的を得る/射るのどちらが誤用かって話は微妙なところで、古代中国の経典、礼記の「不失正鵠」という言葉が由来だと思うけど、これは「正鵠を失わず」つまり的の中央に当てるという意味。失うの逆は得るなので、正鵠を得る、つまり的を得るでも必ずしも誤用とは言えない。日本語としては的は射るものなんだけど、そんな細かいことを言い始めると「的を射っても外したら意味ないじゃんw」とも言えるわけ。もちろん、ここでの「的を射る」は、的を狙って矢を放つという行為のみではなく「目的のものに命中させる」という意味も含まれているので、「的を射る」即ち「矢を放って目的のものに命中させる」という解釈も間違っているとは言えない。こういう意味の微妙なズレは比喩が原因で、比喩の中に換喩というものがあって、それは原因と結果、手段と目的みたいに、意味が隣接するときにそれを交換する表現。たとえば、「自転車を漕ぐ」は厳密には「自転車のペダルを漕ぐ」なんだけど、前者を誤用だって言う人は滅多にいない。ペダルを漕いだら(原因)自転車は進む(結果)という構造。「鍋を煮る」も正確には「鍋の具材を煮る」だし、例を挙げたらきりがないけど、みんな普通に使ってる。この現象は「時代によって言葉は変わる」とかいうものではなく、比喩表現。的を射るのは、的の中央に当てることを目的とする手段だから、「的を射る」=的の中央に当てる、と解釈することも間違っていない。同様に、「的を得る」=的の中央に当てる、と解釈することも間違っていない。「的を得る」が誤用だって騒ぐのはただの言葉狩りだし、「時代によって言葉は変わる」って反論するのは、便利な一般論を安直に信じる短絡的な行為。後者は特に、インターネットにおいては避けたい行為だよね。