人に何かをしたり、物をあげたりするとき、見返りは求めないようにしています。一つ目の理由は、お返しがなかったときにがっかりするさもしい自分が嫌だから。二つ目は、自分を行動の主体とする価値観を身に着けていたほうが、楽しく生きられるから。三つ目は、自分から人に声をかけたり、プレゼントを選んだりするのが、なんだかんだで嫌いではないから。そんなことを考えるホワイトデー。もちろんお返しがもらえたら嬉しいです[泣き笑い]
おはようございます。来年度の人事の内示があり、念願叶って管理職を降りることになりました㊗️組織のトップから「来年度は休んで、再来年度は一緒にいっぱい働こうね❤️」とのんきなことを言われたので、「いっぱいは働きません😠」とつい本音が出てしまいました。雀の涙のような管理職手当では到底補填できないほど身を削って働いてるわ!ひとまず1年間は解放されることが確定したため、ライフスタイルを見直そうと思います。まずは自炊ができる生活をしたい。というわけで早速、平日朝にまともな朝ごはんを食べました。
締め切りのギリギリまで確認を繰り返し、最後まで粘るという仕事です。KAT-TUNの「ギリギリでいつも生きていたいから〜♪」という曲が常に頭をよぎるくらい、追い詰められる仕事です。プレッシャーであり、燃えるものでもある。切り離せない、業みたいなものですね。
内容にまったく関心はないのですが、語と語の対応関係の不自然さがものすごく気になって考えてみました。これらの語の並列において、「旧帝大卒」「記念受験」だけが異質ではありませんか?「記念受験」は、「旧帝大卒」(の学歴を持つ人)と置き換え可能な語ではなく、ここだけ言い換えが成立していません。なぜなら、「記念受験」とは合格する見込みがない学校を記念として形ばかり受験すること(事象)を指す語であって、他の「人間」「ゲジゲジ」「石ころ」のような物質を指す語とは性質が異なるからです。ここは「人間」より下位で「ゲジゲジ」より上位に位置づけられる有機物(最下位は石ころなので無機物は入らない)を入れるべきではないでしょうか。そもそも人間とゲジゲジのどちらが上位かの議論は置いておくとして。竹岡氏という方がどのような方か存じませんが、この発言が事実なら、受験指導をする予備校講師の言語表現としてはかなりマズイのでは⋯?それとも私がネタにマジレスしてるのかしら?