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『ジョルジュ・バタイユ』

Twitterで「そう言えば昔(80年代)マダムエドワルダってポジパン(意味が分からない)バンド居たが多分バタイユは読んでない(笑)」と書いたら熱狂的なファンから「JIN様はバタイユ読んでますよ!」と唐突にDMが来た。どうやらまだ活動しているらしく未だにポジパン(意味が分からない)メイクで同じ様な事をしてるらしい。多分僕より年上のおっさんが。バタイユを読んでいる事になんの意味もないって皮肉だったのだが、ああいったゴシック系のバンギャに通じないのは良く知っている。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルでもマルキ・ド・サドでもギー・ドゥボールでも良いけれど、僕は海外文学(特に哲学を跨いだ)をほとんど読んでいるが理解はしていない。いや、理解していても、その解釈を自分で疑っている。何しろ違う言語で書かれ間に翻訳者の解釈が入った時点でなんの意味も無いと思っている。

谷崎潤一郎の流麗でブレスの長い陰湿なぬらぬらと輝く文体を英語やフランス語に翻訳したら、全く、何一つ意味が無いだろう。

「知っている」事と「理解している」事は別だ。「理解している」事と其処からインスパイアされ新しい物を作り上げる事も別の話だ。

僕が古典落語の熱狂的なファンなのは、噺をみんなが「知っている」からだ。「理解している」からだ。この状況下で噺家達は、自分の解釈の視点と演じ方を競わなければいけない厳しい世界で、これは芸事、芸術に丸裸で挑む特異な文化だと云う所に異様な魅力を感じている。

多分、僕にもっと教養があれば、オペラや能を楽しむ事が出来るのだろうけれど、残念ながら僕の教養は吝嗇窮まりない。

PS、昔、横浜大学でロシア語の非常勤講師をしていたエカテリーナに「ナボコフの小説はまだしも、詩なんて母国語で読まなければ意味ないでしょう?」と聞いた事があった。答えは「確かに響きや意味合いの美しさは損なわれるけれど、ナボコフ自身ロシア語を捨てて英語で書いてた時期もあるし、新しい違う流れが出来てて日本語で読むのも楽しい。」だった。エカテリーナの日本語力は、僕が知っている外国人(有名人含む)の中で一番達者で、何しろ田山花袋(!)を旧語体のまま読んでいた。

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