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東北在住35歳こどおじ 感謝の気持ちを持つことを目指す ギャンブルと罪に向き合い続ける 一度失敗した人生、あとは這い上がるのみ
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依存症の回復施設というと、独房に閉じ込められて手足をガチガチに拘束されて・・という勝手な偏見を持っていたが、行ってみれば普通の建物の普通の部屋だった。そこには、自分と同じような依存症の人が10人余りいた。依存症といっても、様々である。ギャンブル、お酒、薬物、ゲーム、買い物、性、窃盗、摂食・過食…など。
 そこでは本名は名乗らず、ニックネームでやり取りをする。且つ、話した内容を口外しないというのが鉄則でプライバシーは守られるが、そのかわりに嘘は話してはならない。一見すると健常者に見えても、プログラムを通して話を聞くと、その人の成り行きや苦悩が見えてくるようになった。
 依存症は、まず自分は病気だと認めることから始まるという。その上で、病気と一生付き合っていく覚悟を持つ事。一般の人の様に、適度に対象物と触れ合うことはもうできない。やるか、やめるか、その2択しか選べないとのことだ。完治というものは無い。
 最初はそんなことは認めたくはなかった。依存したのは自分の意志の弱さが全てだと思っていたし、自分は健常者だと思いたかった。何より、病気という言葉で全部片付けるのは“逃げ”だとかそういう見解だった。だがその考えは次第に変わっていった。
 その施設に通所して、ある程度歴が長い人がいた。自分と同じギャンブルだった。話しているだけでもその人の頭の回転が早いのが分かったし、長年の経験から他の人への回復のアドバイスができるような人だった。自分が回復した先の姿と重ね、少し憧れを持っていた。
 しかしそんな人でも突然スリップ(再度対象に触れてしまうこと)をして、声を震わせながら正直に心情を語る様は、胸を打つものがあった。この人のレベルに達したとしても、衝動に打ち勝つのはそんなに難しいものなのか。やめ続けるということは、意志だけではなくてもっと根本的な部分から見直さなければならないのではないか。
 回復のプログラムというのは、その根本とも言える自分の過去と対峙することがメインだ。そしてそれをまとめて、言葉に出して、聞いてくれた皆に意見を乞う。どれも今までに自分がしてこなかった事だ。時に感情的になり涙を流したこともあったが、皆気持ちが分かるからか理解を示してくれて、正直に話す事を恥ずかしく思うことは減っていった。
 そして今、思う事を記して締めとしたい。(つづく)
両親立替合計:574万
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 斯くして、最後のギャンブルは始まった。
20万を160万にする為には、最短の勝ちルートでオールイン50%を三回通す(20万→40万→80万→160万)必要があった。つまり12.5%を勝ち取らなければ色々なものを失う。同じチャレンジをしたとして、生き残れるのは8人のうち1人だけという計算だった。
 勝負をする前から、気持ちは負けた時のことを考えていた。このまま仮に負けて、明日自分の凶行が明るみになったとしよう。会社からは訴えられ、刑務所にでも入ってしまうのだろうか。社会的にも終わってしまうが、まあ、この苦しみから解放されるのであれば良いか。
 兎に角、楽になってしまいたかった。ここで死を選べる人は、強い責任感と勇気のある人なのだろう。その行為を擁護する訳では無いのだが、自分にはそのどちらも無かった。
 責任と勇気というと、その時の仕事の状況においても同じ事が言えたであろう。自分はC店長から引き継ぎを終え、その肩書きを譲ってもらったばかりだった。自分は店長のあるべき姿として、このような自己都合の借金まみれの人間であることを認めたくなかった。尚且つ、人を指導できる器も無ければスキルも無い。だが、それらの恥を受け止めた上で挑戦する意志があれば、逃げなければ、途中からでも軌道修正はできたように思う。破滅的な行動へ誘ったのは、自分自身の弱さゆえに他ならなかった。
 最後のギャンブルも結局最初からオールインを3回通すような度胸も無く、ぐだぐだ続けていた。奇跡的に資金は90万まで到達し、希望が一瞬見えたところで急に雪崩れのように斜面を転げていった。何度も経験した事なのだが、そこで一息ついて冷静になる事など不可能だった。
 そして、残高が0になったことを知らせる表示が画面に出て、自分の人生を賭けた勝負は終わった。実に呆気ない幕切れだった。だけどその時は今までに無い、本当にやり切ったような、どこか清々しい気持ちすらあった。時計は朝の4時を指していた。(つづく)

プロ◯ス:100万
銀 行 :100万
横領合計: 170万
両親立替:204万
合 計 :574万
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 店の金庫には立場上、触ることが出来た。金庫には130万程有った。それは一週間の売り上げの現金分で、1ヶ月の間のあるタイミングで本部に送金する決まりだった。逆に言えば、そのタイミングまでに金を戻せばバレない。そこに目をつけたのだ。
 流石にいきなり全額抜くということは無かった。最初は10万程抜いて入金、上手くいって2倍になったところで金庫に10万戻して、残りの10万を200万に増やすトライを重ねていった。その方法としては、自分はやはりバカラ選んでいた。約50%で資金が倍になるというゲームは非常にシンプルだが、そのシンプルさ故に他のギャンブルを受け付けなくなる。負けた分大きく張って勝ち、負けを“無かったことにしたい”という自分の性分にピッタリだったのだ。
 ただ悲しいことに、結果は常に同じである。ちょっとした連敗が続くだけで熱くなり、130万あった金庫の金は瞬く間に無くなった。本当に追い詰められてしまった。
動悸がして、呼吸が荒くなり、吐きそうだった。この130万を翌日までになんとかしないと、全てバレてしまう。
 最初はプラスだった150万を取り戻す為のギャンブル、次はそれを取り戻す為に借金した200万を取り戻す為のギャンブル、そして最後は店の金130万を取り戻す為のギャンブルをせざるを得なくなくなった。落ちるところまで落ちたものだ。
 もう借りれる場所は無いのだが、まだレジ金20万があった。お店のオープンと同時に、レジに入ってないといけないお金である。店が終わるのが21時、オープンが明日9時。12時間以内にレジ金20万を150万+手数料5%=約160万に増やして開店前に全て戻す。銀行入出金を使えば、その速度での出金は可能だった。
 勝てば普段の生活に戻れる。負ければ色々なものを失う。ここにスリルを求めて…とかではなく、その時の自分は自分を守ることに必死だった。(つづく)
プロ◯ス:100万
銀 行 :100万
横領合計: 150万→(170万)
両親立替:204万
合 計 :554万
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 3日で150万を失った。そして何の躊躇いも無く、両親との約束を破り、またお金を借りる。自分がしていることはおかしいと思いながらも、入金を済ませればもう後には引けなかった。
 プロ◯スで50万だった限度額は100万になり、今まではしていなかった銀行からの借入も行った。そこでも最大100万を借りることができ、それらの全てをオンカジに費やした。
 持ち金は増えたり減ったりしたが、感覚としては画面の数字が上下しているだけといった感じだ。もう以前のような楽しいギャンブルでは無くなっていた。楽しくてもそうでなくても辞められないのが、ギャンブルなのだ。自分にとってはそれが全てだった。
 こうしてまた合計200万の借金というものが簡単に、呆気なく、出来上がってしまった。当然もう何処からも借りれない状況なのだが、自分はまだお金の仕入れ方を知っている。横領だ。伝票の数字を改ざんし、支払ったように見せかけて着服する。それらをちまちま賭けて溶かして、気が付けば横領の額はまた10万増えていた。
 リスクの面から1日数千円から1万くらいの不正が限度なのだが、200万という負けを捲る為にはもっと大きな元手が必要だった。そこで自分は、もっと大胆な事を行動に移すのであった。(つづく)

プロ⚪︎ス:100万
銀 行 :100万
横領合計: 20万
両親立替:204万
合 計 :424万
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 その近辺のタイミングで出張の仕事があった。2泊3日だ。通帳を親に預ける生活は続いていたので、出張費で必要であろう金額をまとめて受け取り、現地へと向かった。ちなみに金額は2万程多めに言ってあり、そのお金でオンラインカジノをする気満々であった。
 出先の宿というのは開放感がある。初日の仕事を終えると早々に宿に戻り、久々のオンカジに胸を躍らせた。結果一瞬上振れたが、伸ばし切れず残高は0になった。ああもう楽しい時間は終わりかと思っていたが、頭にはもう一つ別の考えがあった。そう、前回1個だけ残した消費者金融のアプリである。
 前回両親の力で一括で返したのだが、行き違いになった分の払い戻しを受け取る為に残さざるを得なかったのである。もう払い戻しは受けたのだが、何となく解約しないでいたのを思い出したのだ。確認すると残高は7万まで使えた。
 頭の中でもう借金はダメだという思いとワクワクという気持ちがぶつかり合ったが、結局は「少しだけ」という毎度の都合の良い案で折れてしまうのであった。
 2万5千をアプリ借りて、またオンカジに興じた。いつもならばここで負けて0になるのだが、今回はツいていた。その出張の間は負けを知らず、残高はなんと150万に増えていた。アプリで借りていた分は早々に返して、途中からはノーダメージの無敵の勢いだった。過去一の勢いを感じた。両親への借金は200万。あと50万は十分射程圏内だった。
 ここで辞めていれば・・過去を振り返りそう思うこともあったが、根本の考えが変わらなければ行き着く先は結局同じなのだと思う。ここから自分が職を失うまで、4ヶ月を切っていた。(つづく)
借金合計:0万
両親立替:204万
横領合計:10万
オンカジ残高:+150万←new
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 家の前に車を暫く停車しているときに、玄関の戸を開く音が聞こえた。両親は心配していたようで、家に入る事が許された。
 久しぶりにまともな晩御飯を食べた後、借金の現状と今後どうしたいかをもう一度話した。自分は毎日借金に追われる感覚が辛いと、そこだけは正直に話した。話が終わった後に、他に隠していることはないか尋ねられたが、横領の事は話さなかった。言わなければバレない点と、わざわざ自分から不利になる事を言いたく無いという気持ちだった。
 そこでも楽な方に逃げた。その場で正直に言えていたら、未来は少しだけ変わっていたのかもしれない。
 結果、自分の気持ちを汲んでくれた両親は、借金の肩代わりをしてくれた。今回で2度目である。そうしてくれる事は予想していた。自分は狡猾な人間である。
 全社の返済を終え、クレジットの解約、消費者金のアプリは過払い返金待ちの1社を除き、削除した。また、給料の入るキャッシュカードと通帳も預けて、1日1000円ずつ貰うという小遣いルールを課した。そして1年半程で今回の肩代わりの全額返す計画を両親と一緒に立てた。
 借金に追われず、食も住も安定すると気持ちは少しだけ明るくなった。“いままで当たり前だと思っていたものが有り難く思う”を体現していた。ただ、不正をした事実は変わらない。負の感情は表には出さないものの、心の中で渦巻いていた。
 1000円の小遣い生活は1ヶ月程続いたが、今まで好きな物をコンビニで買い、好きなタイミングでパチンコに行っていたような自分は、それがあと1年以上続く事実に耐えられないでいた。1000円の小遣いを電子マネーに変えて、昼ごはんをお菓子で我慢。残りを競輪・・というようなギャンブルをこっそり再開してしまっていた。
 トータルでプラスじゃなくていいから、せめて負債の分は±0にしたい。そうしたらギャンブルからは足を洗う。仕事も今まで以上に頑張る。
 変わるチャンスを与えてくれたものの、結局そうやって全てをギャンブルに紐付けをし、しがみ付くことしか自分はできなかった。(つづく)

借金合計:0万
両親立替:204万
横領合計:10万
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 自分にとって、そのような生活をずっと続けていくのは困難だった。普通の人であれば1ヶ月の生活費ギリギリは残して、最悪は逃れるであろう。しかし自分はそれすら制御できなくなっていた。1ヶ月もすれば、生活費は全てギャンブルに消えていた。
 この生活を続けるには金が要る。でももう金を借りることはできない。ではどうするか?その時の自分の答えは実に狂っていた。

B先輩や前店長と同じように、不正を働けばいい。

 会社ではお金のやり取りをするとき、手書きの伝票を使う。そこで3,000の金額で取引があったとしよう。取引締結後に、こちらの控えにのみ“3”の数字に少し書き足して“8”にする。相手には8,000渡した事にして実際に払うのは3,000、5,000は自分の懐に入るというカラクリだ。この方法で、1を4へ、6を8へ、7を9へ・・というように書き直した。そして差額を着服した。たまに1番左に一つ桁を書き足したこともあった。大胆な手口ではあったが、伝票のPCへの打ち込みも基本自分でやっていたので、バレなかった。
 あれ程B先輩やA店長の不正に対して、嫌悪や怒りの感情を持っていた自分が、全く同じことをしている。でも、金は勝ったらちゃんと店に返す。自分はあの人達と一緒ではない。そう考えて、自分を正当化するのに必死だった。結局、一時的に勝っても金は店に戻さなかった。
 1日に取引が少ない時や、連続で不正をする事には高いリスクが伴う為避けた。平均1日辺り10,000までが限界だったが、全くできない日もある。上手くいった日はその金でネカフェに入り、余った金でギャンブルをした。金の無い日は道の駅で車中泊という生活を繰り返した。表の顔は笑顔で接客しながら、裏の顔で不正を働く。狂った二足の草鞋は心身を蝕んでいった。
 ある日の仕事終わり、気が付けば実家の前に車を停めていた。よく覚えていないが、限界を感じたのだろう。1ヶ月と少しの短い家出は、罪と借金を増やし、終わりを告げた。(つづく)

クレカ : 50万
レ⚪︎ク : 50万
ア⚪︎ム : 80万
アイ⚪︎ル: 7万
プロ⚪︎ス: 7万
キャリア: 10万
借金合計: 204万
横領合計: 10万←new
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 家を出たのは8月の頃だった。何も考えずに家を出た自分は、その日の仕事を終えた後ネットカフェへ向かった。それまであまり利用した事は無かったが、兎にも角にも暑さを
凌ぎたかった。
 利用してみると、中々快適なものだった。朝食はトーストが無料で貰え、ドリンクバーと合わせてスープ等も飲み放題だった。一食分浮くのはとても有り難い。シャワーも15分という制限付きだったが、利用することができた。寝床ではブランケットと枕を借りて難なく眠る事が可能だった。
 嫌なことも無いわけでは無かった。いびきのうるさい隣人、クリーニングでは落ちない、前の利用者の体臭の酸っぱいにおい等。ただこの暑い時期に、外でエンジンを切って窓を開けてする車中泊よりかは幾分かマシに思えた。それ程に、道の駅でやった車中泊は中々にきつかった思い出だ。
 ネットカフェは1泊で約2,000円掛かった。そこを打開したのがケータイのキャリア決済だった。10万まではケータイのお金と合わせて来月の引き落としにする事ができる。電子決済マネーにその分を充てれば、ネットカフェの大金やその他大体の支払いをすることができた。
 オンカジはキャリア決済では通らなかったが、競輪はできた。払い戻し1倍のワイド等に掛けて出金してしまえば、電子マネーを現金化することができた。キャリア決済と競輪現金化のコンボでオンカジをして、何とか勝ってその月の消費者金融の返済を乗り越えた。
 安定しない住居、栄養の偏った食事。ここから捲れるのは、オンカジしかない。何を犠牲にしてでも勝たなければ未来はない。
 1ヶ月程その生活を続けた先で、自分の意志は更に歪み始める。(つづく)
クレカ : 50万
レ⚪︎ク : 50万
ア⚪︎ム : 80万
アイ⚪︎ル: 7万
プロ⚪︎ス: 7万
キャリア: 10万←new
借金合計: 204万
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 前回借り入れた7万はリボ返済に充てて、すぐにまた借りて、給料と足してギャンブルをした。そしてまた全損。お決まりのパターンだった。そうなるとまた新たな借り入れをしなければならない。苦しいと思いつつモビ⚪︎トという会社に一縷の望みをかけて借り入れの審査をかける。が、やはり今回は1円も通らなかった。
 各種支払いの時期が迫ってくるが、もう返せる金など残っていなかった。このまま返さなければ、会社に電話が掛かってくるのだろうか?それだけは避けたかった。会社ではまだクリーンなイメージで通っていた。
 支払い期日ギリギリの夜、吐きそうになりながら、親に状況を説明した。また優しく許してくれるかもと、甘い考えもどこかにあったことは否定できない。だが、当然ながら父は怒鳴り、母は哀しそうな顔をした。そんな2人の顔を見ると、両親が言っていることは全く頭に入ってこなかった。
 小一時間ぐらい話をしただろうか。まとまってはいなかったが、一先ずその日の話し合いは終わった。内容は入っていなかったが、2人の顔を見て、自分はここに居てはいけないと思った。自分がこの家の幸せを壊している。その日の夜荷物一式をまとめて、何も考えずに家を去った。(つづく)

クレカ : 50万
レ⚪︎ク : 50万
ア⚪︎ム : 80万
アイ⚪︎ル: 7万
プロ⚪︎ス: 7万
借金合計: 194万
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 3つ目の消費者金融はアイ⚪︎ルだった。
いつも通りネットから希望金額や自身の状況を記載して、申し込みをした。そして結果の電話を待った。
 そのときも希望金額は50万にしていた。とりあえず50万入ったらアレとコレの支払いを済ませて、残った分でひと勝負と考えていたが、返ってきた答えはNOだった。
 「ご期待に添えず」「大変申し訳ございませんが」そう相手が答えるなか、なんとかなりませんか、希望金額を少し減らせば借りられますか、としつこく食い下がった。その度に、「先程も説明しましたが、総量規制というものがあり・・」と哀れな人を諭すような雰囲気で返事をされたことを覚えている。仕事上、難しいお客様に対してそれをする側だった自分が、今それをされている。落ちたもんだな・・と惨めな気持ちになった。
 何度かやり取りをして、アップロードした源泉徴収を元に正確な現在の収入やボーナスの見込みを話したところ、7万だけ借りることができた。今月はそのお金で乗り切って、来月の給料でなんとか捲る。そんな考えになっていた頃には、”楽しむ為のギャンブル“ではなく、”返済をする為のギャンブル“に着実に切り替わっていた。
 翌月、結局同じことを繰り返した。4社目はプロ⚪︎ス。前回の件で学んでいたので、金額の説明を少し誤魔化したり、数万円でも・・と下からいったところ、3社目と同じく7万を借りる事ができた。だがもう限界が近いことには気が付いていた。少しずつ、終焉の足音が聞こえてくる。(つづく)
クレカ : 50万
レ⚪︎ク : 50万
ア⚪︎ム : 80万
アイ⚪︎ル: 7万←new
プロ⚪︎ス: 7万←new
合計  : 194万
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 そこから別の消費者金融との契約までに時間は掛からなかった。同じような流れで、今回もキャッシング枠50万を契約することができた。しかも今回はショッピング枠30万というのも別に付いてきているではないか。ショッピング枠とはクレジットカードのような使い方が可能で、要するに直接そこからカジノへ入金することができた。
 合計80万、これだけあれば少額でコツコツ賭け、こまめに出金すれば勝てると思っていた。直近で80万負けた記憶はどこへ行ってしまったのであろうか。
 もう大体の負けパターンは記載したので省くが、結果を言うと80万はそのまま借金の上乗せになった。その支払いもリボ払いにしたが、合計するとリボ払いだけで月5-6万程になっていた。実際減らせている元本は、半額くらいだったと思う。
 負けたときは毎度吐きそうだったが、簡単に借りれることを知った自分は、次の瞬間には”次回のギャンブルの資金調達をどうするか“に頭が切り替わっていた。
 月末に給料が入る→各々のリボ返済をする→返済によって限度額に空きがでた分をその場で借りる→ギャンブルに回す というサイクルを何度か繰り返した。そのうちまた金が回らなくなっていたが、まだ借りてない消費者金融が数社あるし、また50万程借りてリボにすれば問題ないと、まだどこかで楽観的な部分があった。その希望は近く砕かれることになるとは知らずに。(つづく)

クレカ:50万(枠残り0万)
レ⚪︎ク:50万(枠残り0万)
ア⚪︎ム:80万(枠残り0万)←new
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 30万の大勝負だが、今回は勝つ事ができてしまった。しかも30万→100万の大勝だ。借金80万を返しても、まだ20万余る。流石に今回は出金しよう。そう思い出金申請をした。全額出金申請をすると残高は0になり、カジノで遊ぶ事は出来なくなる。
 その頃はいくつかのサイトのオンカジに手を伸ばしていたが、大勝したオンカジサイトの出金速度は速くはなかった。1日待ってもまだ着金していなかった。遅い。早く利確をしてしまいたい気持ちと、カジノをしたい気持ちでごちゃ混ぜだった。
 出金を待ちきれなかった自分は、とうとう申請をキャンセルした。勝ち分の20万だけ賭けよう。負けても借金80万は返せるし、その時の出金申請はしっかり待てば良い。自分の脳は本当に都合よく考えるようにできていた。
 例の如く、20万はあっさり負けて無くなってしまった。先程の考えでいくならば、そこで損切りをして借金の返済を優先するべきである。
 しかし、自分はそこで止まらなかった。負けた20万は“俺の金“という錯覚を起こしてしまっていたのだ。
 残りの80万は慎重に賭けていったが、あと1回の勝利が中々決められず、気が付けば熱くなって残高は0になっていた。まだ、クレカの枠20万が残っている。これを100万にできれば、無かったことにできる。それしかない。残り20万を入金した。
 奇跡は2度起きない。返済どころか、借金の額が増えただけであった。(つづく)

クレカ:50万(枠残り0万)
レ⚪︎ク:50万(枠残り0万)
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 それを聞いた両親は、「50万で済んで良かったと思いなさい」「失ったお金はまた貯めればいい」と、あっさりと事態を飲み込み、“もう投資はしない”という条件と共に、返済の50万を渡してくれた。
 心から助けられた気持ちになった。本当の事は言えなかったが、もうこれでギャンブルはやめよう。一生懸命働こう。そう思った、その時は。
 50万を口座に入れ、無事月末の引き落としに間に合った。存在が危険だと感じたクレジットカードの解約をしようと思った際、ポイントが結構貯まっていることに気付く。あれだけ使っていれば、それはそうなんだろう。欲しかったワンドアの冷蔵庫をポイントで買って、届いてから解約しよう。両親にもそう報告していた。
 冷蔵庫が届くまでの間の間、カジノが出来ず退屈で、葛藤した。何をしていても集中が出来ない。「10万くらいなら負けても次の給料で返せるし、何なら増やせる可能性が出てくるし、退屈しない」結局この誘惑に負けて、10万を入金する。スロットで徐々に減って0になる。焦って取り返そうとして、もう10万を入金、バカラでオールインをする。負ける。半分パニックになりつつ、20万を入金、またバカラでオールインする。負ける。もうどうにでもなれと最後の10万を入金、ルーレットの赤にオールイン。負ける。2時間あまりの出来事であったが、50万の借金が一瞬にして復活した。(つづく)

借金:50万→0万→50万
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 自分の手持ち以上に負けて初めて、深刻な状況にあると気付く。資金がある時は賭けができる。賭けができる以上は捲れる可能性がある。ただそれらが無くなった時、賭ける事が出来なくなった時、生活の中に希望の光を見失った気分になった。しかし、そんな中でも月末までに50万を用意しないといけない現実が待っていた。表情は暗くなっていった。
 1年半前にA県に里帰りしてからは、両親と一緒に暮らしていた。姉が3人いたがそれぞれ結婚していて、家には自分と両親の3人で暮らしていた。そんな両親も明らかに暗く口数が減った自分に対して、不安に思ったのであろう。何かあったの?と声を掛けてくれた。
 その際、思い切ってクレジットカードの支払いの事について相談した。支払い期限の一週間前くらいだったと思う。ただ、説明の際に自分は嘘をついた。原因を“ギャンブル”ではなく、“将来の為を思って始めた投資”と説明したのだ。何も分からなかった。仕方なかったんだ。泣きながら嘘をついた。(つづく)

借金:50万
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 堅実なギャンブルとは何だったのか。先述したマーチンゲール法は非常に脆い手法であった。考えてみれば1/1024のような確率は案外引けてしまうもので、10連敗以上は日常茶飯事レベルで起きていた。そこで損切りができず、それを上回る金額を賭けて、一気に取り返そうと思えば思うほど負けが加速していった。
 利確というのもできなかった。仮に資金が2倍、3倍になったとしても、更にそれ以上の利益を求め続けた。前出来ていたから今回もできる。金額を増やして同じことをすればもっと勝てる。そんな思考で、勝って辞めるということが一向にできなかったのだ。
 貯金が無くなった時点でギャンブルは止まるはずだった。しかし、まだクレジットカードの枠がある。もう大きな額は一気に賭けない。入金してコツコツ増やして、100万だけでも取り戻そう。これだけ負けていたのに、まだそんな事を考えていた。
 程なくして、返せるアテのない金額をクレジットカードから入金した。50万。負ければ月給では到底返せない金額だった。
 結果は言うまでもないであろう。(つづく)

貯金:0万
借金:0万→50万
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 2回繰り上げで支払いをした時点で、100万をこの1ヶ月の間で失ったことに気付く。流石に金銭感覚が狂ってきたことを認めざるを得なかった。だが、そこで退こうとは考えなかった。“ギャンブルで負けたお金はギャンブルで取り返す”
 今まではその場の雰囲気や気持ちでやってきたけど、勝っている人はどんな立ち回りをしているのだろう?動画サイトでオンカジの勉強をしようと思い立った。慎重に、堅実に勝ちたい。そんな気持ちだった。
 調べてみると色々な手法が存在する事を知った。中でも自分の性格にピッタリな手法が存在した。「マーチンゲール法」である。
 簡単に説明すると、まず1ドルを賭ける。勝てばプラス1ドルで、また次も1ドルを賭ける。負けた場合は、賭け金を2倍にして2ドルにする。それでも負けた場合はまた2倍にして4ドルする。勝てば賭け金を1ドルに戻して・・というのを繰り返す手法だ。
図にすると
1→2→4→8→16→32→64→128→256→512→1024・・・
 分かりやすい部分としては、上記の図のどの部分で勝っても+1ドルという結果で終えることができるという事だ。1回の勝負の勝率が約50%なので、10連敗する確率は1/1024、約0.001%ということになる。
 仮に10連敗すると2,037ドルの損失になるのだが、そんな確率そうそう引けるものでは無い。それを引かない限り、お金を増やし続けることができるという手法だ。
 実際にやってみると、運良く数日で資金を2倍にする事ができてしまった。時給に換算すると働くのがバカらしくなってしまう程だ。しかし、この成功体験が自分の首を絞めることになる。
 約1年後、貯金と月給は全てオンカジに飲み込まれていた。(つづく)

貯金:300万→0万
借金: 0万 
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 バカラというゲームはトランプを使う。青と赤のフィールドがあり、それぞれに2枚ずつのカードが配られる。(場合によっては3枚)そのカードの合計値の1の位が高いフィールドの方が勝ちというゲームだ。つまり足して9に近い方が勝ちとなる。10〜13のカードは全て0としてカウントされる。
 青か赤どちらが勝つか予想して、当たれば2倍になるという単純なゲームだ。引き分けの場合は返金されるので勝率は約50%、いわゆる半丁博打というものになる。約50%としたのは、厳密にはディーラー側の手数料を差し引くと僅かに50%を下回るからだ。
 客観的に見れば完全に運ゲーなのだが、「青がこれだけ続いたのだから次も青」「前々回の動きと同じであれば、次は赤」などと、くだらない思考をよく働かせたものだ。
 最初は100円〜1000円程で遊んでいたのだが、負けが込んでくると賭け金が徐々に上がっていった。例えば10万からスタートしてじりじり負けて7万とかになった時、ここで3万張って勝てば”取り返せる“という気持ちが浮かんで大金を賭けてしまうのだ。
 パチンコをやっている人は分かるかもしれないが、そんな時の50%は本当に通らない。負けて7万があっという間に4万になり、やけになって最後は4万円オールインというのが大体の負けパターンだった。
 回復した50万のクレカの残高も、数日でまた底を付いてしまった。性懲りも無くまた50万を下ろし、繰り上げで支払いをするのであった。(つづく)

貯金:350万→300万
借金: 0万 
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 繰り上げ返済をすることにより、月に使える限度額が回復する。回復すればまたオンカジができる。50万円を通帳から下ろし、振り込みをした。入金方法がそれしか分からなかった自分には、クレジットカードが頼みの綱だった。
 この時点でオンカジでは50万円負けており、取り返す為にスロット以外に何かないか模索し出した。そこでオンカジ内の「ライブゲーム」というものが目に留まった。
 ライブゲームというのは、画面越しのディーラーさんがリアルタイムでこちらの操作に対応してくれる、リアルカジノのテレワークバージョンともいうべきだろうか。お馴染みのルーレット、ブラックジャック、ポーカーや一風変わったビンゴゲーム等が遊べた。最初はルールを知っていたブラックジャックをプレイしてみた。
 ブラックジャックのルールは割愛するが、同席した他のプレイヤーの動向により自分の引くカードが変わってしまうのが、どうも好きになれなかった。イカサマをされているのではないかと思うほど、ディーラー側が強いと感じる時もある。(もちろんこちらが連勝することもあるのだが)
 どちらの要素も排除したゲームが無いか消去法で探したところ、「バカラ」というゲームに辿り着くことになる。(つづく)

貯金:400万→350万
借金: 0万 
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 オンラインのスロットという新しいギャンブルを見つけた自分が、のめり込んでいくのは時間の問題だった。そして基本ずっと負けていた。たまに勝つこともあるのだが、前述した100円→100万円のような爆勝ちがそうそう掴める訳もなく、ジワジワとクレジットカードの利用金額が増えていった。
 少し慣れてくると、”ボーナスBuy機能“というものを使い出した。簡単に説明すると、1回転100円で回して1/100の確率でボーナスゲーム(いわゆる確変)に入るスロットがあるとしたら、1万円を支払う事によって即、ボーナスゲームに入るというショートカット機能のようなものだ。
 欠点として、本来100回転回すうちに入るであろう少額の配当が入ってこないということと、数回回しただけでボーナスに入るようなラッキーなシチュエーションを味わえないことが挙げられるだろうか。反対に利点としては、100回以上回してもボーナスに入らないということを回避できるという他、時短になるというところだ。
 ただ時短になるということは、負ける時はそれだけ加速的に負ける事になる。気付けば50万円あった楽○カードの限度額はあっという間に上限に達していた。
 1ヶ月程で50万円負けたという事実は、アプリで明細を見た時に一気に襲いかかって来た。だが、当時の自分には貯金があったのでそこまで深刻には考えていなかった。前にあったソシャゲの件とは違い、”取り返せる“可能性がある。自然と手は楽○カードのサービスセンターのTEL番号を押し、口では繰り上げ返済の依頼をしている自分がいた。
(つづく)
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地獄のギャンブル編(31歳-)
 今でこそメディアで度々取り上げられるようになったが、オンラインカジノは当時はそこまで有名では無かった。とりあえず一番知名度が高そうなところ、日本人ユーザーが多そうなところを選んで会員登録をした。
 入金方法は最初の方は主にクレジットカードを利用した。手始めに100ドル分(当時は1$=103円程)入金した。紹介していたサイトを見つつ、同じスロットを遊んでみた。
 スロットと聞くとボタンを3回押すようなイメージがあるが、オンカジの場合は1クリックで自動で1ゲームが終わる。オートモードにすれば1000ゲーム自動で行なったりする事もできた。
 レートの金額を自由に上げ下げできるのも大きな違いだった。日本のスロットは1枚20円の場合メダル3枚=60円が1ゲーム分の値段になるが、オンカジのスロットは1ゲーム20円〜1万円という恐ろしいレートで遊べた。(機種によって下限上限の違いはある)
 一見、1ゲーム20円にすれば長く遊べそうに見えるが、オンカジの1回転は本当に一瞬である。最初に遊んだ時は下限の20円で回していたが、長い演出がある訳でもなく1万円が溶けるスピードはリアルのスロットよりも早いように思った。
 初回のオンカジはそんな感じで終わったが、最高配当10000倍、20円が20万円、100円が100万になる可能性があるというのには非常に胸が躍った。また次もやろう。1回大勝ちしてやろう。
 その時はまだ、足元はおろか、先に続く深い地獄が見えていなかった。(つづく)
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そこに映っていたのは、A店長の姿だった。

A店長が不正をしている。

 それも1件や2件どころではない。恐らくB先輩が横領をする前からだ。それも、やり方はB先輩の手口と殆ど一緒だったと思われる。(B先輩の不正後監査は厳しくなったものの、伝票のシステム上責任者が不正をした場合は気付かれ難い)
 一瞬頭が真っ白になり、目の前に起きている現状を認めようとしなかった。だが、暫くして別の感情が湧き上がってくる。A店長に対する激しい怒りだった。
 ”あの時のB先輩の横領に向けていた怒りはただのパフォーマンスなのか?結局自分も同じことしていたんじゃないか。信じられない。許せない。裏切られた“そんな感情だ。
 出来る限りの証拠を集め、閉店後に当時の部長に報告した。電話越しに話を聞いた部長も何かの間違いだと思ったらしいが、実際店舗に来てカメラのデータを見てすぐに表情が硬くなった。翌日には調査が入り、A店長は瞬く間に解雇となった。自分がそうさせたも同然である。不正はかなり前から行っており、それにより着服した金額は4桁万にのぼったそうだ。
 部長の配慮で、解雇までの流れの中でA店長の姿は一切見せないようにしてくれた。そんな情けないA店長は見たく無いというのはA店舗内の誰もが同じだった。
 A店長は最古参の社員だったので、その衝撃は店舗を越えて会社中に伝わる事になる。みんな口を揃えて、「そんな事するような人には到底見えなかった」と言っていた。中には涙を流した人もいた。以前の自分であれば同じ気持ちになったと思うが、今回は違う。一度踏み躙られた場所をもう一度踏み躙られたのだ。そんなことをした理由などどうでも良かったので、聞かないようにした。A店長への気持ちの切り替えは冷淡で、早かった。
(つづく)
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 A店舗での勤務は割と順調に進んでいた。A店長は年齢50代になるが、全くそうは見えないフットワークの軽さだった。機転も効き、ある程度のイレギュラーはまとめて解決し、あるいはプラスに持っていけるような感じで頭もキレた。会社では最古参の部類に入るのだが、まったく偉ぶる様子もない。
 自分は親交のあったB先輩の件でショックを受けていたが、早々に切り替える事ができたのはA店長の鮮やかな仕事の流儀に魅せられたおかげでもあると思う。
 店舗に関わることでの最終決定はA店長が下すのだが、社員である自分に今後の展開について相談してくれることもあった。簡単な件であれば決定権ももらえた。店舗運営に少し携われているような満足感、でも責任は店長という1番美味しいポジションに甘んじていた。A店での勤務は順調に進んでいたというよりも、上手に流れていたという表現が正しいのかもしれない。嫌な事は先送りにして、現状をただただ流れる。今までの人生も大体そんな感じだったし、表面上変わろうとしていても、変える覚悟は無かったのだ。
 数ヶ月流れたある日、いつも通りの閉店業務を少し早めに行なっていた。その日はA店長は休みなので、自分とスタッフさんの2人体制だ。2人は最低限の人数なので、できる作業を早めにやって早く帰ろうといった感じだ。手書きの伝票をPCに打ち込むという作業が残っていたので進めていたのだが、どうも前日の数字に小さな違和感を感じた。この作業は入社してから店舗共通でずっと続けていたこともあり、気付けたのかもしれない。
 その時はまだ「単なる打ち込みミスだと思うし、あとで総務に詰められると面倒だから今日のうちにみておこう」という軽い感じだった。だが、探っていくうちに動悸が強くなっていく。変な汗も出てきた。いや、まさか、そんなはずはない。もう一度見直そう。勘違いかもしれない。そうであってくれ。
 それでも判断がつかず、最終的に自分は怪しい伝票付近の時間帯の、防犯カメラのデータを再生した。そこで不安は確信へと変わった。(つづく)
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 B県のB先輩(パチンコ一緒にいっていた先輩)が横領でクビ、というまさかの情報だった。
 一緒にいて全くそんな事をするような人には見えなかったし、信じられないというのが第一の感情だった。他のスタッフさんも軒並み同意見だった。
 B先輩はスタッフさん間のトラブルをうまく落としどころを見つけて、丸くおさめるのが得意な、でもどこか抜けているところがあって憎めない、そんなキャラクターだった。歓送迎会をまめに開いてくれたし、気前も良かった。自分のB県の送別の際もサプライズ用意してくれて、思わず号泣したというエピソードがあるくらいだ。3人の子供を溺愛していて、奥さんとの惚気話をたまにする、いいパパであり自分にとってお兄さんのような存在だった。
 A店長はそういったものは一切排除して怒りをあらわにしていた。確かに、古株であるB先輩の無責任な行動に対して怒りが湧くのは最もだ。
 自分も先述したB県での思い出補正はあったが、不正をした時点でB先輩を蔑みの対象に徐々に切り替えていったのは間違いない。
 だが、B先輩はB先輩で抱えていた闇があったんだろうと、今になると思う。
(つづく)
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最後の異動(31歳)
 最後の異動は、地元のA県に帰還するような形となった。県外である程度経験を積んだ自分を、地元のA店へ戻してゆくゆくは店長とする流れだったのだろう。ただ、その時の自分は仕事に対しても問題を抱えていた。それは圧倒的な自信の無さだった。仕事の作業内容ではなく、主にマネジメントの面に対してだ。
 上に立つ人間としての振る舞い、そこに全く自分のビジョンを描くことが出来なかったのである。累計8年程仕事をしていたのに、なんとも情け無いことだろうか。
 自分は冷静な判断や行動できるのか?的確な指示を出せるのか?数値管理もちゃんとできるのか?正直どれも自信が無かった。それ程、社員と店長の間には大きい壁のようなものを感じていた。
 自分は人にどう見られているかを気にして生きすぎた結果、他人から見たら従順で真面目そうな人間に見えるのだろう。偉い人には好かれやすい見え方の為、能力以上を期待されてしまう。自分にはそんな能力は無いというのに。
 それができなかった時、自分という人間の像は周りからみたらどうなってしまうのだろう。そんな事ばかり考えつつ、ただ流されるままの自分は辞令に従い、A県に帰還した。
 引越しは順調に終わり、A店長が店を構えるA県店舗で働くこととなった。A店長の動きを見習って動く社員ポジションに就いた。A店長は会社の中でも最古参に近い位置付けで、腕も立つ人だという話は聞いていた。実際側で見るA店長の動きは素早く、丁寧。数値管理にも強く、一つの店長としての完成系だと思った。スタッフに優しく、自分にストイックな部分はカッコいいと思った。この人の下で働けば自分もそうなれるかもと淡い期待を描いた。
自分がA店舗に異動となり暫く経ったとき、衝撃のニュースが社内に流れる事になる。(つづく)
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2018年1月-12月 72勝100敗+77,400
2019年1月-12月 94勝114敗-246,000
1日平均投資額23,000 回収額22,600
 
 収支表を振り返るとざっくりこんな感じだ。2年間通して年の半分以上通っていてこの程度の負けは、多分相当運がいい方だと思われる。(パチンコのペイアウト率は約80%程らしい)最も、収支をつけ始める前を合わせると更にマイナスになるが。
 この頃は車を買ったりして出費は激しかったが、借金をしてまで打つという兆候は無かった。仕事終わりにパチンコ、休みは開店から閉店までパチンコという日が続いたが、自分はギャンブルと上手くやっていけると思っていた。今まで運が良かっただけだと知るのは、もう少し先になる。
 真っ当な趣味を探していたつもりが、パチンコという自分にとって相性が最悪なものを趣味とすることになってしまった。確かに趣味と言えるかもしれないが、それこそ声を大にして言えるものではなくなってしまっていた。B先輩を除いて職場の人には言わないようにしていた。ばれたら恥ずかしい、自分のイメージ崩れてしまいそうという思いがあった。
 ただ、他にする事も無いので足は自然とパチンコ屋へと向いてしまう。他に楽しい事を見出せないのだ。4回目の引越しを経てもやはりその地でのパチンコを嗜んでいた。
 しかし2020年の3月、ピタリと収支表の記録が止まった。コロナウイルスの蔓延の時期と重なる。多くのパチンカーが辛い思いをした時期だと思う。実際、自分も行きたくて仕方なかった。だけど当時コロナは本当に恐ろしく得体の知れないもの。パチンコ店は開いていたが、近隣の住人から白い目で見られるのは明白だと思うと、足取りは重くなった。かわりにソシャゲの課金を少額で再開し、そちらに心血を注いだ。結果しばらくパチンコには行かないのだが、ネットで最新の情報は追っており、常にうずうずした状態だった。
 そして数ヶ月後、コロナが徐々に落ち着いていくさなか、最後の異動が決まる。(つづく)
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 パチンコの何も起こらない時というは本当に何も起こらなくて、退屈になってくる。でもこの台の当たりってどんな物なのか1回は見てからやめてやろうと思った。
 約1ヶ月後、そこにはB先輩と仕事終わりに一緒に打ちに行く自分の姿があった。もうその頃には大当たりも大連荘も何回か経験して、ドップリとパチンコの沼にハマっていた。3点方式の交換も学び、ひとつ大人の遊びを知った気になっていた。
 大体4円の1/394か1/299のルパンを好んで打っていた。普段何も起こらないが、急に役物のロゴがドンっと落ちてきてチャンスになったり、「タイマー準備中」がさり気なくきた時は脳汁ものだった。
 その頃には自分一人でも行くようになっていた。B先輩の方は負けが込み、逆に足を運ぶ回数は減っていた。先輩は結婚して家庭を持っていたので、自由に使える金額に限りがあったのであろう。
その点独り身の自分には工場で蓄えたお金が残っていたし、金額に不自由をする事がなくスリルや興奮を味わえていたと思う。B先輩以上に加速的にのめり込んでいったのは言うまでも無い。
 ただ、その頃から金銭感覚とハマり方の質はおかしくなっていった。PCのゲームは卒業できたのだが、今度はケータイでできる、いわゆるソシャゲーにハマってしまったのだ。その中のガチャという、課金をして引けるくじ引きのようなシステムがパチンコと似ているようなところがあり、パチンコで買った分をソシャゲに課金してまたガチャでギャンブルみたいなことをよくやっていた。つまり、ゲーム性でのハマりというよりもギャンブル性のハマりという、非常に危険なものだった。
 気がつけばそのソシャゲには100万以上使っていた。ふと履歴を見て手計算して、合計の金額を見て唖然とした覚えがある。その時に「パチンコは返ってくるが、ソシャゲは返ってこない。損じゃね?」と思ってしまった。それ以降しばらくはソシャゲの方は課金を控えるようになったが、パチンコは止まらなかった。ソシャゲの件もあり、そこからパチンコの収支をアプリで付けることにした。(つづく)
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パチンカー編(26-30歳)
 初めてのパチンコは実はもう少し遡って、A県の店舗にまだ在籍していた頃だった。そのA県店舗の先輩に誘われて行った。23歳頃になる。4円パチンコの甘を打っていたと思う。よくルールが分からない。画面の数字が動いているだけで何も起きないし、館内もタバコの匂いすごいし、音もやばい。工場の頃の轟音を思い出した。そんな事を思っているうちに5000円があっという間になくなった。
 正直つまらなくて、よっぽどPCで対人ゲームしていた方が楽しいと思った。早く帰りたかったが、まだ先輩とその打ち仲間が打っていたので、仕方なく1000円だけ追加で入れたが、やっぱりすぐ無くなった。周りの自分より年上の大人が何か熱狂しているのを見て、自分はこうはなるまいとその時は思っていた。それを最後にB県のB先輩に誘われるまでは打つことは無かった。
 時は戻り、26歳の時再びパチンコ店へと赴く事になる。B先輩と一緒に仕事をする時に、パチンコの話をしてきたのが発端だ。何万円勝ったとか、時間を忘れる程楽しいとか、結構しつこかった。んじゃ1回行きますかと乗ったものの、それで楽しくなかったとなればもう誘ってくる事は無いだろうと踏んでいた。
 先輩の隣に座りサンドに5000円入れて打ち始めるが、全然駄目。全く何も起こらない。その時打っていたのは大当たり確率1/394で当時のMAX台と呼ばれる非常に荒い台なので当然だった。追加で入れた5000円もあっさり無くなり、合計1万円無くして店を出た。B先輩は単発だが当たっていた。
 あまりに呆気なく無くなった1万円という結果を目の当たりにして、怒りが沸いた。B先輩にではなく、パチンコ台にだ。『パチンコはやっぱつまらない。けど、ここでやめたら悔しい』という気持ちも同時に出てくる。負けず嫌いの性分が悪いところで出始める。それっきりにする予定が、自分の心に謎の火をつけてしまうことになる。(つづく)
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 この3回目の引越しには、ゲーミングPCを持っていかなかった。理由は二つ有る。一つはオンラインゲームもついに飽きそうになりかけていたから。ずっと続けていたアクション系のオンラインゲームも、年数が経つにつれてアクティブユーザー数が減ってきた。そうなればゲームの活気も無くなり、自然と衰退していくことになる。このゲームをやめて次のオンラインゲームに・・とはその時は成らなかった。もう今から1から始めるのは何か面倒という気持ちがあったのだろう。
 もう一つの理由は、もっとちゃんとした趣味を見つけたいという気持ちだ。同僚に趣味を聞かれて、オンラインゲームです!と意気揚々に言える勇気は無かった。その時の仕事場でPCはもう商品として扱っていなかったし、下手をしたらまたオタクのレッテルを貼られてしまうのではという恐怖もあったと思う。
 仕事柄色んなジャンルの商品を扱うので、休みの日は色んな商品を他所で見て回るべき、もしくはいずれかのジャンルに特化して強くなるべき、それを趣味にするべきという思考が最初はあった。しかし、毎日嫌というほど見る商品達に対して、何にも興味を持てなくなっていた自分がいた。休み中は何も見たくもないから引き篭もろうとすら思ったほどだ。
 そんなこんなでPCを売却し手元から排除したものの、真っ当な趣味探しに難航していたころだ。B県店舗勤務のB先輩が持ちかけてきたのがパチンコの話で、そこからギャンブルの世界にのめり込んでいくこととなる。(パチンカー編へつづく)
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職業訓練編(22歳)

 工場をやめたあと、まず何が何でもレーシック手術がしたかった。レーシック手術というのは、簡単に説明すると眼球の奥の方に直接治療用の光を当てて、恒久的に視力を回復させるという手術だ。最高クラスの物でも30万円程だったので、ケチらずに一番いい手術を受けに名古屋までいった。
 なぜレーシックに拘ったかというと、やはり眼鏡にコンプレックスがあったからだ。中学での罰ゲーム事件や、前の高校でのレッテルはこの年になってもまだ引っ張られていた。コンタクトは面倒くさがりの自分には向いていないと、早々に選択肢から外していた。コンプレックスを取り払った状態で、新しい職場に就きたいという気持ちが大きかった。
 今考えても目にレーザーを当てるという恐ろしい内容で、僅かながらでも失敗(失明はしないが)の可能性がある手術を良く受けたなと思う。ネットで調べて、慣れていない電話を全身変な汗をかきながら、一生懸命ダイヤルを回して。震える手でメモして。それほどまでに裸眼に執着していたんだなと思う。
 レーシック手術を無事終えた後、ハローワークの紹介で職業訓練をさせてもらった。期間は8ヶ月と短いものの、店頭での食品の販売を想定し、企画書をwordで練り、パワポでプレゼンして、実績をExcelで計算するというofficeの基礎を教わった。実際に店舗に出て客寄せなんかもして、自分のようなコミュ障が絶対やらないような事を色々した。本当にいい経験をさせてもらったと思う。
 訓練終了後、またニートに戻りそうになるのを振り切り、一つ就職先候補を見つけた。休日日数や待遇とかあまり見ずに、業務内容がなんとなく自分でもできそうということで応募した。結果、簡単な面接を経て合格した。後々後悔することになるのだが、長い販売員時代が始まる。
(販売員編へつづく)
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 そこから仕事と学校への通学は順調に続いた。通信制は4年行かないとならないのだが、休まず登校していた。途中、ふとある考えが頭をよぎるようになる。「俺この工場で一生を終えるのだろうか」
 正直、工場の労働環境はあまり良くは無かった。冷房は無いので夏は汗まみれのオイルまみれ、汚れが強く、家に帰ってから手洗いしてから洗濯機に入れないとまず落ちなかった。
 あと、繊維工場独特の轟音。自分は耳栓をしっかりしていたので後遺症にはならなかったが、長年勤めていた先輩は片方はもう聴力が無い、そんな話をしていた気がする。
 その轟音故か、コミニュケーションも最低限だった。自分はコミュ障気味だったのでそれはそれで性に合っているはずなのに、これを40年以上続けると考えると『何か違う』というワードが沸いてくる。
 悩んだ末に4年間通った通信制高校の卒業と同時に、工場を退職する事を決めた。もう少し、色んな仕事を見たい。自分の気持ちに従った。
 この頃は、まだオンラインゲームをずっと続けていた。プレイするゲームのジャンルは少し変わり、レベルを上げてモンスターを倒すMMORPGではなく、プレイヤー同士での対人戦がメインのアクション系だった。
 プレイヤー同士での戦いは単純なキャラクターのレベルでは決まらず、操縦者の腕によるところが大きいので、勝利した時の自己満足感はより強い物だったと思う。無課金でもアイテムや装備での格差が無いというところにも惹かれていた。ゲーム名は「ファンタジーアース ゼロ」
 ほとんど無料で遊べていたので無駄な課金はせず、実家暮らしで特に他にお金の使い道も無かったので、地方の小さい工場での3年間勤務で、細々とではあるが貯金ができていた。(職業訓練編へつづく)
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通信制高校編(17-21歳)
 1年半もそんな生活を続けると、流石に辛くなってくる。変わり映えしない毎日、両親に対して申し訳ない気持ちもあった。変わりたいと思っていた。
 そんな中、母親が通信制高校の話を持ってきてくれた。ちょうど1年前にも同じ話を持ってきてくれたのだけど、その時はまだ気持ちが動かなかった。今回はやろう。もう終わりにしよう。そんな気持ちで17歳、2周くらい遅れて高校に再デビューした。
 そこの学校は特殊で、日曜日だけが登校日。それ以外は休みなので、次回提出のレポートだけ仕上げて、また次の日曜日に備える。なので基本の生活はそんなには変わらなかった。通信制高校の良かったところは20代〜70代程の方も居て、自分程度の周回遅れなど屁でも無いといった感じの雰囲気だった。自分だけじゃ無いという事にも救われた。相変わらずオンラインゲームはやっていたが、着実に前進している気持ちはあった。 
 18歳になったとき、親の勧めで免許を取った。自分が運転だなんて1ミリも考えられなかったが、やればなんとかなるものだ。
 移動範囲が広がったことにより、学業と並行して仕事をするという選択肢が生まれた。平日は仕事で、日曜日は学校というスタイルだ。その時はPCのスペックにもう限界が来ていたので、とにかく新しいPCを買うのにお金が12万円程必要だった。なので働くことに恐怖を感じつつも、近場の繊維工場を見つけて仕事を始めた。こちらもやってみれなんとかなるものだ。
 仕事を1ヶ月終えて、手元に入った10数万円。初めての給料だったがシンプルに感動した。『こんな大金が1ヶ月で手に入る』
 それまでオンラインゲームで課金は少々していたが、今まで貰ったお年玉を崩しての入金だったので、10万というお金を扱う事がなかった。その初任給は親の為ではなく・・先述したようにゲーミングPCへと姿を変えていった。(つづく)
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ニート編
 そこからはいわゆるニートの状態となった。相変わらずオンラインゲームは続けていた。生活にリズムなんてあったものではなかった。眠くなるまでゲームして、寝て、起きてカップ麺とか好きな物食べて、ゲームして、寝て、を時間に際限なく繰り返した。両親に何か言われる度に強く反発した。繰り返しているうちに両親も何も言わなくなった。でも、「今は充電期間だ、また次頑張れる時から頑張ればいい」って父が時たま励ましてくれていたのを覚えている。
 そのニート期間は、本当に多種多様のオンラインゲームをやった。高校をやめる引き金となったタイトルのゲームなんて、もうその期間中にやめてしまって、早々に他のタイトルを遊んでいた。高校をやめてまで続けたかったはずなのに。
 ネトゲ仲間たちと、Messengerで下らない話をして過ごしたりもしたが、ニートだとは言い出せずあまり深い仲にはなれなかった。本当に、形として残る物なんて何1つ無かった。
 こんな生活を自分が繰り返している間、同級生たちは必死に勉強して、部活をして、恋愛をして、充実した生活を送っているのだろう。ネットの世界から現実に戻る度、取り残されていくような恐怖が心の中で渦巻いているのを感じた。(通信制高校時代につづく)
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 2学期に入ってすぐに事は起きた。重要なテストの日に、遅刻してしまったのである。高校に入っても遅刻しそうになると親が起こしてくれたのだが、そんな日が続き過ぎたのかその日は起こしてくれなかった。もちろん自己責任なのだが、なんで大事な日に起こしてくれなかったんだという理不尽な怒り方をした記憶がある。
 その日の遅刻がきっかけとなり、『テストを受けていないし、学力は壊滅的だし、僕はもう進級できない』と強く思い込むようになり、学校に行かなくなってしまう。
 冷静に考えれば全くそんなことは無い。現に直接家に来てくれた担任は「全然大丈夫、進級できるよ」と同情的な感じではなく、さも当然かのように言ってくれた。しかし、僕は頑なに学校には戻ろうとしなかった。
 学校に行かない日が重なり、単位の問題が出てくると「1年留年して仕切り直しもできる」みたいな話もしてくれたが、想像しただけで無理だった。2年生になる元同級生から笑われ、新一年生からもバカにされるんだろうなと。学校なんて辛い場所はやめて、単純に楽な方に逃げたい。ただひたすらそう考えていた。
 学校を休みだして部屋に籠る日が続くと、母方の母親、つまりおばあちゃんが部屋の前まで来てくれた。
「おばあちゃんだけは味方だから、出てきて」と何度も言ってくれた。だが、結局部屋から出られなかったことは凄く後悔している。恥ずかしいという感情と、もう何もかも嫌だという感情が入り混じって、出るに出られなかったのだ。寂しそうに去っていったおばあちゃんは、今はもうこの世からも去ってしまった。
 入学してから約5ヶ月、余りにも早い中退となった。人生のターニングポイントは?と聞かれたら、ここは間違いなくその一つとなるであろう。(ニート編へつづく)
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 そんなこんなでどっぷりとオンラインゲームに浸かった自分は、クラスではキモオタというレッテルを一部の人間から貼られていた。いじめのような実害を受けたわけでは無いのだが、イジられというか。
 例でいうと、当時「電車男」というオタクがメインの映画があったのだが、その映画の挿入曲「Romanticが止まらない」が校内で流れる度に、「これお前のテーマや笑」と、そんな軽い感じだ。中学で自分が友達にやってしまったことがそのまま戻ってきたのだと考えたら、因果応報だなと思う。
 夏休みももちろんオンラインゲーム内で過ごし、毎日がお祭りのような感じだった。その時やっていたのは「ナイトオンライン」という中華系のMMORPGだった。ボンバーマンオンライン時代にMessengerというアプリで知り合った友人の紹介だった。対人戦が楽しく、Lvを上げて装備を整えて、ギルドメンバー達と共に戦った。範囲系のスキルが大好きでウィザードを選んでいたが、接近戦にはめっぽう弱く、ハイドしたスカウトに何度もPKされた。悔しい思いもしたが、仲間と一緒に狩りをしたり、レアアイテムをゲットして着実に強くなっていくと、その時に感じた喜びは現実の世界の出来事を遥かに凌駕するように感じてしまっていた。(つづく)
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高校・1年生編
 無事合格が確定したと同時に、どうしてもまたやりたかったことは「オンラインゲーム」
PCのモニターは破壊したが、PC本体は生きているのでモニターさえ買い換えればあっさり復帰ができてしまう。
 必死に脱却しようとしてモニターをハンマーで叩いていた時も、心の奥底でまだ復活できることを期待して、本体は壊さないでいたのかもしれない。そして、その望みはあっさりと叶ってしまう。
 それは引き出しの中に置いていたお年玉だった。洋服とか他の物にお金を殆ど使わなかった自分は、お金の使い道が余り無かった。勉強漬けで存在を忘れていたが、モニターを買おうと思った時、即座に思い出す。購入ボタンを押すのに躊躇は無かった。勉強を頑張ったとして、両親も強くダメとは言えないだろうという計算もあった。
 無事モニターが届き、合格が確定してからは暫く遊び呆けた。しかし、もうそこからの転落はあっという間だった。
 その年の4月、何駅か離れた高校に入学する。華の高校デビュー・・のはずだが、部活には入らず、学校や予備校の時間は殆ど寝て、残りの時間を全てゲームに費やした。全く勉強しなかったわけでは無いが、基礎の積み重ねが多い教科であればもはや何をしようが全く着いていけなかった。数学は100点中2点とか8点とか、本当にマンガみたいな点数を取り続けた。
 その反面、オンラインゲームはやり込む分、着実に自分の心を満たしてくれた。オンラインゲームの中でも、MMORPGというジャンルにハマっていたのだが、簡単に説明すると他人と協力して、レベルを上げて、スキルを覚えて、だんだん強いモンスターを攻略していく 基本はそういったゲームになる。
 これだけ聞くと何が楽しい?と思うかもしれないが、スマホなんてない時代のオンラインゲームは、自身に於いて数少ないコミニュケーションツールの一つであると同時に、キャラクターの着実な成長により自己満足感を得ることのできる、もう一つの世界のような物だった。それに魅せられた人は、言葉では言い表せない程にハマってしまうのだと思う。(つづく)
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 少し話が戻るが、中学校の夏休みの課題にも自由研究があった。そこで小学校での自由研究の実績を見て期待をしたのか、理科担当の先生に「自由研究期待しているよ」みたいなことを1年生の時に言われた。が、困惑した。
『あの自由研究を仕上げたのは自分じゃない。母親だ。』教師には過度に期待され、母親は上手く仕上がることを期待して。それは全く自由な研究ではなかった。結果自分は何もしたくなくなっていたので、全て放棄した。が、母親が自分の名前を使い研究を進めた。母親が考案した内容を姉がサポートして仕上げ、名前のところだけ自分が書いて提出。みたいな感じに最終的になっていたと思う。
 仕上がった自由研究を理科の教師に見せたところ、「これ君が全部やったの?」と聞かれたので、「いえ、母がやりました」と答えたところ、一言「そうだよね」と言われた。内容を自分があまり把握していない様子を見て、教師は大体察したのだと思う。2.3年の自由研究に関しては、もう何も触れられなかった。
 自分の”理系の才能がある”という先生方に対するメッキが一気に剥がれたけれど、もはやどうでもよかった。そういうプレッシャーとか一切無しに自由研究という課題がしたかったんだと思う。
 振り返っていて、当時の母の介入が煩わしかったという気持ちが蘇ってくる。本人に何度か嫌だという事を伝えたが、変わらなかった。その煩わしいという気持ちは、まだ消えていない。(高校・1年生編へつづく)
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34歳初骨折記念写真
皆さんお酒飲んでブレイブボードはやめましょう・・
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中学校3年生
 いよいよ受験生ということもあり、ゲームばかりしていた自分と両親がぶつかり合う事が増えた。「ゲーム辞めたいけど辞められない」という辛さは持っていた。ある日意を決した自分は、pcのモニターを自らハンマーで殴って破壊した。かなり葛藤して、泣きながら殴っていた。どうやってその心境まで持っていったのかは覚えていない。これで解放されるという安らかな気持ちは傍らにはあったと思う。
 そんなとき両親は家庭教師をつけるようになった。最初抵抗したと思うが、いざ家庭教師の先生が来ると、自分は借りたネコのように大人しくなるしかなかった。
 しかしそこから自分でも驚く程、学力がメキメキ上がっていった。先生の問題を解くコツの教え方が上手かったのだと思う。未だに尊敬している。
 例を言うと、一番苦手だったはずの英語が一番得意になった。3年生になっても、
She/Her/Her He/His/Him They/Their/Them
とかそのレベルも頭に入っていないところからスタートしてだ。他の教科も、全体的に底上げしてくれた。
 それにより、学力に対しての自信を短期間で一気に取り戻していった。結果志望校には無事受かったが、その緩みからか再びオンラインゲームの衝動が襲いかかってくるようになる。(つづく)
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中学校・2年生編
 笑いを取るために友達をいじり倒すスタンスを続けていたが、ある日部活の顧問に「お前はいじめっ子なんだな」とポツリと言われた。そんなつもりは無いと慌てて言い返したが、いじり倒して他の人から笑いをとって優越感に浸っていたことを自覚した。友達との距離の詰め方が、分からなくなっていく。
 この頃になると、視力の低下に伴い眼鏡をしていた。自分は眼鏡が嫌いだった。全然似合わないし、根暗な感じがより引き立ってしまう。授業と部活中だけ付けるようにしていたのだが、メガネをしてヒョロヒョロの体型で髪もボサボサで卓球をしていた自分は、さぞや気持ち悪かったのだろう。卓球部の女子部員間の罰ゲーム告白の対象となってしまった。唯一の女子との接点がそれで泣けた。
 交友関係や失っていく自信に反比例するように、オンラインゲームをやる時間は増えていった。平日は深夜までは当たり前、休日は24時間を超えてプレイする事もあった。振り返ればこの頃はゲーム依存症だったのだと思える。この依存症とは以後長い付き合いとなる。
 学力ももうガタガタだった。中学2年は中学校生活で一番成績が悪かった。小学校から遊んでいた友達とも遊ぶ頻度は減っていき、3年生に上がる頃にはもう遊ばなくなっていた。(つづく)
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中学校・1年生編2

 また、この年同じくして今後を大きく変える物に出会う。それが親が一人部屋と同時に与えてくれたデスクトップ型のPCである。
 そこで初めて本格的にインターネットを知るのだが、それはまさに衝撃だった。遠くにいる知らない人と会話が出来るチャットという存在にまず驚いたのだが、なんとそれとゲームを複合した“オンラインゲーム”というものに辿り着く。
 ゲーム好きな自分がハマらない訳が無かった。一般のTVゲームを遥かに凌駕する面白さをそこに見つけていた。今までの抑圧されていたゲーム欲が、完全に解き放たれた瞬間だった。親もまさかPCでゲームをし出すとは思わなかったであろう。一番最初に触れたのは「ボンバーマンオンライン」「天上碑」辺りだろうか。基本無料だったボンバーマンの方は特にやり込んだ。
 もう一つ、大きな出来事があった。保育園から続けていたピアノを辞めたのもこの時期だ。正確には辞めさせられたが正しい。
 長年続けていたピアノ。人が弾いている音色や、自分が上手く弾けたのを聴くのは好きだったが、練習が大のキライだった。上手く弾けなくて泣いた事が何度もあったが、原因は悔しさが殆どな気がする。
 先生がくる直前に嫌々練習して乗り切っていたパターンを、父が見兼ねたのだろう。ある日、父が直接ピアノの先生に電話をして勝手に辞める旨を伝えたそうだ。
 自分はその先生への裏切りのように感じ、わんわん泣いたが、同時に内心ホッとしていた。辛くて辞めたかったけどずっと言い出せなかったのである。父は一見悪人に見えるが、その時のことは全く持って恨んでなどはいない。(つづく)
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中学校・1年生編
学校の規模が大きくなり、環境ががらりと変わる。学校生活に対して徐々に自信を失っていったのも中学からだった。
それは中学校最初のテストが始まりである。
小学校時代、ライバル視していた秀才は420人中10番に入る程の総合成績を残していたが、自分は120番くらい。その秀才からは自分も一目置かれていたのだろう。自分の順位を聞かれたが、恥ずかしくてとても言えるものじゃなかったので適当にごまかした。秀才もそこで何かを察したのか、それ以降自分に構うことは無くなった。そこでまた自分の中で何か折れた気がした。
 部活においても逃げの一手だった。何部にしたいか自分で決められなかったので、とりあえず友達と一緒の人気のテニス部にしようと考え見学へ。そこには40人程の入部希望者という驚きの光景が広がっていた。当時テニスの王子様が流行っていたのも理由だと思う。
その状況で、一つの考えが頭をよぎる。
『この中で一生懸命戦ってレギュラーになれなかったら惨めになるから、最初から戦わないでおこう』
そして急遽卓球部へ変更。「俺、ちょっと肺が弱いから卓球にするわ」という言い訳もちゃっかり添えていた。
最初から降参していたのだから、戦って負けたというダメージは負わない という心持ちだった。卓球部でも3年間で結局レギュラーにはなれなかったが、自分の中での勝ち負けのレールからはなんとなく外れていたので、悔しいとは思わなかった。 (つづく)
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 この頃になると、姉の彼氏が置いて行ったスーパーファミコン(SFC)の影響か、家にテレビゲーム機があるのが許される風潮になってきたと感じた。なのですかさず、貯めていたお年玉でN64を購入。友達の家でしかできなかったゲームが家でもできる感動に身を任せ、時間も忘れてゲームをした。彼氏が置いていったSFCでちゃっかりドラクエ5・6もやり込んだ。ゲームの音楽を聴くと、今でもそのシーンや感動が頭を過ぎる。
 ここにプレイステーションもここに加わることになるのだが、夜もルーズにゲームをやっている事に痺れを切らした親に、ゲーム機全て処分されるという事件が起こることになる。(親は袋にまとめて川に流したと言うが、未だ真相は不明)。ゲームボーイは幸い残ったが、心にゲームへの欲求が溜まっていった。

ゲームを始めて落ちてきた視力はさらに低下。黒板が見えないので、クラスの席替えでは最前列を希望していた。
 また、この夏の宿題で提出した自由研究が特別賞を取り、東京へ賞を受賞しに行くという珍事があった。それには裏がある。元々、母親は自由研究のサポートが抜群に上手で、自分の姉3人も学生時代は金賞や、何らかの賞に入っていることが殆どだったのだ。つまり今回も母親あっての受賞だった。半分嬉しいが、半分は「本当は自分の実力ではない」というどこかモヤモヤが残った受賞だった。(中学生編に続く)
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小学校・高学年編
 高学年。友達に誘われてミニバスケを始める。練習中お腹が空きすぎて、「練習が終わったら何食べたい?」という話を延々と仲間としたのが一番の思い出だ。結局過酷さに耐えかねて、6年生の最後までやり切ることはできなかった。    
 コミニュケーションでいうと、相手をいじり倒して他の友達の笑いを取るというしょうもない芸を覚えた。笑いを取って、輪の中心で有りたかったのであろう。馬鹿の一つ覚えでいじられた相手からすると、不快な思いをさせてしまったに違いない。今は本当に申し訳無く思う。
 熱で1日学校を休んだ後の登校で、少し授業が進んでいた算数の問題が解けなくて泣いた。担任の先生に「泣いてどうなる」的な事を言われたが、まったくその通りだと泣きながら思った。問題が自分だけ解けない(と思い込んでいた)のが悔しかったし、恥ずかしかったし、周りに置いていかれるような恐怖も感じたんだと思う。
 マラソンに関しては、もう上位を狙うのは最初から諦めていた。友達と一緒にそこそこのペースで走ればいい。今後の人生のキーワードにもなる“逃げ“を覚え出したようだ。(つづく)
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