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マサヤス龍之介

マサヤス龍之介

岸辺🏝の100冊 # 7-3

#読書の星 #音楽本


☆『「ヒットソング」の作りかた
大滝詠一と日本ポップスの開拓者たち』
/ 牧村憲一 NHK出版新書 2016 第一刷
さて、牧村氏の手掛けたミュージシャン、お次は山下達郎である。牧村氏は昨日も述べたCM制作会社ONアソシエイツに入社していたが、牧村氏はまたもや、その上司になっていた大森昭男から新しいCMに起用するバンドor新人はいないか?求められ、迷わずシュガーベイブを推した。それが1974年のこと。牧村氏が初めてシュガーベイブを知ったのはその前年のこと。当時人気だった山本コータローから話を聞いて認識した。山本は自分のライブの前座でシュガーベイブを演奏させたという。これは山下達郎本人も証言していて、やまさんにはあの時のことは感謝している、と述べていた。程なくシュガーベイブの実演を青山タワーホールに観に行ったが、最初からその圧倒的なボーカルと巧みなコーラスワークに魅せられたという。それはそれまでの日本のどのバンドにも無い、コーラスの概念を覆すものだったと言い切る。当時はまだダークダックスやデューク・エイセスといった三声、四声が声質に合わせて役割分担するグリークラブ的なコーラスが主流だった中で、所謂ヴォイシングに力点を置いた新しい響きだったという。そもそもファルセット何ていう認識すら無かった時代である。流行歌の世界では灰田勝彦が戦前からやっていたことを当時の音楽業界は全く学んで居なかったという訳だ。だから当時シュガーベイブのプロモ時に「どうして女の子がいるのに、男が女みたいな声を出しているんだ?」という見当違いなことを言われた事もあるという。だから疲弊し切っていた音楽界に山下達郎はあらゆる意味での先駆者たり得たのだ。それは彼を見出した大滝詠一とも、引いてははっぴいえんどとも違う音楽性だったと牧村氏は断言する。それを実現出来たのには一にも二にも山下達郎の強烈な個性があったからだ。前述の青山でのライブではレパートリーが少なくて僅か1時間のうち、その半分が山下のMCに終始したという。まるで古典落語のように江戸っ子感丸出しに、とうとうと喋るその様は現在もOA中の"サンソン"を地でいっていたことだろうことは、容易に想像される。

つづく…。
GRAVITY
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