『やりたいことは見つからない』「やりたいことが見つかりません」よく、就活生とかから聞くことがあるこういう時に「自己分析をしてみましょう」と、小銭稼ぎなり承認欲求を満たしている輩もいるがこのアプローチはだいたい気休めにしかならないインドに旅行に行って「人生観が変わりました」というテンプレな感想を言うのも気休めでしかないそもそも冒頭のようなことを言う人はそこそこの年齢になるまで「自分のやりたいことに全力で取り組んだ」という人生経験がない親や先生、周囲の友人の言うことや噂話を聞いてなんとなく生きてきただけの人生なのだそういう人が突然「自分のやりたいことは?」と問うてる構図自体が最初から無理ゲーなのだこれまでの人生において内発的、自発的に「これがやりたい」「こんなふうになりたい」という強い動機をもって全身全霊で物事に取り組んだという経験がなければ最初に手をつけるべきはリハビリである「やりたいことに全力投球するとはどういうことなのか?」をよく理解する必要があるやりたいことに人生をかけて取り組んでいる人を身近で観察し、それこそ体感するのが良いそういうわけで「やりたいことが見つかりません」という人への回答は「やりたいことに全力で取り組んでいる人の手伝いを全力でやりましょう」になる一生は有限だ時間は常に流れる特にやりたいこともなければ、なりたい自分も描けていないのであればまずは身近な挑戦者を全力で支援しよう全力で物事に取り組めば自分の能力的な成長もあるので何か始める段になった時自分自身の能力がその一助になる会社や上司の愚痴家族や友人への悪口を言っている暇があるならば自分が知る範囲で良いから最高の挑戦者の支援をするそうしていく中で「やりたいことに夢中になるとは」ということもビシバシ感じることができるだろう特に創業者がいるような会社なんかは同僚はさておき創業者がどんな自己実現を目指しているのかどんな夢や野望を持っているのかちゃんと観察、体感したほうが良い会社が未熟だと愚痴っているのは本当に命の無駄遣いだ夢を持ち、夢を追うということもこうして分解すれば能力でありスキルの話なのだ決して運や才能、センスだけの問題ではない
『来るもの拒まず去るもの追わず』こういう考え方で生きているところがあり他人からは人に対する執着が弱いと思われることがあるこれはもう少し言い換えると「来ない者追わず去らない者拒まず」ともなるまた人との関わりでいつも思うことは自分との出会いが相手の人生にとって何らかのプラスの価値を生むか?ということである平たく言えば「あなたに会えてよかった」と思われる出会いにしたい出会いがあれば別れもある去る相手に追いすがることこそないが相手がプラスになっていないと感じると残念な気持ちになるもっと何かできたんじゃないか?という振り返りにもなる振り返りの結論は得てして「日々の出し惜しみは後悔につながる」ということだ言えること与えられること出し惜しみしていないか?そんなことを思わされる別れがあった
『人生は常に思い通り。それ以上でもそれ以下でもない。』これは、自分自身の座右の銘だただ「人生は思い通り」というと「そんなことはない」という意見が来る人生が思い通りではないと感じているせいだ例えば最寄駅まで歩いて電車に乗るという行為だと臨場感の高いイメージが湧いた上で少し時間差があって現実になる自己実現と言っても良いが我々の生き様や3次元の世界で起こることというのはまずイメージがあって遅れてそれが現実化するイメージは臨場感の高さによって現実化するかどうかの違いがある年収が400万円の人が月収を400万円にしたいと言ったところで、イメージの臨場感を高めるための情報が欠落しがちであるつまりなんとなくくらいの夢や目標の場合は臨場感の低さ故に実現しなくなるそれこそが「それ以上でもそれ以下でもない」という所以だ。幸か不幸か我々の生き様は常に「思った通り」なのだこのメカニズムを理解した上で人に接したり夢や目標を現実化したりとなると気持ちが落ち込んだり他人に悪意をぶつけることもなくなる良い言葉であり大事な言葉だと思う我ながら
『信じるとは疑うこと』これに関する誤解もこの場ではFAQ感があるこの話は真理なのでわざわざ書くのもどうかと思うが「自分が何をしているのか分からない」がリスクの本質だということでグダグダと悩んでいるそこのあなたのために書く信じるという概念は誤解されていることが多いようだが疑うというのと同じであって1つの概念だというのが我々は疑いの余地がゼロの物事は「信じる」ことができず「知っている」という「あなたのことを信じている」は「あなたのことを疑っている」と、言ってる意味は同じなのだがこれが同じに見えないのが「自分の心の行いが正しく理解できてない」という、とてもリスキーな状態だ全てのことを完全に知って生きることは不可能だそうなると(完全には分からないけど)何かを信じて(=疑って)意思決定しながら生きていくこれが我々の生き様だなので「この人のこと信じて良いのでしょうか?」と言われても「知らんがな」が正解でこの「知らんがな」は、「あなた、自分が知らないことを棚に上げて意思決定しようとしてますよ」「あなたがその人のことを知らんので、そんな質問をしてるんですよ」という意味だなので、知らないことは信じるしかない知るための行為をしないのであればただの博打でしかない悩むなら正確に自分を知るともう少し生きやすくなると思いますそこのあなた!
『お気持と事実を分ける』日本はウェットな社会だと言われる海に囲まれて湿度が高いからだろうか加えて、議論が苦手な社会だとも言われる意見の異なる者だと分かると一緒にごはんを食べたり飲みに行くのを避けたりするこれは個人単位で行う人間らしい差別主義的な行動だホモ・サピエンスは知力でも体力でも勝るネアンデルタール人を襲撃して撲滅したという歴史があると言われる加えて、ネアンデルタール人は平和主義、ホモ・サピエンスは好戦的だったとも言われているなので、人間は元々、差別的な行動をしがちではあるまた、アフリカから移動したホモ・サピエンスが最後にたどり着いたのが極東だと言われるある社会で王道、主役、リア充側にいたら逃げる必要はないその意味では、日本という社会は逃避行を続けたホモ・サピエンスの終着点とも言える「最も逃げ回ってきた人たち」なので、ビビりで不安を抱きがちなのも分かる議論からも思考からも逃げたいのかも知れない地理的に逃げ回ってきた歴史が、モノの見方に影響しているかもしれない近年のホモ・サピエンスは移動手段や交信手段の発達で地理的な逃避が無効化されている挙句、資本主義の発明によって鎖国しない限りは世界中が同じようなルールでの生存競争に参加している交易、取引を前提とする現代において、議論ができる能力というのは、生存競争の観点から必要になっている議論で大事なことに「感情と事実を区別する」というポイントがあるこれは大学受験の時に真面目に小論文を学べば当たり前だし大学に入ってまともな論文を書くのには必須だ快・不快好き・嫌いが善・悪とイコールになってるのが議論に不向きな頭の使い方だ快・不快好き・嫌いと善・悪の間に「社会性と論理」というフィルターを挟むことが、議論に耐えうる頭の使い方だ字数の都合で詳しくは書けないが、議論に不向きな頭の使い方は「カワイイ文化」を支えているので時には価値が出ることもあるしかし、今日の話で大事なことは「それも価値のひとつ」と、お気持ちのままに没入せず、事実を事実として認識することだお気持はお気持事実は事実別モノなのである
『優しい人が好きという話』例えばフットサルなんかで初めましてな人がちょこちょこいるような時に「この後飲みに行きましょう」みたいな場合、話題の流れはだいたいテンプレだまずは共通項の多そうな話題でフットサルならばサッカーの話とかになってその後は「好きなタイプ」とかになるその場の最大公約数の趣味の話から最大限発言しやすそうな切り口の人間関係の話こういう原則で捉えると会話に取り残される人は少ないからある意味、必然の流れださて、「好きなタイプは?」という話になると、最大派閥は「優しい人」という答えになるこれは毎回聞くので、かなり退屈な回答かもしれないしかし本当はもっと掘るべき話だ余談だが、最大公約数の人に「優しい人だなぁ」と思ってもらうための行為は決まっている"LOVE理論"という本に載っている"上っ面カインドネス"を習慣化しておけば優しさについて真面目に考察していない90%くらいの人からは間違いなく「とても優しい人」と思われる大多数の人に優しいと思われるのは知識と技術と習慣だ才能も性格も「優しさ」も関係ない話を戻して「優しさ」を考えると「その人にとっての優しさとは何か?」が、実は無自覚であることが多いそこでよく用意する補助線が「魚を与える人を優しいと感じるか」「魚の獲り方を教える人を優しいと感じるか」これを実体験に照らし合わせて確認するこの2つは裏から言い換えれば「その場限りのことしか考えてない刹那主義」「結局、バカでもありがたがる分かりやすいものは与えないケチ」とも言えるつまり「優しさ」というのはそれを感じる人がどういう時間軸で物事を捉えているか?によって中身が真逆になるくらい異なるということで「優しい人が好き」という人をみたら「定番の答えだ」と退屈せずに私のように性格が良くない人は「あー、この人は自分と頭の良さが同じくらいの人を好きだと言ってるなぁ。この人はどのくらい物事を考える人なのか?」と観察したら良いし興味のある相手が言っていたら「この人は何を優しいと感じる人なのか?実体験で確認してみよう」と掘り下げていけば「優しい人が好き」という退屈な回答が味わい深くなる
『出来事に対する解釈は選択』よくある質問で、落ち込んだらどうするかみたいな話がある生きていれば色々なことが起こるそれによって感情は動くただ、感情のままに物事を解釈するとズルズルと落ち込んだりすることになる技術的に落ち込んでいる状態から抜け出すには解釈はざっくり4パターンあることを利用する縦軸はポジティブ、ネガティブ軸横軸は刺激的、非刺激的軸そうすると四つの象限ができる①楽しい②安心③苦痛④退屈起きた出来事をこの4つの視点から解釈し、言語化する言語化された解釈のうち、ポジティブな方を選択するこれで解決だ実際には嫌だとか苦しいとか悩んだり落ち込んだりしている風にしていて→ネガティブな方しか選ばない→人にポジティブな選択肢を言われても全く耳をかさない→自分の見ている選択肢が全てだと、不幸だと訴えながらアドバイスをくれる人を見下している人もいる(というか、ここではよく見る)選べる選択肢のポジティブな方を選んだほうが生きやすくなると思うそしてそれは技術だ端的に言うならばご機嫌でいることは技術だ不機嫌なのは間違った思い込みが強いからだ関わるすべての人がご機嫌に生きていける景色を私は見たい
『良い人と嫌な人』よくこの人は好きだとかこの人は嫌いだとかそれによって接し方を変えるという話があるこれは実は人間が持つ「差別の心」の最も日常的で最も原罪意識の抜けた姿だろうこの背景には「良い人というのはこういう人」「好きな人はこんな特徴」と何らかの規範意識を他人に押し付けている側面がある結果、その規範から逸脱している人を見た時に「嫌な人」「嫌いな人」となるしかし実際には勝手に差別意識を振り撒いているに過ぎないしもっと絶望的なことは自分の規範が正しくてそこから外れている人間のほうが悪いとさえ思ってしまっていて尚且つ、それが無意識であることだこのものの見方にはもうひとつ特徴があるそれは人間を固定不変の存在にしがちということだつまり最初に好きとか嫌いというレッテルを貼った時がその人がどんな人間かを決めた時で人間が変化する存在であるという真理を無視している真理を無視しているのでこれは迷信なのだがこうやって今日も人は誰かにとって無意識かつ無邪気な差別者でありいじめっ子になっているのだ好き嫌いだとかカエル化現象とかそんな話を聞くとあなたはいったいどれだけ独善的でいったいどれだけ差別主義者なんだい?とツッコミたくなってくる完璧に良い人とか絶対的に嫌うべき人なんてものはいなくてある人にはこんな良いところがあるしこんな悪いところがあるよねというくらいの話だしかも良いか悪いかは得てして自分の都合で決まる所詮はそんなものであって好き嫌いというレッテルで他人を断罪することにもう少し人々の意識が向くと世の中はもう少し幸せになるような気がする
昨日は国立競技場に行ってみた東京オリンピックに合わせてリニューアルしたのだが最初に行ったのはまさに初使用となった天皇杯の決勝戦だったイニエスタを生で見られたのとダビドビシャのラストゲームでもあったところでこのスタジアムは恐ろしく導線が良くないしとても居心地が良くない肥満者は入れないくらいスタンドは狭い(傾斜もきつい)なぜこんなオモテナシの心を微塵も感じられないものができたのかを考えてみるとこれはテロ対策に全振りした結果なんじゃないかと思っているそうすると導線の話も納得感がある武器を持ったテロリストがいたとして限られた区画の人間だけに犠牲者を限定し逃走が困難な状況になる何でもかんでもゼロリスク信仰を爆進するとこんなものが出来上がるという意味では平成の日本の空気を象徴する歴史的価値がある建造物だろう
『手段の目的化』日本はオタク文化が進んでいると言われる実際、オタク性とは何か?から日本のオタク性を振り返るとずいぶんと歴史は古いオタク性の本質は「手段の目的化」である例えば、茶道は「美味しいお茶を作る」という目的をずいぶんと逸脱して「いかに淹れ方がイケてるか」「より宇宙と繋がるには?」という手段の目的化が起きている近年の労働者を見てもゾンビ企業を退職しないでブラック労働、お金に振り回されていながらもローンの組める雇われが身分的に正義なので独立起業の準備すら考えない。結果、生産性も経済成長率も低いけれど全部政府のせいだと問題を棚上げしながらみんなでゆるやかに貧乏になりながらラーメン1,000円は高いと騒ぐのもオタク性の極みだ。もっと狭い範囲で見ればベテランアニメーターが難しいページを引き受けるのも個人の経済合理性からすると間違っているがそれによって他国で出てこないような質の作画になるという現象もある昨晩、食事の時、色々と拗らせたり悩んだりという人についての話題があったダイエットも整形も肉体改造も心理学にハマるのもかまってちゃんも聞けば悩みは色々とあるが最も重要な課題に換言するならば「モテないこと」がその正体であって殆どの悩みは「モテる人間になれば解決だよね」という結論になったこれは確かにそうでズルズルと悩んでいる人は「根本原因を認めたくない」が先にくるので別の課題解決すなわち手段の目的化をするが悩みの大部分は本当は「モテる人間になる方法」が理解できれば解決だじゃあどうしたらモテるのか?についても結論は出ていてここでは以前の投稿で載せておいたので端折るが満場一致で「noteに書いて5,000円くらいで売ったほうが良い」という評価になったとはいえそれで一儲けするには少しはちゃんとマーケティング的な作業がいるよねという話になってそれでどこまで儲かるか?を考えるとまぁまぁ面倒だお金を稼ぐということも手段でしかなくて他でまともに稼げていてそこまでお金のかかる趣味がない人間からしたらそこから先はまた稼ぐというオタク性の話になってしまうのだ手段の目的化=オタク性でモノを見ると多くのことがシンプルに見えてくる
『人材育成の難しさ』智慧とは何か?ひと言で言うならば「先見性」である財をなす難易度に比べると人を育てる難易度はだいぶ高い基本的に智慧の次元が違う者を育成するのが人材育成であるコーチとして人を育てようと思うと全ての時間を共有することはできないので考え抜いた上でルールを設定して自律性に依存する部分があるしかしながら智慧の土俵が異なる場合良くてもこちらの考えていることは1割しか伝わらないマイクロマネジメントで結果を出す方法もあるがその結果はコーチがいなくなったらダメになるという依存度の高い人材が出来上がるこれを育成と呼ぶかというと管理でしかないもちろん、ルールも完全ではないがそれが守られるかどうかもまた怪しいことがある何十歩も先を見据えてルールを作っても半歩先くらいしか見えない者は無邪気にルールを反故にするし妥協したり誤魔化したりする根本的にはその影響が分からないことから残念ながら智慧や経験、才覚が異なる場合未熟な者の手抜きや妥協、誤魔化しというのは嫌というほど見えてしまうそれらのエラーを一つ一つ指摘するのはまたマイクロマネジメントへの再帰になるのでこれらを飲み込み自分を誤魔化しながら生暖かく見守り信じて待つということもまた育成の成功には必要な忍耐になる「お世話になりました」と軽々しくいう者はいるがこの感性を持つ者は稀有であるこの捩れこそが人材育成の最も辛いところであるが育成すると決めた以上はこれに耐えるしかない人を育てるということを決意したらこういった覚悟がいる育成される側で考えるとまず、人生においてこんな決意を自分に対してする人と出会うことはない運が良くても一生に1人いるかどうかであるもしそういう人に会えたとしたらいい加減にしないほうが自分の価値を高めることができるそれが分からないから社会的に恵まれた人は常に1割以下であるというジレンマもまた存在する
『探究や深掘りが刺激の維持に必要』大人になってから良さげな鮨屋のカウンターに座ったりまともな蕎麦を食べたり予約の取れないお店に行ってみたり誰でも知ってる高級ワインを飲んだりと初めての体験は色々したと思うそこには「初体験の刺激」は確実にあるとはいえ例えば和食でも鮨でもフレンチでもイタリアンでもそれなりに行ってしまうと「行くだけ」はもう刺激をもたらさなくなるこれが「飽きる」という作用だ「飽きている時間」というのは有限の一生を考えるとせっかくの命を粗末にしているようにも思える一方で前にもやったことをまたやるというのは避けられないだろうし毎日を初体験で埋めようとしたら求めるものの刺激が膨張し過ぎて逆に生きづらいだろうそこで人生に飽きないコツは経験値を上げることだ初体験というのは文字通り「体験」なのだが体験に対して自分の内面であったり体験している出来事であったりをより深く広く解釈することで自分の体験に対する解像度が上がるこれが単なる体験を経験へと昇華するところなのだがこの営みを続けてる限り日常に飽きが来ない毎日米とブロッコリーと鶏肉と水しか摂っていない人に対して「退屈な人生だな」と、遠巻きに言うのは簡単だがそういう生活の中で、日々、自分や自分の体との対話を続けることはやはり経験値の向上というプロセスなのだろうアフタヌーンティーの写真をSNSに上げることよりもアフタヌーンティーの由来を調べることのほうが人生に飽きないためには意味のあることだとおもう
『心地良いコミュニケーションのコツ』「一昨日の昼ごはんは何を食べましたか?」この質問を最初にすると相手に対してどういうコミュニケーションをすべきかが分かりますどんな感覚に影響を受けやすいかは個人差があります視覚、聴覚、体感覚どの感覚が優位かは人によって違いますよく、触ればイケるみたいな合コンテクニックがありますがこれは間違いとは言えないですが体感覚優位の人向けの対策です最初の質問で何に注目するかというと回答は何でも良くて思い出している時の目の動きを見ます目の動きには縦軸と横軸があります縦軸で目がどこに移動したか?上ならば視覚優位真ん中は聴覚優位下ならば体感覚優位と分類されますもし秒で思い出されたら思い出すのに時間が必要な質問を重ねます「その前の日の昼ごはんは?」等その人にとって優位な感覚が分かったら視覚優位→映像が浮かぶような話し方を心がける、景色の良い場所を選ぶ聴覚優位→擬音語をつかう、音の良い場所を選ぶ体感覚優位→自然なボディタッチを意識しますそうすると「なぜか分かりやすい」「何か心地良い」という状況になります個人差はあるものの「分からないものは敵、分からない話をする人間は悪」という脊髄反射みたいな反応をする人は多いです(これがネアンデルタール人撲滅から現在までの人類の差別と戦争の歴史でもあります)また浅い関係から深い関係に移行する時に意識したいのが最初の質問をした時の横軸、つまり、左右の目の動きです過去のことを思い出している時に目が左右どちらに動いたか?例えば、右に動いた人は右が過去、左が未来というイメージを持っています自分が新たに深い関係になる対象になりたい場合未来側のポジションをとりに行きますざっくり言うと過去はブレーキ、未来はアクセルですホテル街を歩いていて、入りたいホテルに入る時過去側に曲がって入ろうとすると脚が止まることがあります人は「昨日も生きていた」という過去に注目すると変化を嫌がったりしますということでたった一つの質問ですがこの質問から目の動きの縦軸横軸を確認することでその後のコミュニケーションの方針が変わってくるのです運命は作るものであり変わるものなのですその人が意識しようがしまいが
『やる気スイッチはある』やる気スイッチとかモチベーションの源泉とかそういう話が出ることがあるまず大前提としてプロは結果に対してモチベーションの話はしない野球選手が今日はモチベーションが低かったので打てませんでしたとは言わないしサッカー選手がやる気不足でシュートを外しましたとは言わないとはいえ大部分の人間はプロ意識のかけらもないような日常を送っているので今日はやる気がないからサボっちゃおうとダラダラしたりするかくいう自分もさっき少し昼寝をしていたので起きてから慌てて仕事をした次第であるさて人間のやる気というのは「作業興奮」という心理作用だと言われているどうしたら「作業興奮状態」になるかというと作業を始めて一定時間経過したらこの状態になるそうだ個人差もあるようだがだいたい15分と言われるということは「どうやってやる気を出すか?」というのは最初から問いとして間違っていて「まず15分やる」という状態をいかに作り出すか?が、効果的な問いであるスケジュールやタスクの詰まり具合には波があるが自分がパツパツになった時は1440分を15分単位のセルで管理することがある24時間を縦軸に、横軸は15分×4の枠を作るこの枠に全ての予定を入れる睡眠も食事も移動時間も全てだ作業時間も15分単位で管理するこうすると謎の高揚感とやる気が湧いてくる見積精度が低い場合予定がズレることもあるその場合は見直しをして予定を更新するなのでExcelやスプレッドシートを使ったりすると簡単に切り貼りできるのでお勧めだ能力や経験値を高めたり生産性を上げるにはこのメカニズムを知っておくことは有用だろう
『お金の話』お金の話というとメディアなんかでは高いものや家を自慢するとかろくに事業もしたことがないヒステリックな女性が節約と貯金を促したりとかあとはせいぜいどんな株を買ったら良いかという話をするくらいであるもっと基本的なことが理解されていないと思うそもそもお金というのは価値を保存、交換するために発明された道具だ魚と山葡萄を直接交換するのは効率が悪い一旦、お金に交換しておくことで、価値の保存ができて、交換のタイミングがより幅広くなった最初に自分の手元にどうやってお金が来るかというと誰かに何かの価値を提供してその結果、手元にお金が残るこれが商売の原点であり社会が高度化、複雑化すると、お金を得る=給料をもらうというイメージになりがちだがこれは木を見て森を見ずであるもっと大きく捉えたらお金はお客様(お金を払う人)から何かの対価としてもらうが、まず正しい世界認識だ次に金融ということを考えてみる金融とは「お金を融通する」ことであるで、老後資金が不安ですとかで株を買おうとかやっているのは構造的には「お金を融通する」という行為だ一方で融通するには相手がいるお金を融通されるのは誰か?という話だ例えば焼肉屋という商売を始めたいとして初期投資に1,000万円かかるとするこのお金を貯めるとなるとそこそこ時間がかかる人が多いだろうしかし金融の仕組みを使えば先に1,000万円というお金を手元に持ってくることができるこれが「お金を融通される人」だお金は融通する人と融通されて何かをする人の双方がいて初めて威力を発揮するなので、「貯蓄から投資へ」というからには「事業を作ろう」ということを同じかそれ以上に推奨しないとお金の行き先がなくなるそもそも100万円くらいのお金は働いて稼いだほうが早い「溶けても笑える100万円」をポンポン出せない人ならば資産運用を教える前に事業のやり方とかお金を稼ぐ方法を教えた方が、遥かに意味があると思う読み書きがまともにできて他人と会話ができるのならば年収1,200万円くらいまではどんなに遅くとも5年努力すれば余裕でいける問題はここに注目する人が少ないことだ資産家でなければまず「お金を融通される側」になるべきだ
『楽しさは作るもの』「何のために働きますか?」就活生からのFAQだたぶん、欲しい答えは「今こんな仕事をしていてそれはこんなに凄いんだよ」とか「あの仕事でお客様がこんなに喜んだよ」といったお仕事の価値ややりがい、武勇伝だろうこれに変化球でど正論を返すことがたまにある「人が何のために働くのか?」「人は刷られた紙幣の帳尻合わせのために働かされています」金本位制が壊れて信用創造が始まってからの社会は経済圏にある価値の総量は刷られた紙幣の分だけ常に膨張しているとなると人が働いて何らかの価値を生み出す前に紙幣によって「生み出すべき価値」が先に約束させられていることになるなので、みんな刷られた紙幣に働かされていると言えてしまうこれはただの構造の話であるがつまるところ「所詮は刷られた紙幣に働かされているだけ」なのだから「たかが仕事」とも言えるのだその「たかが仕事」が常に我々にとてつもないやりがいだとか生き甲斐を与えてくれると考えるのは仕事に対する過大評価だそんなものは自分で勝手に見つけるものでそのためにはやりがいや楽しさを見出すアイディア発想が必要になる仕事に楽しそうに取り組むかそうでないかはこの部分の個人差で決まっていて誰にとっても楽しくてやりがいのある仕事など存在しない楽しさを見つけるためには自分に対する質問の質にこだわった方が楽だ「何をしている時に楽しい?」ここで質問をやめてしまうと、「自分にとって楽しい固定不変のこと」があると錯覚するこれはやがてガッカリの元になる「どうして楽しい?」「どんなところが楽しい?」「どうしたら楽しい?」「何に注目したら楽しい?」と、自分の漠然とした感情にたくさんの補助線を引くことで「物事を楽しむ能力」のほうを高めることができるというわけで語彙を増やし、通説を疑い、思考することは楽しく生きるコツでもある