昭和流行歌総覧 ♯ 39#GRAVITY昭和部 灰田勝彦 .34 高木がフランスを目指したのには、東京音楽学校の尊い先輩、山田耕筰が先んじて仏国入りしていたからである。1930年代前半、高木は自国と違い自由な気風で芸術家を志す者にはお誂えな仏国の空気が堪らなく風雅の極みに映った。或る日、高木はその頃流行っていたダミアが歌う♫暗い日曜日 を聴いて衝撃を受ける。この物憂げな曲に魂を抜かれた。その感動を告げたくてダミアとの知己を得る。以来、高木はクラシックのみならず流行歌にも魂を揺さぶるものがあることを知る。 しかし、高木には日本の流行歌はどうしても馴染むことが出来なかった。あの独特のヨナ抜き短音階が好きになれなかったのである。やがて戦争が始まり昭和17年に入り高木の下にも軍歌の依頼が来る。高木は回想する。「僕はね、あの頃のラシドレミファ(短調)で始まる威勢のいい軍歌が大嫌いだった。だからどうせ書くなら思い切り明るい調で書いてやれ!ってね」。当時のビクターがオリジナルの♫空の神兵 に飽き足らず、灰田に吹き込ませた気持ちはよく判る。この明るい調子の軍歌がこれ以上似合う歌手は灰田以外に居なかったからだ。昨日のSpotifyのアップを改めて聴いて欲しい。 話は前年、昭和18年に遡るが、東京放送局(現在のNHK)が主催していた国民歌謡用にビクターの佐伯孝夫の作詞、コロムビアの古関裕而に作編曲を依頼した。それが♫ラバウル海軍航空隊 だった。 これは灰田の代表的な軍歌として戦後も長く歌い継がれた。放送局の思惑はレコード会社の厳しい専属制度とは関係無く事は運んでいったのだが、流石は和製スーザの異名をとる古関だけあって実に馴染み易い明るい軍歌であり、放っておくには勿体ないと禁を破ってビクターが翌年19年2月にリリースしてしまう。灰田もこの楽曲を気に入って老齢になってから出演したラジオ番組でこう回想する。「佐伯さんの詞が軍歌の中に、…胸に刺した 基地の花も にっこり笑う ラバウル航空隊 と云う一節があり、ホッとする実に素晴らしい歌でした」と云うエピソードを語っていた。 軍歌を紹介しながらこうしたことを書いたのは、矢張り何より平和が一番であるからである。日本人は戦争が日常的にあることがそんなにいいのだろうか?防衛力の増強はそれへの第一歩である。つづく…。