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マサヤス龍之介
#読書の星
☆『風街とデラシネ』田家秀樹 '21 初版 角川書店
著者 田家秀樹は「たけ」ひできと発音する。この本の副題には"作詞家・松本隆の50年"とある。松本隆の評伝は数あれど、この本は質共に他を圧倒している。筆者の田家は1946年生まれだから、松本の3つ上である。1969年に「新宿プレイマップ」創刊編集長となる。田家はこの本のまえがきで当時の新宿という街について…フーテンとアングラ、今で云うサブカルの街だった…と書いている。そして「新宿プレイマップ」と云えばはっぴいえんどを理解している者からすればあの"日本語ロック論争"の起点とも云うべき1970年10月号の同誌、第2回喧論戦「ニューロック」と銘打たれた記事が掲載されたタウン誌として記憶されている。大瀧詠一、内田裕也、鈴木ヒロミツ、中山久民、司会はジャズ評論家の相倉久人という陣容で日本語がロックに乗るか否かは主題では無かった。この座談会自体は1969年8月3日に行われたという。私はかなり以前にこの記事のコピー全文を読んだが、大瀧が成功する、しないより先ずはやってみようと思うし、日本語ロックの様な試みを皆もやって頂きたい、と提起をしたが内田は以前にやってみたがやっぱり日本語はロックに乗らなかったが、大瀧君達がやるというのなら成功してほしいとエールを送った。モップスの鈴木ヒロミツは波には乗らないと思うと、けんもほろろ。久民も然りで司会の相倉もどこか多勢派よりであった。結局最後は成功しないことをやる気はないね、と内田が半ギレして大瀧は果敢にも食い下がったが、日本語ロックをフォローする者はいない構図であった。そもそも細野も大瀧も最初は英語ロック派であった。はっぴいえんどは松本隆と松本の小学校以来の幼なじみだったはっぴいえんど初代マネージャーの石浦信三がロックを日本語でやる、というコンセプトを掲げたのが始まりだった。反対する仲間の細野、大瀧らを説得していった。大瀧は2000年の松本隆との対談で…とにかく松本が日本語だ、それじゃなきゃダメだって力説するからさ。ほとんど駄々をこねるに等しいかんじだよね(笑)…と重要な証言をしているエピソードを田家は紹介している。田家は新宿プレイマップのこの座談会時は現場には居ず、編集部員として原稿化したのが彼だったという。
続


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