、他人事のように達観して受け止めていた。
結局、いつも肩透かしで終わってきたのだけれども。
母の心配とは裏腹に、当の私は、他人様のように長生きすることはできないのだろうなと思いこんできた。ずっと。
死の影の色濃い人生を送ってきた。
それでも、ある時、父が亡くなった年齢を追い越してしまった。
あっけなかった。
亡くなる時、父には三人の子どもがいた。
同年齢の時、私はひとり。今も変わらず。
人生に遅すぎることはないという言葉をよく聞くが、こればかりは、もうどうしようもない。
続く

k(CV:五ェ門)
調達担当職員らは、関連文書について「見たことがない」と口を揃えたという。
また、統括した厚労省職員は、「チーム内の意思決定は口頭だった」「結果責任を果たすためにもプロセスに時間を割く余裕はなかった」と述べたという。
少なくとも、後者職員の弁については、半分は正しいのだろうと思う。
現場の最前線でそういう側面があったであろうことは、否めない。
しかし、そのことによって後日生じるであろう問題を彼らが知らぬはずがない。
要は、確信犯なのだ。
私は今、一次資料ではなく、投稿記事の引用に基づき私見を述べている。
従って、事実を必ずしも正確に押さえた上での意見ではない。
しかし、本件においては、少なくともいくつかの階層において、処分を受けねばならぬ者がいて然るべきだ。
現場の担当職員、直属の上司、所属長、そして、担当職場に無理を強いた事務方のトップ、更にそもそもの命令を下した担当大臣。
もっとも、これらの最終責任は、総理であった安倍晋三氏にある。
話を戻す。
現場の担当職員らが、「関連文書は見たことがない」と答えていることについては、私はこの関連文書なるものの定義次第では、否定されうる回答になると考える。
彼らが意思決定の伺いを起こさなかったとしても、物品を調達すれば、納品、請求関連の文書は業者側から提出を受けるはずだ。いくらなんでも、それらまで目にしたことがないはずはなかろう。
400億円にも上る調達であれば、決裁権者も相当上の職責の者になるのではないか。
それらを全てすっ飛ばして現場で処理をした。
その言葉を真に受けるならば、これまた相当大きな処分を受ける事案になるはずだ。
いくら何でも、その程度のことぐらい予想できなかったわけではあるまい。
その処分を受けたとしても、まだその方がマシだと思える重いものが片方の天秤皿に乗っていた。そう考えるのが自然だろう。
「本件については、『見たことがない』という見解でいくぞ」。
そう口裏を合わせることぐらい、わけない。
それだけのプレッシャーが現場にはかかっていた。そして、それは今も変わらないと。
そんなことをしたら割に合わないと思うだけの厳罰が必要だと思う。

k(CV:五ェ門)
母と同世代の著名人の訃報を見聞きするたびに、母より高年齢の著名人の活躍をあえて見るように努めた。
「ほら、こんなに元気な人もいる。うちの母だってまだまだ大丈夫だ、きっと」と。
中尾彬の訃報は、ショックだった。
当然、母のことが頭に浮かんだ。
少し憂鬱になった。
そして、その翌日の夜だ。
母の訃報を故郷の警察署から知らされたのは。
中尾彬の訃報をネットニュースで目にしたのが5月22日。
母の死亡推定日も同日だ。
止めよう。
野村宏伸ではないが、私にもどうしようもなかった。
関係者は皆、大なり小なり傷ついている。きっと。
私のフォロワーさんの中には、まだ若い方もいらっしゃる。
あまりピンとこないかもしれないが、その人が、明日も変わらず隣にいることが決して当たり前ではない。
ご家族はもちろんのこと、周りの人についても、大事になさってほしい。
一期一会の気持ちで。
偉そうだね。

k(CV:五ェ門)
店の性質上、価格引き上げをするわけにもいかぬからと。
ネットニュースの読者投稿欄には、価格を引き上げてほしいとの書込みも多々見られた。
馴染みの店のことを思い出した。
私は、外食をせぬようになって久しい。
理由ははっきりしている。
お金がないから。
価格引き上げしてもらっても構わないが、私はもはや行けないよ。
だから、価格引き上げへの賛否論争には、加わる資格すらない。
かつて、この国には、「貧しい人にも腹いっぱい食べさせてやりたい」ということをモットーとした大衆食堂がいくつもあった。
「価格を引き上げてくれ」というのは、その店の思いと両立し得ない。
「安くない」時点で、その店は存在意義を失い、自身の店の原点から外れるからだ。
これまで何度も書いてきたが、私自身の実感として、二十年前よりも生活が苦しい。
その時点における預貯金の有無というようなことではない。
目の前の物に付けられた値札に対する抵抗感と恐怖感だ。
スーパーの中で呆然と立ち尽くす人々の脳裏をよぎるのは、正にそれではないのか。
二十年前、スーパーで買い物をしたり、大衆食堂に入って恐怖を感じるようなことはなかった。
当時の私は、今の私よりお金を持っていなかったにも関わらずだ。
どうぞ引き上げてくださいと言うのは構わないが、そう言う人は、それでも店に足を運んでやるのだね。
結果、客足が遠のき、閑古鳥が鳴き、店が潰れるとなれば、その店にとっては余計な一言でしかなかったことになるから。
誰かが言っていた。
外食は、誰もがすべきものではない。
外で食べるお金がないのであれば、自炊すればよいと。
間違っていないと思うが、それならば、やはりこの国が全体として貧しくなったということではないか。
外食が、一部の富裕層しか楽しめないものとなったということであればね。
その意味で言えば、大衆食堂なり、立ち食い蕎麦屋なども、この国では存在しえない業態ということになる。
値上げしろということは、大衆食堂の看板を下ろさせることだから。
無責任な助言だと思う。
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