自分で主体的に計画し行動したことであれば、かなり正確に記憶しておける。しかし、他者主導の行動の場合、自分の関与がその分減るため、記憶が曖昧になることが多い。手元に残る数年前の写真を見ても、そこに行ったという事実だけは覚えているものの、なぜそこに行ったのか、その動機、きっかけがすっぽり抜け落ちていて思い出せぬものがある。家計簿などを見て、手がかりを探すが、確たる記述がなく、真相が分からずじまいだ。そこには大抵、母が関与している。母が生きていれば、尋ねれば一発で答えが返ってくる。だが、もはやその母はいない。こんな時だ。日記を残しておけばよかったと後悔するのは。私は元来記憶が良かったと自負している。昔の出来事、体験をよく覚えていた。しかし、近年、その記憶が非常に曖昧になってきた。また、今起こったことを覚えておけなくなった。すっぽりと抜け落ちる。こうやって、手がかりを残しておかねば、次々と忘却していくことだろう。それが本当に起こったのかどうかすら、分からなくなってしまうから。数年前、母に言われた。「もうそんなに無理して覚えておかなくて良い。今まで必死に沢山頭に詰め込んできたのだろう。もういいよ」と。母に認知機能の衰えの症状が現れる前であり、私自身が若年性認知症を疑っていた時期のこと。私もこれ以上若い時のように脳を酷使しようとは思わない。ただ、記憶に頼らぬ以上、記録せねば。ライフログしかり、日記しかり。それが、私の生きた証、私がこの世に存在したことの証だから。#日記