上総 小浜城海辺の岩山につくられた天然の要塞のような城ただこの城の歴史はあまり良くわかっていないらしく、遺構も虎口っぽい地形や曲輪らしい地形がそこそこわかる程度だったそれほど規模が大きくないことと、見晴らしが良いことから海上を見張るためにつくられた城だったのではと考えられているようだ現在はその見晴らしの良さから景勝地として整備されている#一日一城
古瀬間城浄願寺境内から城門跡と伝わる大平の門を通って、丘を登ったところにある城跡ほぼ単郭の城で、周囲に小規模な帯曲輪がいくつか配されていた主郭跡には展望台があり、豊田市の街を見晴らせる浄願寺には松平家の武将の墓もあることから、松平家の城であったとされている#一日一城
林大城林小城と対になっていて、まとめて林城とも呼ばれるこちらの大城は小城と比べて石積は少なかったように思うしかし、尾根筋に曲輪が多くつくられており、それも本曲輪に近づくとひとつひとつの規模が大きくなっていき、本曲輪までいくと石積もあったカカカカカッ という音がずっと聞こえていたので、気になって周囲を見てみると、人生で初めて野生の啄木鳥を見た#一日一城
林小城信濃守護小笠原氏の本拠地林城は林小城と林大城に分かれて築かれ、居館を挟むようにして守っていたようだしかし武田信玄が信濃へ侵攻を始めると、あまり抵抗できずに信濃を追われてしまったとのこと林小城のほうは石積や堀切が多く、技巧的なつくりになっていた水の手は地獄の釜と呼ばれ、底なし沼になっているらしく、かつて馬一頭が沈んでしまったらしい#一日一城
大熊城諏訪氏の一族である千野氏の居城諏訪大社が上社と下社で抗争した際には上社側として、攻防戦の舞台になったようだ武田信玄の信濃侵攻で落城し、のちに放棄されたらしい中央高速道の建設で遺構の大部分は失われてしまったようだが、一部堀切や土塁状の地形が残っていた残る城域は畑になっている部分もあるが、一部は福寿草園になっていて綺麗だった#一日一城
横須賀城名前は横須賀だけど静岡県にあるお城元は徳川家康が武田軍の高天神城を攻略するにあたり、多くの砦とともに築いた城高天神城の攻略に成功すると高天神城を廃城にした一方で、横須賀城は遠江支配の拠点として残した復元された玉石の石垣は綺麗でとても見応えがあった一部は現存しているらしいが、天守台周りの古そうな石垣がそうだろうか少し調べてみたがよくわからなかった近くのお寺に不開門が移築されていて、刻まれた家紋から本多氏が城主の頃につくられた門のようだ#一日一城
高天神城魚津城につづき壮絶な攻城戦が行われたお城シリーズということで、ここにする武田と徳川の遠江支配をめぐる戦いの中心にあった城信玄でも落とすことを諦めた難攻不落の城だが、勝頼が攻め落としたことで武田家の最大版図を築いたしかし長篠合戦以降は守勢に回っていた武田家は、岡部元信を守将として派遣するも、十分な支援ができなかった徳川軍は難攻不落の高天神に対して高天神六砦と呼ばれる砦を築いて包囲し、その後も周囲に砦や城をつくり続けてその数は22にも及んだ徳川の城や砦に包囲され、補給もままならなくなった岡部元信は勝頼に後詰めの要請をするも、北条家と敵対していた勝頼は北条軍に背後を脅かされ後詰めに向かえなかったそして生存していた688名の武田軍将兵は残っていた食料でささやかな宴をしたのち討って出て全滅、高天神はついに落城した落城に際し、軍監横田甚五郎は包囲網の間を駆け抜けて信濃入りし、甲斐へと報を届けたとされる高天神城には武田領の各地から武士が集まって籠城していたため、あっという間に武田領全域に動揺が広がり武田家は一直線に滅亡していくことになる城跡はふたつの山城を井戸曲輪で繋げたような形状だがバカでかいというほどではなく、天然の要害を生かして大軍の攻撃に耐えるのに良さそうだった大きな堀切や横堀もあり、まさに難攻不落の要塞だった#一日一城
魚津城織田軍と上杉軍による壮絶な攻城戦が行われた城上杉謙信死後、御家騒動などもあり一気に加賀や越中の勢力を失っていった上杉家の越中防衛の重要拠点12名の将と3800名の兵が籠城したが、攻め寄せた織田北陸方面軍は40000の大軍だった上杉家当主景勝自ら5000の兵を率いて後詰めに向かうも、寡兵では近くの天神山城に布陣するにとどまり救援できない中、信濃から森長可率いる5000の織田軍が春日山に向けて猛進撃を始めると、景勝は撤兵するほかなくなってしまった後詰めも去り、落城必至の状況にあって上杉軍の将12名は降伏せず徹底抗戦し、最期は全員が自刃し城兵も全滅した自刃の際には自らの耳に穴を空けて名前を書いた木札をくくりつけ、首実検しやすくしたというそんな激戦の地であった魚津城も今は昔、城の跡地には学校がつくられて遺構は完全に消滅し、石碑や看板、立体地図が展示されているのみで、その学校もまた私が行ったときにはすでに廃校となっていた#一日一城
越中 亀山城増山城に隣接する城増山城の前身である和田城との説があったが、近年の発掘で出土した遺物は史料上の和田城とは年代が合わないそうだ城跡としてはほとんど単郭のような形式で、増山城の出丸という感じだった近くに孫次郎砦という砦の跡もあるようだったが、増山城の散策で時間がかかりそちらは諦めて撤退した#一日一城
茅ヶ崎城名前は茅ヶ崎城だが、茅ヶ崎ではなく横浜にあったどうやら小机城の支城らしく、立地で考えても距離的に違和感はない綺麗に公園化されていて散策しやすく、各曲輪や切岸、土塁、空堀などかなり明瞭に残されていた横浜の市街地にあって、遺構がここまでしっかり保全されているのは驚いた#一日一城
根城八戸南部家の本拠地八戸の南部家は南部家始祖南部光行の三男実長が始祖だそうその実長の孫長継が同族から迎えた養子が師行で、南部師行は北畠顕家に従って奥州入りし、根城を築いた七戸城は雪に覆われていたにも関わらず、八戸はほとんど雪が残っていなかった綺麗な薬研堀の空堀が何本かあり、さらに本丸跡には建造物が復元されていた本殿では武士たちが年始の儀式を行っている様子を観ることができて、鍛冶工房や蔵などの建物も中を観ることができた工房や蔵は竪穴式になっていて、半地下のような感じで少し三内丸山遺跡を思い出したが、入口は狭く中は意外と暖かかった城跡には博物館も併設されていて、根城を築いた南部師行の像や、同じく南部家の一族が築いた八戸城の門が移築されていた八戸城は遺構がほぼ残されていないようなので、数少ない現存遺構ということになるのだろう#一日一城
七戸城八戸南部家の支流、七戸氏の居城七戸氏は九戸政実の乱に加担し共に滅亡した城跡の規模はかなり大きく水堀もあり、壮観な切岸が見え、立派な東門も再建されていたが、各曲輪に積もった雪の量が凄まじく、あまり散策はできなかった#一日一城
弘前城現存12天守のひとつで、東北地方唯一の現存天守閣を擁する城天守台石垣の修理工事中ということで、天守閣を天守台から曳屋工事で移動した場所に移っているしかしそれも来年にも元の天守台之場所に戻すらしく、現在の場所で天守閣を観られるのは残りわずかな時間ということで観に来た現在の位置だと岩木山を背景にした天守閣が観られるということだったが、靄がかかってしまっていて、岩木山は綺麗には見えなかった上、天守閣と岩木山を同時に観るための展望台は雪に埋もれていたしかし、城郭を観て回るとそんな些細なことはどうでも良く思えるほど立派な堀や土塁、石垣に、重要文化財の現存櫓や現存櫓門が多数あり想像以上に立派な城郭ですっかり満足してしまった#一日一城
上ノ郷城今川家の家臣鵜殿長照の居城今川義元が桶狭間で敗死したのち、次々と松平家や武田家に降っていく今川家臣団の中で、今川家を支え続けることを選んだのが鵜殿長照だった必然的に三河で独立し今川領を攻め取っていく松平元康と対峙することとなり、この上ノ郷城も忍を駆使した松平家に攻め落とされたという蒲郡市博物館から歩いて行くと40分くらいだろうか、ずっとなだらかな登り坂が続き城跡に着いた頃には私はかなり疲労困憊していたが、このお城を訪れたことで鍛えられ、私の感覚はだいぶイカレてしまった城郭遺構はかなりシンプルで切岸によって形成された主郭の周りにいくつかの曲輪があり、土塁で虎口のような形もつくられていたようだ私が観に行った当時はまだなかったが、今は上ノ郷城の復元模型が近くの公民館にあるらしく、再訪して観に行きたい#一日一城
尼巌城これで あまかざりじょう と読む城なかなかガチめの登山になったが、途中で観た巨岩群は壮観で、人工的な石積もあり、中腹でも景色は良かった登るのがしんどいくらいの箇所もあったが、鎖を繋いでくれてあるお陰で登りきることができた尾根に出ると堀切が何本もあったが、主郭があったとされる頂上に着くと雪が降ってきて、すぐに退却した#一日一城
月山富田城富田城繋がりということで、今日は月山富田城川を挟んだ対岸には尼子家の絶頂期を築き上げた名将尼子経久の騎馬像が建ち、その先には城郭の一部が見えたひとつの山を丸ごと城にしたかのように、多くの曲輪が造られており、ひとつひとつ観て回ると途方もない規模で、途中で観た太鼓壇跡には山中鹿介像が建っていた中腹には石垣を多く使った山中御殿平という曲輪があり、石垣造りの虎口も複数あり壮観だったそこから更に七曲がりの坂を登ると三ノ丸、二ノ丸、本丸からなる主郭群があり、そこに使われている石垣や堀切も見応え抜群で、本丸からは遠く中海まで望むことができたさすがは山陰の巨星、尼子家の本拠地に相応しい巨城だった#一日一城
甲斐 富田城甲斐国内の統一を目指す武田信虎に対し、反発した甲斐国内の国人衆の一部は今川氏に救援を求め、結果今川家の重臣福島正成が8000とも15000とも言われる大軍で甲斐に攻め寄せたその時に攻め落とされ、今川軍の甲斐国内における拠点となった城その後、北上して甲府を狙った今川軍だが兵2000をかき集めた武田信虎に飯田河原の戦いで敗れ、態勢を立て直してもう一度挑んだ上条河原の戦いでも敗れて撤退していったちなみにその福島正成を輩出した福島家は今川家の花倉の乱において玄広恵探の後ろ盾となった一族で、北条軍の中核を担った地黄八幡こと北条綱成は福島正成の息子とされるため、周辺国に与えた影響はとても大きい一族だろう城としては遺構は消滅しており、石碑が建つのみだった#一日一城
花倉城グラ友さんが今川義元を討ち死にさせていたので、私は彼の出世の道を辿ろう今川家当主氏輝とその弟彦五郎が一度に急死すると、その弟でいずれも仏門に入っていた栴岳承芳と玄広恵探が後継者の座を巡り対立今川館の制圧に失敗した玄広恵探はこの花倉城に入ったが、新たに今川義元を名乗った栴岳承芳に敗れて自刃したとされるこの花倉の乱に勝利した今川義元は家中を統一し、名軍師太原雪斎の支えの元で飛躍していくことになるお城としては市街地からかなり離れた山城で、堀切や空堀、土塁などの遺構が残り、眺望は遠く駿河湾まで望める気持ちの良い城跡だった#一日一城
吉田郡山城吉田城の後はどこにしようか、と考えたが吉田郡山城にする中国地方の支配者毛利家の本拠地らしく大きな山城だった登城口のあたりには毛利一族の墓所もあり、有名な百万一心の碑があった縦読みだと一日一力一心とも読めるため、皆で時を同じく力を同じく心を同じく協力することの重要性を説いたという伝説が残っているが、真偽のほどは明らかでない城跡についた時にはそこそこ遅い時間だったので、急いで回ったがすべての曲輪を観て回る前に日が暮れてきてしまい撤退した帰り道に観た夕暮れは綺麗だったが、背後でキーンキーンという鳴き声とともに鹿の大群が登山道を横切っていて、ビビり散らかした私は一目散に駆け下りたここもまた、再訪しなければならない城跡となった#一日一城
吉田城私が城めぐりの一人旅に初めて行ったのは愛知県だったその時に一番最初に立ち寄ったのが吉田城だったので、思い出深いお城復興された鉄櫓はかっこよくて、櫓と呼んではいるが、実質は天守のようだった石垣も立派で大きな空堀もあった#一日一城
津久井城今、某城めぐりアプリで熱い、三増峠の戦いに関わった津久井城に行ってきたひとつの山を丸ごと城にしたような城だった根古屋式城郭で麓には広大な屋敷跡が広がり、尾根のピークに合わせて本城曲輪、太鼓曲輪、飯縄曲輪、鷹射場とそれぞれに曲輪がつくられていた鷹射場からは相模原の街が、本城曲輪からは津久井湖が一望でき、まさに国境の城といった印象いい感じの堀切や土塁、石垣も見られ竪堀はかなりの規模だった#一日一城