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マサヤス龍之介

マサヤス龍之介

昭和流行歌総覧  ♯ 30


☆名編曲家・篠原正雄1️⃣

昭和初期…なんとも怪しく華やかで又、これ以上ない甘哀しい響きの時代語はない。
明治、大正と時代は進み一方では軍隊が権力を持ちつつあった危ない時代の入口ともなってしまったのだが、他方アメリカやヨーロッパから過分な文化をストレートに吸収して日本独自の文化を形成しつつあった。
大正天皇があんなに若くして崩御されなければ…つまり大正年間がもっと長く続いていれば、昭和 という時代語句もなく昭和の戦後と呼ばれた時代くらいまでは大正天皇は生きられたかもしれない。そして昭和天皇と呼ばれた裕仁親王は昭和30年前後くらいに即位されてもっと別の名の裕仁天皇の時代があと30年程続いて現代の所謂平成時代に繋がったので有ろうか?
大正天皇が存続しておられても大東亜戦争という名の戦争は起こったで有ろうか?その前の三国同盟もあっただろうか?
歴史にもしは無いのだが、もしあの時あーしていれば、こーしていれば、という想像は歴史家の磯田道史さん辺りに任せて、その昭和初期にマイナーレコード会社のニットーレコードと言うレーベルを巡るお話をしよう。

そのレコード会社に専属で編曲、作曲家として所属していた篠原正雄と言うとても優秀な音楽家がいた。
明治27年生まれと言うからまだ世界が19世紀だった時代に生を受けた御仁だ。
明治時代が終わりを迎える頃に東京音楽学校を卒業するが、彼はクラシックの素養を身につけ最初ジョバンニローシーが主催した赤坂ローヤル館で歌劇の指揮者として働く。
ローシーは我が国の歌劇場としては恐らく初となる帝国劇場から招かれてイタリアから夫人と共に来日して帝劇の礎を築くことになる指揮者だったが、3年間の契約満了を機に一念発起して赤坂に自前の劇場を旗揚げした。
それが「ローヤル館」だった訳だが、帝劇の山本久三郎専務は、"無謀過ぎる"と猛反対したがローシーは頭角を現していた田谷力三、高井ルビー徳子など優秀な人材を集めたが篠原もローシーの下で指揮編曲に熱中した。

つづく…。



※ フレームは指揮中の篠原正雄、ローシー夫妻、浅草オペラ出演中の田谷力三、高井ルビーの順。
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