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甲斐性無しの甲斐の人

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花倉城

グラ友さんが今川義元を討ち死にさせていたので、私は彼の出世の道を辿ろう
今川家当主氏輝とその弟彦五郎が一度に急死すると、その弟でいずれも仏門に入っていた栴岳承芳と玄広恵探が後継者の座を巡り対立
今川館の制圧に失敗した玄広恵探はこの花倉城に入ったが、新たに今川義元を名乗った栴岳承芳に敗れて自刃したとされる
この花倉の乱に勝利した今川義元は家中を統一し、名軍師太原雪斎の支えの元で飛躍していくことになる

お城としては市街地からかなり離れた山城で、堀切や空堀、土塁などの遺構が残り、眺望は遠く駿河湾まで望める気持ちの良い城跡だった

#一日一城
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松平城

松平家発祥の地、松平郷にある城。
松平氏の始祖である松平親氏の築城とされる。
曲輪はかなり整備はされていて歩きやすかったが、冬に行っても藪になっている場所もそれなりにあり、井戸跡を探して道に迷ってしまった。
城跡そのものより、松平郷にある松平東照宮の天井画に感動した記憶が強い。

#一日一城
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挙母城

七ヶ国を見渡せる高台にあったことから、またの名を七州城という
水害により桜城の築城を断念した挙母藩が、水害を避けるため高台に築いた城
遺構は多くはないが、櫓台の石垣があり櫓が復元されていた

#一日一城
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茅ヶ崎城

名前は茅ヶ崎城だが、茅ヶ崎ではなく横浜にあった
どうやら小机城の支城らしく、立地で考えても距離的に違和感はない
綺麗に公園化されていて散策しやすく、各曲輪や切岸、土塁、空堀などかなり明瞭に残されていた
横浜の市街地にあって、遺構がここまでしっかり保全されているのは驚いた

#一日一城
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甲斐 新城

しんじょう かと思っていたら にいじろ と読むらしい。
武田家が躑躅ヶ崎に館を移す前、石和に川田館を構えていた頃の詰城だったという説もあるが、確たる証拠はないようだ。
そもそも川田館の明確な位置もわかってないらしい。

大蔵経寺山の山頂あたりが城域だったようで、明らかに削平された場所や人の手を感じる段差もあるが、全体的に明確な遺構は少ない。
最大の見所は岩場を越えた先の堀切で、一本しかないものの規模は大きく、写真では迫力が伝わりにくいがかなり壮観だった。
城跡の眺望は皆無だったが、登山道の途中にある展望台の景色は良かった。ただ思ったほど桃の花が見えなくて残念だった。
桃の花目当てっぽい登山者もそこそこ見かけたのだが...

#一日一城
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小坂城

こさか かと思っていたが おさか と読むらしい。
常陸の大名小田氏の支流岡見氏の城。
案内板によると、この小坂の地に敵対していた近隣の勢力である江戸崎土岐氏方の泉城城主東条重定が侵攻してきて、小田軍と戦になったようだ。
小田氏治が後詰として救援に来たようで、決戦になり結果東条重定を討ち取る大勝利を収めた。
よく弱い戦国大名の代表例として名前の挙がる小田氏治だが、単純に負けた相手が上杉謙信や北条氏康、佐竹義重といった化け物級のメンツだったから、ということだろうか。

城の遺構も良く手入れがされており、縄張り時代はコンパクトな構造ながら、堀や土塁が複合的に組み合わされていてとても見応えがあった。

#一日一城
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甲府市 勝山城

勝山城という城は日本全国いたるところにあるようで、甲斐国にも二つありそのうちのひとつ。
中道往還の近くにある小高い丘につくられた城で、沼田に囲まれ防御性が高かったようだ。

この城は歴史上三度表舞台に現れる。
一度目はこの城の築城者でもある油川信恵による武田家の家督相続をめぐる坊峰合戦で、これに勝利した武田信虎は武田家当主の地位を固めていった。
二度目は今川家による甲斐への侵攻で、このとき今川軍の拠点として使われたが、結局今川軍は兵力では上回っていたものの合戦で敗れて退いた。
そして三度目は武田家滅亡後の天正壬午の乱で、信濃から迫る北条軍に備え、徳川軍では服部半蔵や伊賀衆が勝山城に入り修築したとのこと。

歴史上何度も登場する城ではあるが、現状ではほぼ遺構は消滅していた。
わずかに虎口のような地形や登城路などが面影を残すが、大部分は農地として改変されていると思われる。
沼田めぐり攻めるにかたし勝山城 と記された石碑があるが、沼田市の沼田ではなく周囲を沼のような田がめぐっていたということらしい。

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持舟城

駿府周辺を守る山城のひとつ。
築城年代は不明らしいが、今川氏が駿河を統治していた時代にはすでにあったとされる。
現在の用宗という地名は持舟が転化したものとも。
武田家が今川家から駿河を奪うと、水軍の拠点として重要視されたようだ。
駿府周辺にある山城の中でも特に激しい攻防が行われた城で、武田家と徳川家で支配権が何度か入れ替わっている。

遺構を観ると、大まかに本曲輪と二の曲輪のふたつの曲輪が中心となった城のようで、その間には大堀切があり曲輪が断ち切られている。
また尾根筋上には腰曲輪のような削平地が段々にあるが、城の遺構なのか近年果樹園として使われた時につくられた農業遺構かは見た目だけでは判断がつかなかった。
晴れていれば城跡から富士山まで見えるらしいが、あいにく見えなかったものの眺望はとても良く、港も市街地も一望できた。

#一日一城
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龍岡城

日本で二つ という謳い文句の城。
実際には龍岡藩は城を持つことが許されない小藩だったため、厳密には陣屋らしい。
小藩ながらも幕末の動乱に備え、城郭オタクだった藩主が当時の最先端城郭である星形稜堡を築こうとしたようだ。
しかも相当にこだわりが強かったようで、石垣には切込接の中でも特に格式が高いとされる亀甲積みが採用され、周囲を堀で囲っていた。
しかしこだわりの強さは小藩の身の丈に合っていなかったようで、途中で予算も労力も足りなくなり、さらに情勢も緊迫化したため急いで完成させるために、次第に石垣は野面積みになり堀もつくらなくなっていったそうだ。

私が訪問した時は城跡に学校が建っており、唯一の現存する建物である御台所を遠巻きに眺める程度だったが、現在はその学校も廃校になり、校舎を撤去して城跡の復元を進めているらしい。
野面積みの石垣も学校の藪の中にあったため見学しなかったが、整備により観られるようになるのだろうか。
過去に行ったときは山にある展望台から眺めるのが一番雰囲気を感じられたが、再訪してみたい城だ。

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七戸城

八戸南部家の支流、七戸氏の居城
七戸氏は九戸政実の乱に加担し共に滅亡した

城跡の規模はかなり大きく水堀もあり、壮観な切岸が見え、立派な東門も再建されていたが、各曲輪に積もった雪の量が凄まじく、あまり散策はできなかった

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甲斐 富田城

甲斐国内の統一を目指す武田信虎に対し、反発した甲斐国内の国人衆の一部は今川氏に救援を求め、結果今川家の重臣福島正成が8000とも15000とも言われる大軍で甲斐に攻め寄せた
その時に攻め落とされ、今川軍の甲斐国内における拠点となった城
その後、北上して甲府を狙った今川軍だが兵2000をかき集めた武田信虎に飯田河原の戦いで敗れ、態勢を立て直してもう一度挑んだ上条河原の戦いでも敗れて撤退していった
ちなみにその福島正成を輩出した福島家は今川家の花倉の乱において玄広恵探の後ろ盾となった一族で、北条軍の中核を担った地黄八幡こと北条綱成は福島正成の息子とされるため、周辺国に与えた影響はとても大きい一族だろう

城としては遺構は消滅しており、石碑が建つのみだった

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甲斐 椿城

信濃の小笠原氏の上野盛長が築いたため上野城といったが、周囲に椿が多かったため椿城と呼ばれるようになったらしい。
その後、武田氏の支流がこの城の周辺の大井庄を支配するようになり、大井氏を称するようになったとのこと。
大井氏で特に著名なのは大井信達で、今川家からの援軍を得て武田信虎に対抗するも敗れ、信虎と娘の大井夫人の婚姻同盟を結んで和睦した。
その二人の間に産まれたのが武田信玄。
城跡の看板にはこの大井氏の城として書かれていて大井一族の墓と伝わる五輪塔もある。

現在は本重寺という寺院になっていて、城跡の遺構はほぼないが、寺の裏手にある墓地のあたりから本丸跡とされる周辺にかけて土地が一段高くなっているため、城域はだいたいこのあたりなのかもしれない。
謎の多い城跡だが、名前の通り椿の花は咲いていた。

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松代城

グラ友さんが真田信繁の真田丸を投稿してたので、対抗して(?)兄である真田信之のお城を。
元は信玄時代の武田家によって、信濃支配のために築かれた海津城という城で、山本勘助が普請したとも伝わる。
武田家が支配した時代には高坂昌信が上杉家に対する抑えとして在城したとされる。
徳川家による天下統一が達成されると、しばらくは譜代や親藩の大名が代わる代わる城主を務めた。
やがて真田信之の支配する上田と沼田の領地のうち、上田が国替えとなって松代に入城した。
以後は江戸時代を通して真田家による松代藩として存続し、この松代城を居城とした。

訪れた時は年末期間だったため、本丸内には入れなかったが、復元された二の丸を囲う土塁や本丸の石垣と水堀、土塁と石垣の接合部に埋門と見所満載の城だった。

#一日一城
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吉川元春館跡

日山城に本拠を構えた吉川家だが、さすがに標高の高すぎる山城なので、そちらは詰城として使い、居館は別に用意していたようだ。
元春の時代は毛利家の勢力拡大に伴い、吉川家も影響力を高めていたため、居館の規模も大きいものだった。
石垣と土塁を組合せて構築されていたが、石垣部分には一部巨石も使われていて、とんでもない迫力だった。
この館が築かれたであろう時代を考えると、石垣の技術の高さを感じさせられた。

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横須賀城

名前は横須賀だけど静岡県にあるお城
元は徳川家康が武田軍の高天神城を攻略するにあたり、多くの砦とともに築いた城
高天神城の攻略に成功すると高天神城を廃城にした一方で、横須賀城は遠江支配の拠点として残した

復元された玉石の石垣は綺麗でとても見応えがあった
一部は現存しているらしいが、天守台周りの古そうな石垣がそうだろうか
少し調べてみたがよくわからなかった
近くのお寺に不開門が移築されていて、刻まれた家紋から本多氏が城主の頃につくられた門のようだ

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高天神城

魚津城につづき壮絶な攻城戦が行われたお城シリーズということで、ここにする
武田と徳川の遠江支配をめぐる戦いの中心にあった城
信玄でも落とすことを諦めた難攻不落の城だが、勝頼が攻め落としたことで武田家の最大版図を築いた
しかし長篠合戦以降は守勢に回っていた武田家は、岡部元信を守将として派遣するも、十分な支援ができなかった
徳川軍は難攻不落の高天神に対して高天神六砦と呼ばれる砦を築いて包囲し、その後も周囲に砦や城をつくり続けてその数は22にも及んだ
徳川の城や砦に包囲され、補給もままならなくなった岡部元信は勝頼に後詰めの要請をするも、北条家と敵対していた勝頼は北条軍に背後を脅かされ後詰めに向かえなかった
そして生存していた688名の武田軍将兵は残っていた食料でささやかな宴をしたのち討って出て全滅、高天神はついに落城した
落城に際し、軍監横田甚五郎は包囲網の間を駆け抜けて信濃入りし、甲斐へと報を届けたとされる
高天神城には武田領の各地から武士が集まって籠城していたため、あっという間に武田領全域に動揺が広がり武田家は一直線に滅亡していくことになる

城跡はふたつの山城を井戸曲輪で繋げたような形状だがバカでかいというほどではなく、天然の要害を生かして大軍の攻撃に耐えるのに良さそうだった
大きな堀切や横堀もあり、まさに難攻不落の要塞だった

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連方屋敷

投稿するごとに、ついつい少しずつ長文化してきているので、屋敷跡の綺麗な空堀と土塁を観て一旦リセットしよう

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吉田郡山城

吉田城の後はどこにしようか、と考えたが吉田郡山城にする
中国地方の支配者毛利家の本拠地らしく大きな山城だった
登城口のあたりには毛利一族の墓所もあり、有名な百万一心の碑があった
縦読みだと一日一力一心とも読めるため、皆で時を同じく力を同じく心を同じく協力することの重要性を説いたという伝説が残っているが、真偽のほどは明らかでない

城跡についた時にはそこそこ遅い時間だったので、急いで回ったがすべての曲輪を観て回る前に日が暮れてきてしまい撤退した
帰り道に観た夕暮れは綺麗だったが、背後でキーンキーンという鳴き声とともに鹿の大群が登山道を横切っていて、ビビり散らかした私は一目散に駆け下りた
ここもまた、再訪しなければならない城跡となった

#一日一城
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鞆城

古代から港として栄えていた鞆の浦にあった城。
元は毛利元就が築いた対尼子家の砦らしい。
織田信長によって京を追われた足利義昭が毛利家の庇護を受け、この地で将軍としての活動を行っていたため、この政権は鞆幕府とも呼ばれる。
関ヶ原の戦い後に大領を得た福島正則によって改修され鞆城と呼ばれるようになったとか。
その後、幕府に目を付けられて破却することになってしまったようだ。

遺構としては一部に古い石垣が残っているようだが、今ある石垣の大部分は復元されたもののようだ。
それでも一部には石垣を築いた当時のものと思われる刻印入りの石もあるため、見応えは十分だった。
何より鞆の浦にある城だけあって、景色は抜群だった。

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南部氏館

甲斐源氏の祖、源義光の孫である加賀美遠光の三男光行が源頼朝から甲斐国の南部郷を与えられ、南部光行と名乗ったのが南部家の発祥とされる
かつて南部家の館があったとされる場所はかなり広大だったようだが、看板の説明を読むと江戸時代には遺構はほぼ失われていたとのこと
現在は井戸跡と石碑があるのみだが、井戸跡がかなり大きいので館も大きかったのだろう
近くの道の駅には南部光行の像も立っていた

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三原城

小早川隆景が築いた海城。
高山城や新高山城といった山城を本拠としていた小早川家だったが、毛利家において水軍の運用を担うようになっていったため、水運に向いた城として築いたようだ。
かなりの巨大城郭だったらしく、近くの桜山から港までを要塞化していたようだ。

現在は城の遺構の多くが街と同化していた。
三原の街のいたるところに石垣や櫓台や門跡が点在し、天守台に至っては真上に三原駅ができていて、天守台の上に登るには駅から専用の通用口を使って行った。
野面積みの石垣はなかなか壮観だった。

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駿河 愛宕山城

駿府の東にある丘陵地である谷津山の東端にあるピークが愛宕山と呼ばれていて、そこにある城跡。
今川家の駿府を守る防衛ラインの重要拠点だったはずだが、武田軍が駿河に侵攻し薩埵峠を突破されるとあっけなく制圧されて、今川家救援のために来た北条軍に対する拠点になってしまった。

登山道の途中にはいくつか腰曲輪があり、登りきったところが大きな広場になっていて、元々それなりに規模の大きな曲輪だったことがわかる。
そこからさらに一段登ったところにある小さな主郭っぽい曲輪は神社になっている。
私は麓から直接主郭を目掛けて登り、また下りてしまったので見ることはなかったが、後に調べたところ尾根筋上を移動するといくつか堀切があるらしい。
見逃したのは残念だ。

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賤機山城

駿府周辺の守りを固めていた山城のひとつ。
今川家が南北朝期に築いたとされる。
駿府城の北から長く尾根がのびている山の上にある。
この山域には静岡浅間神社などの寺社も複数あり、徳川家にもかなり重要視されていたことがわかる。
また、賤機山は賤ヶ岡という別名もあるようで、それが静岡という地名の元になっているという説もあるらしい。
山の南端にある大歳御祖神社の脇にある登山口から、ハイキングコースとしても整備されている。

賤機山城の城域とされている地点は山のひとつのピークであり、観音像が立っている曲輪状の浅間山山頂から標柱があり本曲輪と思われる賤機山山頂あたりだが、実際に南から歩いていくと浅間山山頂より南にも帯曲輪のような地形がいくつも見られた。
ただやはり城としては浅間山山頂から賤機山山頂にかけてがメインのようで、大きな堀切もあり尾根道上には土塁もあった。
さらに賤機山にある本曲輪は周囲を土塁に囲まれていて、城の雰囲気を感じるのに十分だった。
ただ全体的に規模が大きい割にはそれほど技巧的なつくりではなく、堅城というわけではなかったのだろう。
山頂から南を見ると愛宕山城のある愛宕山も見えたのは印象的だった。

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久能山城

久能山城の御城印は何年か前に武田信玄の生誕500周年記念で発売されて以降、販売されていなかったが、今月から通常販売が始まったということで久しぶりに再登城。
麓から歩いての登城は初めてだったが、石階段も整備されており、見た目の険しさの割には歩きやすかった。
しかし、山頂付近のロープウェイ駅のあたりまで行くと大量の人の波が久能山東照宮に流れていた。
ここもまた、オーバーツーリズムの影響を受けているようだったがそのほとんどは日本平からロープウェイで来ているようだ。

城跡の遺構としては勘助井戸と、参拝者受付の少し手前にあるクランクを伴った門跡、霊廟の裏手にある愛宕曲輪あたりが残っているようだが、残念ながらというか当然というか曲輪には入れなかった。
建物の写真をひたすら撮る大量の外国人観光客に混ざって、周囲の土塁状の地形の写真を撮って回る不審なおじさんと化してしまい、周りの外国人からあいつは何を撮ってるんだ、という感じの目を向けられてしまった。
土だよ。

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甲斐 古宮城

武田家で古宮城というと三河のほうが有名だが、甲斐にもあったようだ。
常陸の佐竹氏の流れを汲む津金衆の城で、津金の地を与えられたことからそう名乗るようになったとか。

旧津金学校の裏にある小さな神社の一帯が城だったとされている。
神社そのものは小さいが敷地はある程度広く、曲輪だったのだろうと感じる。
空堀も部分的にしっかりと残っていた。

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平沢官衙遺跡

筑波山から小田城へ向かう途中にあったので、ついでに観てみた律令制時代の遺跡。
国衙が各地に置かれたことは学生時代に習った記憶があったが、これはそのワンランク下の郡衙らしい。
現代で例えるなら市役所みたいなものだろうか。

復元された建物はとても迫力を感じ、しっかりと空堀もあった。
地域支配のための政庁としても防衛拠点としても重要な存在だったのだろう。
環濠集落から発展した城の進化の過程を観ているような感覚になった。

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常陸 久野城

江戸崎土岐家の城とされる。
牛久大仏と小坂城の間、牛久大仏からは徒歩20分ほど、小坂城からは徒歩40分ほどの場所にある。
江戸崎土岐家にとっては敵対する小田家との最前線の城といった位置関係。

遺構はあまり多くないが、小高い丘の上が曲輪状になっており、土塁で囲われていた。
曲輪内は現在は墓地になっていて、何か申し訳ない感じがしてあまり近づいて見ることはしなかったが、後から調べたところ江戸崎土岐家の家臣で城主をしていたとされる野口家の墓もあるらしい。

#一日一城
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田中城

土浦城の別名が亀城ということで、同じ亀城繋がりで今日は田中城。
元は今川家の城で、その頃はまだ亀のような形ではなかったようだが、武田信玄が攻略し馬場信春が改修した際に堀を重ねた円郭式の城郭として生まれ変わったそうだ。
長篠合戦以降、武田家は三河駿河方面で徐々に勢力を失っていくがこの田中城は城主の依田信蕃がよく守り、武田家の滅亡後に穴山信君の説得でようやく開城した。

遺構は町に点在しているようだが、訪問したときは短時間の滞在だったためあまり詳しく観察できなかった。
移築を繰り返しながら現存している櫓に家康がいたが、家康は田中城で食べた鯛の天ぷらが死因という説もあるためだろうか。

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土浦城

元は小田氏の支流若泉氏による築城とされる。
その後小田家家臣の菅谷勝貞によって攻め取られ、以降三代に渡って菅谷氏の居城となったという。
小田家内部でも争いがあったということだろうか。
菅谷氏は小田家の忠臣として有名で、特に勝貞の息子政貞は度々居城小田城を奪われる小田氏治をこの土浦城に迎え入れて、小田城奪回を支え続けた。
やがて小田家が大名家としては滅亡すると、小田氏は結城秀康に仕えて越前に行き、一方の菅谷氏は小田家への忠誠を評価されて幕府の旗本に取り立てられた。
そして小田城が廃城となった一方、土浦城は譜代の家臣が治める城として残っていった。

城としては本丸と二の丸が残るのみだが、水堀に囲まれており霞門や太鼓櫓門が現存しており、前川口門も移築を繰り返しながら現存している。
太鼓櫓門は関東の城の中では唯一、本丸内の櫓門が現存している。
構造は独特で、櫓部分に入るためには梯子を使っていたのだろうか。
また土塁も一部残存していて、西櫓と東櫓が復元されており、東櫓は霞門と土塀で繋がっている。
私が行った時はちょうど桜が満開で、お祭りの屋台も出ていた。
東櫓とお城のすぐ隣にある博物館は入場券が共通で、合わせて200円と格安だった。

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小田城

小田家の本拠地。
小田家は鎌倉時代の13人の合議制のひとり、八田知家の子孫であるとされる。
特に著名なのは知家から数えて第15代目で大名としての小田家の最後の当主、氏治だ。
小田氏治は9回も本拠地の小田城を敵に奪われたことから戦国最弱の大名とも、8回までは奪い返したことから常陸の不死鳥とも呼ばれる。
そして謎の人望があり、重臣の菅谷氏は氏治が敗れるたびに自分の城に迎え入れて反撃の機を伺い、領民たちは新しい領主に税を納めずこっそり氏治の元に運んだという。

城はとても復元整備が進んでいた。
かつては筑波鉄道が城跡のど真ん中を貫いていたようだが、言われなければそれがわからないほど。
土塁や堀も復元され馬出のような曲輪があったことや、主郭内にも土塁や堀があったことがわかった。
ただやはり、何度も落城していることを考えると、平城でかつシンプルな構造であるためそれほどの堅城ではなかったのだろうか。

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大豆生田砦

大豆生田と書いてまみょうだと読む。
元々は藤巻氏が支配していたが、天正壬午の乱の際に北条軍によって修築されたそう。
大豆生田砦をめぐって、北条軍と徳川軍で激しい戦いをしたようだが、結局は徳川軍が攻め落とした。

遺構としては完全に消滅していた。
立てられたのぼりだけが、この砦の存在をわずかに感じさせてくれた。

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法泉寺山の烽火台

湯村山城から尾根道を北上すると見つかるのが法泉寺山で、ここにも烽火台があったとされている。
実際に行ってみると頂上は平らになっており、人工的に削平された曲輪とみなすこともできるか。
ただそれ以外には遺構と呼べるものは見当たらず眺望も皆無だが、眺望に関してはもし烽火台があったのだとすれば周囲の木々は伐採していただろうし、良かったのかもしれない。

社会人は甲斐性が命。
烽火台は眺望が命。

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湯村山城

躑躅ヶ崎館の西に位置する湯村山に築かれた小さな山城。
かつては烽火台があったともいわれるが、現状では土塁や堀状の地形や井戸跡がほんのりとわかる程度だった。

最近になって立派な井楼が組まれた。
かつての烽火の形式として、井楼櫓から長い棒を使い、煙の出る火種を吊って煙を上げるという方法が江戸時代の書物で紹介されているらしく、それを根拠として武田家の烽火台に関連する史跡では雰囲気を演出するためにしばしば井楼櫓を設置している。
しかし実際に武田家でどのような形式で烽火を上げていたかは記録にないようだ。

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