You're not a perfect sport......But the question is whether or not you're perfect for each other.That's the whole deal.That's what intimacy is all about.『Good Will Hunting 』より対人関係で大事なのはその人との間で完璧であるかどうかである。自分はこの考え好きだけど、普通はそうじゃないから押し付けになってしまう。月に一回くらい集まってファミレスで話したり、散歩したり、公園でカップラーメンすすってみたり、でも毎日のように会う存在ではない関係。"友達"とか"親友"とか"恋人"とか。なんて名前をつけるかは二人でいるときは気にもしないのだが、第三者に説明する時にはその名付けが必要になる。"ゲイのカップル"という言葉も第三者に聞かれないと名付けない気がする。友達も恋人もいないけど大丈夫。
今日1ヶ月くらい悩んだトートバッグを買ったのだが、接客してくれた店員さんが女神だった。シャレオツな男性店員に「これは女性用ですが、、、」とか言われそうでビクビクしてたのだけど。「このトートバッグかわいいですよね」から始まって「ユニセックスとはいえ、購入されるのは女性が殆どなんですけど、お兄さんすごくお似合いですよ。」なんて、営業トークとは言え安心しちゃうよね。
古本屋とかそこそこ大きな書店の数が前よりも減ったと思っていた。でも、ブックマンションのような新たな"本屋さん"の形も芽吹いてきているらしい。在庫では電子に完敗しているのだから、空間のデザインや、コミュニケーションの"場"のデザイン、売る側の体温が伝わるような工夫、"本"の境界を暈す、などの特異な変化が必要とされる。という意味でいうと、ヴィレッジヴァンガードはかなり前から本の選出が面白かった。ブースも小さく、前は何で置いているのかもわからなかったが、今はただただ興味深い。
『ヘイケイ日記』鼻でペンをくわえる十二単に身を包んだ乙女の絵が表紙を飾っているのだが、平家物語なのか紫式部日記なのか、何をもじっているのか、はたまた別にもじってはいないのか、ギリギリ分からない感じが面白くて手に取った。女性目線の性に関する悩みや問題、ぶっちゃけ話が書かれている。これで少しでも理解に近づきたいなと。分かってます、体験出来ない時点で理解なんぞ不可能だということも、本一冊読んだだけで分かった気になるのはキモすぎることも。でも留学する時って本でもなんでも調べるじゃない。ほんでもってそれらの知識は大方覆されるわけでしょう?そんなもんじゃないか。
絵本って極力文字を排除しているものが多いじゃないですか。引き算の美学というか。だから絵の表情、文脈、意図、など自分で読み取ろうとする意識が強い気がする。だからあれこれ考えてるういちに一次情報が手に入る。一方紙の殆どが文字で埋め尽くされた、所謂"本"は、著者の主張をなるだけ誤解のないよう厳密に書かれていることが多い。これは裏を返せば解釈の幅が狭い、むしろ一つの"正しい解釈"を要求してくるということでもあると思う。そのため、新書や自己啓発本は二次情報の摂取に近く、一次情報に還元するには実体験に結び付けるなど想像や思考が必要とされる。火が熱いことを学習するには、科学的な解説を見てもいいし、誰かが触って熱がっているのを見てもいい。でもやっぱり一番速くて、自分てとって正確なのは手を突っ込むこと。
500円を握りしめ、コンビニまで全速力で走る。ケーキとおにぎり二つを買う。おにぎりは敢えて大きな口で頬張り、ケーキは鷲掴みして貪る。品性なんて気にしない。全部飲み込んだら次第に静けさを感じるだろう。そしたらすかさずペンとスケッチブックを用意して書きなぐる。言葉でなくても、何でもいい。これで大体は何を悩んでたのかすら忘れちゃうんだよなぁ。何かルーティンがあるといいかも。皆もやってみてね!タハァッ
成田氏の構想する22世紀の資本主義では、個人の来歴そのものが価値であり、価値尺度であるらしい。人生がまるでアートであるような人、まさに三島由紀夫氏や三輪明宏氏、服部文祥氏、宮崎駿氏、マツコ・デラックス氏、、、、、、、、。世に表現が多く出て、長く生きている人が多いが、世に出ずとも既に特異な人生を生きる人もいるだろう。彼らは価値の先取り、否、本質の体現をしていたのかもしれない。いや、そもそも「価値」というもの自体がナンセンスであるかもしれない。
自分がそこそこ深く考えてる部分をこっちが知らないだけで頭が悪いと言ったりだとか、馬鹿にする態度をとったりだとかしてくるのはなんぞ?悟っちゃって気持ちよくなってるのかな。結構。私以外の"人とのコミュニケーション"においてあまり品性のある言動ではない気がする。
Radwimpsさんのデートって曲。まるで「お母さんの作った唐揚げ」という言葉から、いつもより早い朝の冷たい匂い、カラカラパチパチシュワシュワみたいな音、母の背中に感じる少しの緊張感、醤油と酒の甘い香り、特別感と高揚感とが頭の中で再生されるみたいに。会いに行くまでの一人の電車、少し遠くに見えたときの高揚感、背筋を伸ばす、緊張、可愛い、目を見つめる、沈黙、何を考えてるんだろう、不安、笑顔、ドキドキ、優しく落ち着いた声、綺麗、クスッ、、、今日はありがとう、また会いたいな、一人で帰る電車、少し口角が上がっている。この曲を聞くと、情景とか温度とか音圧とかがスラスラと思い描かれる。ピアノを習ったことがない人でも少し頑張れば弾けるようになる。自分で弾くとまた違った情景が映し出されて楽しいのでぜひ。
北海道とか大阪とか、物理的に距離が離れている人が身近にいるように感じてしまうSNSに未だ違和感を感じる。家は歩いて10分のとこなのに高校が違うせいでなにか遠い存在であるかのように思えたり、同じ高校でも時々しか会わないことで家が近いことも忘れて、何か中学のときよりも遠く、珍しく感じたりする。心の距離なのかな?それとも単純に接触回数?
好きなartistが実現の仕方が分かるのが「目標」、どうすればそうなれるのかが想像できないのが「夢」と言っていました。僕の夢は触れるだけで目の前のあなたが幸せになるようになることと、動物と話すことです。真剣です。
できるだけ慌てずどっしりと構えて、相手の目を見る。どれだけ相手が笑ってても、悪口を言ってきても、触られても、深く呼吸して動じない。沢山の不安が襲ってきて、慟哭を必死に抑えて眠れない日もある。怖くてたまんないだろうけど、下に見られちゃいけないから、少しでも狂気というか、"こいつはなんかしてくるかも"と思わせなきゃいけない。
子どもの頃クラスの男子の中で本当に自分一人だけDS買ってもらえなかったけど、皆の話を理解したくて必死にポケモンの名前覚えてた。ときどきふと思い立ってポケモン図鑑を調べてみるけど、ピッピって名前かわいすぎる。ほんでピカチュウさんのビジュアルはええもうなんかうん 奇跡に近い。
敬愛する角野隼人氏やLudovico Einaudi氏。彼らはどこに言ってもWho are you?に答えられるし、ピアノ一つでどんな壁も越えてゆける。長年続けてきたものがその人の中でその人を創り出してきたのだろう。一方の私は何を続けてきただろうか。好きだったピアノも練習から逃げ、読書も受験勉強を理由に遠ざけた。最近やっと良さに気づいた習字も筆をとれば思い描く線を書くことができなくなってしまった。その他にもいろいろ好んで続けていたが、壁を乗り越えられるまで努力しなかったことと、やっぱり才能はないなと気づいたらもう意味がないと思ってしまったことで、ある時どれもプツンと止めてしまった。だから、彼らを含め少しでも何かを続けて、その人自身を織りなしているものがあると、who you are?に答えられるものがある人には皆、憧れる。尊敬する。少しずつ。少しずつ。何回止めてもいいから、もう一回筆を取ろう。まずは滞りなく指を動かせて、和音を見たらその鍵盤に指が動くように。少しずつ。"やるべき"こともあるけれど自分の時間を作ろう。あと、表現はonly oneがある。number oneは相対的なものだけど。number oneになる才能がないのはそう、でもonly oneになる才能はたくさんやってから否定するべきだよね。明日からが楽しみだ。