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彷徨える日本人にして昭和生まれのZ世代、三度の飯よりカレー好き、しかし辛いものは苦手
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趣味のスパイスカレーづくり。今日はバターチキンカレーに初挑戦するも、ちょっとコクが足りなくて75点。

北インドの宮廷料理をオリジンとするカレーが、微妙にタイ風な感じに仕上がった。

#スパイスカレー部
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日本印度化計画(LIVE)

筋肉少女帯

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庭の河津桜が満開になった。

伊豆の河津町で手に入れた時は1メートルほどの苗木だったけど、10数年の時を経て立派な木へと成長し、毎年花を咲かせてはメジロや虫たちに蜜を届けている。

#河津桜
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今日はBUCK-TICKの櫻井敦司の誕生日。

この世のものとは思えない美貌。
もうこの世にいないなんていう絶望。

数ある名曲のなかでも、彼しか歌えない歌、『JUPITER』。
亡き母親への思いを綴った愛の歌。
あんなに胎内回帰願望を感じるひともいない。

おめでとうアッちゃん。
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JUPITER

BUCK-TICK

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高校生の頃、MTVやVH1でよく見た映像と曲に再会し、あの時代に引き戻された。あれからずいぶんと時が過ぎたものだ。

Shiny Happy People
R.E.M.
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Shiny Happy People

R.E.M.

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"My funny Valentine"

オリジナルは1937年に作曲されたミュージカル向けの曲だというが、その後も多くのアーティストにカバーされ、なかでもチェット・ベイカーの歌が個人的には一押しなのである。

笑えるしカッコも良くないあなただけど、そのままでいて、私はそんなあなたが好きだから。という甘い歌詞を、甘いマスクのジャズ・トランペッターが歌い上げる。チョコレートなんかなくても甘々な気分になれる。

ちなみにチェット・ベイカーといえば、ドラッグに溺れ、反社の人間の反感を買い顔をボコボコに殴られ、トランペット奏者として致命的ともいえる前歯を折られ、それでも入れ歯で演奏を続けたという、二枚目の裏の顔が実におもしろい。

もし現代にいたらSNSで叩かれ炎上間違いなし、音楽業界をはじめ社会から抹殺されかねないキャラクターかもしれないが、そんな彼も、ジャズという広い宇宙のひとつの輝かしい星としてその名を残している。
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My Funny Valentine

チェット・ベイカー

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行きつけの店、と呼ぶにはおこがましいことはなはだしいが、つい寄りたくなる喫茶店というものがある。

その店らしさがあふれる背景音といえば、おしゃれでジャジーな音楽ではなく、お客や店員の会話だ。今日のお隣さんは齢80前後と思しき男女で、昔日のあれこれを矍鑠とよく喋る男性に対し、女性の方は聞くともなしに聞いている。長い時間をかけてかたちづくられた2人の関係性が目に見えるようでおかしかった。

古くからあるその喫茶店は、椅子やテーブル、壁に飾られた絵に至るまで、年季の入り具合がほかとは違う。時の試練に耐えてきたものが放つ趣は、しかし居心地の良さを感じさせるあたたかさもあわせもつ。そしてそこに集うひとは老若男女、地元の常連も遠方から来るひとも様々。この店に引力があるのは間違いない。

スザンヌ・ヴェガのヒット曲、”Tom's diner”を思い出す。彼女が実際に通っていた、ニューヨークに実在するTom's Restaurantでの朝のシーンを切り取って歌にしたものであることはよく知られている。

I am sitting in the morning
At the diner on the corner
I am waiting at the counter
For the man to pour the coffee

何気ない日常を美しく歌ったスザンヌの力で、街の食事どころのダイナーという場所が引き立ったわけだが、その場所をたらしめる魅力は、店や料理もさることながら、やはりそこにいるひと自身に宿るのではないか、と思う。

あの店に行くと、つい聞き耳を立ててしまうのは、そのせいだ。
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トムズ・ダイナー

スザンヌ・ヴェガ

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動力機関であるエンジンは、我々を前進させるエネルギーを生む。ボタンを押す、もしくはキーをひねるとは旅立ちの合図であり、ともに前へ進むのだ、という意志の表明である。

愛車が車検から戻ってきた。
間もなく16年目の春がやってくる。
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今日はユーミンこと松任谷由実の70回目の誕生日だ。

荒井由実名義の最後のアルバム『14番目の月』に収録された『中央フリーウェイ』はお気に入りの曲。たんなる高速道路を滑走路に見立て、ロマンティックに歌い上げるユーミンの力量には感心することしきり。中央道を走ると「右に見える競馬場、左はビール工場」と歌いたくなる、時代を超えた名曲。

しかし、これが中央道ではなく東北道なら……“東北フリーウェイ”って、山本譲二の『みちのく一人旅』といった趣になるから不思議である。

ユーミン、いつまでもお元気で。

#松任谷由実
#ユーミン
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中央フリーウェイ

Yumi Arai

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絵描きでもあったデイヴィッド・リンチの映像作品はどれも「絵画的」であり、一枚絵を思わせた。

絵画ならば、なんらかの意味やストーリーを読み取るのは積極的に鑑賞者に委ねられる。絵から明瞭なナレーションが流れてくるわけではない。リンチのドラマや映画の不可解さ、不思議さ、そして最大の魅力は、この「語らなさ」にある。

しかも彼の頭のなかに広がるのは、理路整然としたロジカルな世界とは対極にある、スキゾフレニア(統合失調症)的な幻想的空間だ。登場人物やシーン、セリフの関係性、整合性の有無など、あるようでないし、ないようである。それは我々の「夢」の世界そのものだと言っていい。

通底音として聞こえるノイズや悲鳴、不協和音、そして幻覚のようなイメージ。甘い香りすら漂ってくる、謎多き魅惑的な夢は、リンチの、リンチたる、リンチゆえの、リンチしかつくれない世界だ。

初の長編映画監督作品『イレイザーヘッド』からしばらくはカルト的なポジションにいたが、やはり世界的に誰もが知るようになったのは『ツイン・ピークス』からだろう。相方のマーク・フロストとのタンデム制作により爆発的にヒット。ローラ・パーマーの死をシンボルに、架空の町ツイン・ピークスのしっとりとした陰鬱な空気感のなか、魑魅魍魎のキャラクターたちによる奇妙奇天烈なストーリーを展開し、多くを熱狂させ、ブラウン管に釘付けにした。

オリジナルからだいぶ経ち、昨年になってようやくツイン・ピークスの続編「リミテッド・イベント・シリーズ」を観て、久々に悪夢にやられたところだった。唯一無二の独創的アーティスト。“毒”創と言った方が相応しいかもしれない。

今ごろ、あの赤い部屋の椅子に座って、ローラ・パーマーと意味深な会話をしているのだろうか。これから、甘いドーナツと熱いコーヒーを買いに行こうと思う。

#デイヴィッド・リンチ
#ツイン・ピークス
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奇才デイヴィッド・リンチが亡くなった。享年78歳。『エレファント・マン』『ブルーベルベット』『ツイン・ピークス』『マルホランド・ドライブ』など、彼の夢の世界に埋没し悪夢を見させられた数々の経験が思い出される。世にも奇妙な、素晴らしいアーティストだった。
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参加する立場からしたら「成人式」なんてものには一切の興味はなく、何をやるかも知らなかったけど、のちに地元の同級生が集められると聞いて、出なくて良かったと思った。

年齢や出身地、学校や、同時期に組織に所属し始めた「同期」などという括りで、その仲間に入ることにはいまもって無関心であるが、かといって悪い思い出や人間関係に問題があるわけではない。たんに同類で群れるのを好まないだけで、仮に放り込まれたらそれなりにコミュニケーションを図る自信はある。

もちろん、何かしらの式典なりに参加したい意思は尊重するし、親とすれば子の成長に万感胸に迫るものがあるのもよく分かる。特に女性なら晴着に憧れるのも、かわいらしくけっこうなことだと受け止める。

大人と呼ばれるようになってから幾星霜。子供と違って成長や何かの区切りとなる「通過儀礼」がなくなることに気がつく。そして子供と呼ばれる時期が、人生のほんの一瞬であるということにも。

「だから子供の時期は素晴らしい」とは、しかし思わないようにしている。「大人こそ素晴らしい」、そう胸を張っていたい。

そういった言葉を、社会的に新たに大人と認められたひとたち、つまり新成人に熱弁しても、どこまで伝わるかは疑わしい。口ではどうとでも言え、実践するのはそれなりに難しいことを、既に彼ら彼女らは知っている。

先達の大人たちが、めいめいの人生を精一杯生きていれば、わざわざ式典で挨拶を聞く必要もない。大人とは、背中でものを語る人間だということを、我々は肝に銘じなければならない。

襟を正すべきは、新成人ではなく、その他多くの大人たちの方ではないだろうか。と自問自答する日が成人の日である。

#成人式
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今日1月11日は、高橋幸宏の命日。あれから2年が経ったことになる。

YMOの3人のなかでは、細野晴臣と坂本龍一という音楽宇宙の巨星の間でいろいろご苦労があったようだけど、2000年代になってからの再再結成の際、3人揃っていちばん嬉しそうだったのは幸宏さんだった。当時、「3人ともアナクロ(時代遅れの古い音楽)に興味がない。こんなミュージシャンはほかにいない」とベタ褒めしていたことを思い出す。

日本が誇る天才ドラマー。機械のように正確無比でありながら独特のグルーヴ感が出せるのが不思議でしかたがない。そして稀代の伊達者として知られ、着るものなすことすべてに「美学」が貫かれていた。それでいて、とても気さくでお茶目で誰からも好かれ、多くに慕われていた。

「自分を突き動かすのは、新しいものの発見」と、最後まで新しい音楽を追い求めていた。こういう人生のロールモデルがいてくれると、こちらも背筋がピンと伸びるような、前向きな気持ちになる。

2009年に出たアルバム『Page By Page』のライナーノーツ、この写真に出てくる自転車は個人的に思い入れのあるもの。お会いすることはできなかったけど、私の神様であることにずっとかわりはない。

#高橋幸宏
#YMO
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失敗を恐れてばかりいたら、よく生きることができない。
恋を知らない人生が、恋をする人生より生き生きするのだろうか?
失敗を続けられるうちは、成長がある。
来年もたくさん失敗したい。
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今年のうちに振り返っておきたいこと。
東京オペラシティで開かれたヴォルフガング・ティルマンスの「Freischwimmer」からちょうど20年。写真を考える上で、自分にとって大きなポイントとなった個展だった。

現代写真においてティルマンスほど著名な表現者もいないだろうけど、説明するのがこれほど難しいひともめずらしいのではないか。

いやそもそも、現代写真がなんたるかを語るのも自分の手には余るのだが、乱暴にいうなら「まことをうつす」と書いて「写真」、決定的瞬間を写し撮るという考えは過去のものだということ。

デジタル技術により誰もが容易に撮影、加工、公開できる時代にあって、誰もが「これはいいものだ」と認める価値を生成し、写真自体を再定義できない限り、写真家が個展を開くことも、市場で作品を高値で流通させることも無理である。写真には写真をそれたらしめる「メタ情報」が必要とされている。

ティルマンスの作品に宿る「等価性」というモチーフは特に重要とされる。何気ない日常を写しているようで、その何気なさには、見るものに「何気ないけど、何かがある」を思わせる工夫が隠されている。

それは撮る側からの独善的な「世界の押し付け」ではなく、彼自身が見る側と同じ感覚を丁寧に探しているからこそできる表現だ。対峙ではなく等価、「あれとこれ」ではなく「あれもこれも」、つまりモダンではなくポストモダンな姿勢で、既成概念を優しく、しかし大胆に壊していく。

2004年の個展名「Freischwimmer(フライシュヴィマー)」とは、ドイツ語で「自由に泳ぐひと、自由に生きるひと」という意味がある。

Swimming away into freedom, swimming into independence.

あれから20年の時を経てもティルマンスは自由に泳ぎ、たんなる写真家という枠に収まらない活動を続けている。あの時出会って、本当に良かったと思っている。
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フィンランドに「シス(sisu)」という言葉があるらしい。「困難に立ち向かう勇敢さ、忍耐強さ、折れない心、立ち直る力」のことで、フィンランドの国民性をあらわしているとか。

欧州の北の果て、ラップランドなどがあるフィンランド地域は、長い間ほんとうに“地の果て”として認知され、隣の強国スウェーデンには600年以上、大国ロシアにも100年も統治されていたという歴史がある。
冬は寒いは暗いわ、強い国の顔色をうかがわなければいけないわで、そうした背景が、何にも負けない魂としての「シス」という言葉を生んだということなのかもしれない。

一方で、「カルサリキャンニト(kalsarikännit)」という、「下着姿で家飲みする」という意味の単語もあるから、実におもしろい。

片方に忍耐、もう片方にパンツ飲み。
躁と鬱の相剋といったところか。
フィンランドという国への興味が俄然わいてくる。

#ひとりごとのようなもの
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Netflixで『ブレイキング・バッド』鑑賞。今年観たドラマのなかでも最高の作品だった。

主人公ウォルター・ホワイトが高校の化学の先生という設定が象徴的。ウォルター自身が「化学とは変わること」と定義している通り、これはしがない高校教師が悪党に変わる、その変遷の話だからだ。

生活はカツカツで洗車屋でも働くウォルター。50歳を過ぎガンによる余命宣告を受けると、高校生の息子と間もなく生まれる娘、そして妻のために財産を残さないとと焦り、高純度ケミカルドラッグの製造を始める。

タイトルのBreaking Badとは、悪事に手を染める、道を外れることを意味しており、文字通りウォルターは家族や仲間を巻き添えにしながら、悪の道を邁進していく。

ドラッグ製造に殺人、家族や周囲を騙し、他人を操っては傷つけ、「全て家族のためにやった」と自己正当化するウォルターは、救いようのないクズな男だが、心底嫌いにはなれなかった。何度も呆れながらも彼を突き放すことはできなかった。

その理由は、他人事として見ることができない要素がドラマのなかに散りばめられていたから。彼自身と家族、親と子の関係、あるいは社会との関わり方の問題が横たわっているからだ。

ウォルターと同じ父親として見ると「家族を養う」という言葉の重みを感じる。そのプレッシャーと自らのプライドの狭間で悶々とすることに心当たりがあるご同輩もいたはず。そして娘と息子を陰から見送るウォルターの表情に、何かを感じ取ったひとも多かったはずだ。

一方で家族との距離はどんどん離れていく。彼自身が離れていったとした方が正確で、もう一方の側面、彼のエゴや虚栄心、他者への妬みや嫉みといった、強烈なネガティブの塊がそうさせたのだ。

ウォルターはマッチョ思想の持ち主だった。“男らしく”家族を養い、腕力もしくは頭で他者を従わせ、彼の帝国の主人として君臨したかった。だが家族が愛したウォルターは、彼が忌み嫌う“うだつのあがらない男”だった。こうした内面と他者とのズレに悩むことは、誰にだってあるだろうし、これを「中年の危機」と呼ぶのではないだろうか。

クズを主人公に据えながら、そのクズの欠片が視聴者の胸にチクチクと刺さる。犯罪者でなくとも、我々自身が清廉潔白ではないという不都合な現実を見せられたところに、このドラマの魅力があったように思う。
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東京都現代美術館「坂本龍一 音を視る 時を聴く」展、初日から盛況だった。

1982年に刊行された、坂本龍一と哲学者の大森荘蔵による哲学書と同じタイトルが与えられた本展。音と時間をテーマに、坂本が様々なアーティストと協働で創作したインスタレーションを五感で味わうことができる。

乱暴な言い方だが、音の上がり下がりや交わりが時間軸に沿って進行していくのが「音楽」と呼ばれる芸術だ。坂本龍一は一般的に音楽家として知られるが、彼は通俗的な音楽の境界を越えて換骨奪胎し、音と時間の本質をとことん追求した。音って何なのか?時間とはいかなるものなのか?という根源的な問いが、作品を通じて鑑賞者にも容赦なく投げかけられる。そんな体験であった。

個人的にもっとも印象に残っているのが、YMO散開後に彼がしたためたカード状のメモ。蓮實重彦や谷川俊太郎などの引用や当時彼が考えていたことが、イラストなどを交えて赤裸々に綴られているのだ。
あの時の彼の心の一端を覗き込んだような気がして、見ちゃいけない裏側を目撃したような感じがして、思わずニヤニヤしてしまった。
ぜひ浅田彰あたりに監修を依頼して書籍化してもらいたい。

ここにきて各メディアで教授が取り上げられ、さらに彼の死後相次いで音源やグッズがリリースされていることに「商売に走りすぎでは?」という否定的な意見も聞かれる。

まあ分からないでもないが、それは受け取り方次第だし、私は教授のファンを自認しているけど、あのTシャツは買わないし、自分がいいと思うものだけを手に入れる。それだけのことのような気がする。

むしろ重要なのは、あれだけ多くの作品や言葉、思想を残してきた稀代のアーティストを、残された我々がどう評価し総括するかということ。私は評論家ではないが、自分に影響を与え続けてきた坂本龍一というひとを、自分なりに思い返し、発見し、どんなひとだったのかを確認していきたいと思っている。

その意味で、彼はまだ死んではいないのだということを、今日、あらためて実感した。

#坂本龍一
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クリスマスが近づくと、『あるクリスマス』という短編小説を思い出す。
作者は『ティファニーで朝食を』『冷血』といった名作を生み出したトルーマン・カポーティ。
寒い季節に適したこころ温まるストーリー、ではなく、ほろ苦い、本当にビターな、でも救いのある話。

主人公の6歳の男の子バディーは、両親の離婚で父親と離れて暮らしている。
クリスマスの前に、遠くに住む父親から、遊びに来ないかと誘いを受ける。

バディーは住み慣れた街すら出たくなかったけど、渋々父親の家に赴き数日をともに過ごす。
帰る前日、酒の勢いで父親に「帰らないでくれ」と懇願されるも、バディーは翌日家路につく。
そして、父親に手紙を書く。

それから会うことはなかった2人。
父親の死後、バディーが書いた手紙が父親の家の金庫で見つかり、再びバディーの手元に戻ってくる。
そんな筋書きのストーリー。

悲しい感じもするけど、この話には希望があると思う。
人生では不条理なことが起きる。
そんな時、ひとは何に救いを求めればいいのか。
どうやって生きていけるのだろうか。
そういった教えがあるような、大人にこそ読んでほしいお話なのである。

#クリスマス
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にわかには信じられないが、あと少しで今年も終わるらしい。

#今日の1枚
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小学校の校歌を作詞してくれたのは詩人の谷川俊太郎さんだった。

学び、考え、間違えたらやり直せばいい、というシンプルな言葉で、この先を生きる子供たちの背中をやさしく押してくれる校歌だ。

大人になってもなお励まされ、勇気づけられる。そんな力を持つ校歌だ。

一生ものの、素晴らしい校歌と出会えたことを誇りに思います。谷川さん、本当にありがとうございました。
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『アメリカの夜』は、かのフランソワ・トリュフォーが監督した、映画製作を題材とした映画愛に満ちた1973年のフランス映画だ。

原題は“La Nuit américaine”、文字通り“アメリカの夜”。これは、フィルターをかけて夜のシーンを昼間に撮る撮影技法のことで、まだ技術が未発達だった時代にハリウッドで生まれたことからその名がつけられたという。

英語のタイトルは“Day for Night”で、こちらは本来の意味に忠実。でも、どこか味気ない。“アメリカの夜”には、独特の情緒が漂う。

不動産屋の親玉が再び長に返り咲いたアメリカは、本当は陽光降り注ぐ明るい昼間なのか、それとも光が一切ささない夜なのかは、よくわからない。

ただはっきりしているのは、ジョルジュ・ドルリューによる“Grand Choral”は、オリジナル・サウンド・トラックのなかでも傑作に入るということである。

Grand Choral (from La Nuit Americaine)
Georges Delerue
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Grand Choral (From Day For Night)

Truffaut,DeLeRue

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「我慢」というと、いかにも辛い思いをしながら耐え忍んでいるように思えるけど、たった2文字を加えて「やせ我慢」とすると、だいぶ印象が変わる。

「おれ、我慢なんかしてないからね」と意地を張っているのが、傍目に気づかれている。待て、といわれてよだれをダラダラ垂らしながら目の前のエサを食べずに凝視している犬のようで、なんか笑えてしまう。それがやせ我慢だ。

大人は何かと我慢をしいられる。あ、いま自分は我慢してるな、なんだかちょっと辛いな、という時には、我慢をやせ我慢に変換してみるといい。

やせ我慢している自分の姿を、少しでも滑稽だと感じたなら、その分だけでも気持ちに余裕が生まれる。

諧謔は人生の妙味を増すスパイスだ。

#ひとりごとのようなもの
#我慢はカラダに悪い
#ほどほどに
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その野良猫を庭先で見かけるようになったのは、2、3週間前からだった。バスケットボールのゴールの下にある窪みに身をひそめ、静かにしていることが多かった。

日中はまだ暑さを感じるような気温だったが、暑がることもなく、南に面したその場所で日の光を浴びていた。夜になるとどこかに身を隠していたようだけど、朝になるとまたいつもの窪みや車の下ですごしていた。

茶トラの猫はだいぶ痩せていて、毛並みもあまり良くなく、大人しいというより元気がなかった。きっと先は長くないだろう、とは薄々気がついていた。飼い猫でもないし、仮にいま何かをしてももう手遅れであろう、ということも、同時にわかっていた。

今朝になってシャッターを開けると、いつもの場所のすぐ近くの、玄関から降り立った辺りに、身を横にしているのが見えた。猫らしく丸くなるという感じではなく、力なく脚を伸ばしている、そうせざるを得ない、という姿勢だった。様子を見にいったが、わずかに頭を上げることはあっても、小さく鳴くことはあっても、息もたえだえの状態だった。

あいにく朝から外出しなければならず、あとのことは家人に任せるしかなかった。しかし、帰る頃には息を引き取っているであろう、ということはわかっていた。

出かける前に、猫に挨拶をした。
空を見たまま動かない目。少しだけ身体を震わせるけど、30分前と比べても明らかに衰弱していた。命の炎が今にも消えそうだった。

その亡骸は、夕方になって引き取られていったことを、電話で聞いた。帰りに花を買って、いつもいたバスケットゴールの下に手向けた。

死期を悟ると人前から姿を消すといわれる猫。死の認識は猫にはないはずだが、身体の不調から、より危険が少ない、安心できる場所を求めた結果そうなるということかもしれない。

冷たいようだけど、あの猫にしてあげられることはなかったと思う。ただ、心の中ではその猫を受け入れていたし、家の庭で最期を迎えたことには、変な話だけど、誇りにさえ思う。

そして、名もなき猫の死を悼むというより、最後にここで生きてくれたことを、忘れないようにしたい。
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令和になっても東京タワーのある景色には#ymo なのだ。
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TECHNOPOLIS

YELLOW MAGIC ORCHESTRA,Norio Yoshizawa

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誰しも、生きているうちにたくさんの「復興」を経験している。

別れや失敗、予期せぬ出来事でどん底に落とされても、ときに他人の助けを借りながら、再起に向けて少しずつ自分を取り戻していく。そうした個人の復興にいちいち名前はつけられないけど、多くのひとに心当たりがあるはずだ。

自分の場合は、サッカーが立ち直るきっかけを与えてくれた。
初めてチケットを買って向かったスタジアム。手負いの弱った心身に初冬の夜風を感じながら、「こうやって試合を見て、一喜一憂する生き方もいいかもね」と、自分に言い聞かせたことをはっきりと覚えている。あのときはたしかに、自信というものをなくしていた。

それからは、試合があるたびにスタジアムへ足を運ぶようになった。最初は慣れなかった観戦も、やがて知り合いができ、応援したい選手があらわれ、勝ったときは小躍りして喜び、負けたときは落胆した。ありふれたようでいて特別な時間に、少しずつ癒されていった。

何年ものあいだ通い詰めたが、ここ数年のうちに回数が減り、いまでは年に1回程度となってしまった。往時の熱は少し冷めたかもしれないけど、個人の復興が完了したんだ、と思うようにしている。

観戦は年に1回となったけど、その度に、恩人に会いにいくような気持ちになる。

名もなき個人の復興。ことの大小は関係ない。こうした復興が幾重にも折り重なって、我々は生きている。

#ひとりごとのようなもの
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夏と冬の間に秋をおきました
だから秋は少しだけ
中途半端なのです

とはオフコース「僕の贈りもの」に出てくる歌詞。

たしかに中途半端に元気なままの夏を引きずって、最近では秋も極端に存在感が薄くなったものだ。と虫たちが泣き言をいっていた神無月の夜。

#ひとりごとのようなもの
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僕の贈りもの

Kazumasa Oda

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今日は「神様」に会ってきた。
彼の名はミケーレ・デ・ルッキ。
イタリア生まれの建築家でありデザイナー、アーティスト。1980年代に興ったデザインムーブメント「メンフィス」のメンバーのひとりとしても知られる、世界的な巨匠である。

二十歳の頃、彼がデザインを手がけたオリベッティ社のノートパソコンに一目惚れした。

それまでパソコンのパの字も知らなかった初心者の青年(自分)は、その流麗で個性的な意匠を纏うコンピューターを溺愛するようになり、直後に始まったインターネット時代の波に揉まれながら、やがてネットの世界に生きる術を見つけた。

もしあのとき、あの端末に出会わなかったら、ネット時代に出遅れて別の仕事に就いていたかもしれない。そう考えると、あのノートパソコンとの出会いは自分の人生に大きなインパクトを与えたことになる。だからそのデザイナーは神様なのだ。

その神に、あのときのパソコンを見せた。
まさかの骨董品の出現に苦笑いされたが、差し出されたペンで優しくサインをしてくれた。

神様がくれた贈り物、時代を超えた宝物。

そういえば、今日9月21日はEarth, Wind & Fire“September”の歌詞に出てくる、2人が心を通わせた日だ。

通いあったかはあやしいが、デザインの神様への愛は、ちゃんと届けたつもりである。

#ひとりごとのようなもの
#デザイン
#音楽
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September

Earth, Wind & Fire

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「結婚って何でするの?付き合うのと何が違うの?」

老舗の喫茶店で、隣にいる学生と思しき女性ふたりの会話。質問された女の子は「私は、いまが楽しいから付き合ってるだけで……」とだけ返していた。

ひとはなぜ結婚するのか、あるいは結婚したいと思うのか、しなければならないと焦るのか。ずっと抱いている疑問を方々に投げかけては謎を深めている。もちろん、ひとつの正解に行き着くことなんかない。考え方はひとそれぞれ違うのだから。

別の日、新婚の元同僚にたずねると、20代後半の彼は「このひととは、いずれ結婚するんだろうなと感じてはいて。そう考えると『いずれ』は『いま』でもいいんじゃないかと思った」

なるほど、結婚には「ともに過ごす時間の経過への意識」が必要なのか。この瞬間さえ楽しければいいという刹那的な関係に、結婚は馴染まないのだろう。

結婚前に期待や不安が伴うのは、不確定で不安定な未来を相手取っているから。先行きのわからない道でも、ふたり一緒なら歩いていけるという自信もつくだろうけど、一方で将来的に複雑で面倒なことが起こることは多々あるし、結婚をたたむこともめずらしくない。

ただ、誰かが結婚したと聞くと、素直に良かったと思えるのも事実。この感情の源泉には、自らの将来と向き合うということで「自立する」という通過儀礼的な意味合いがありそうだ。「結婚=身を固める」とは、つまりそういうことだろう。

とはいえ、だ。ひとりで暮らしている、あるいは結婚という枠に収まることなく生きているひとだって、立派に自立してるじゃないか。

むしろ自立を疑いたくなるようなことは、結婚した後に起きがちだ。ふたり(かそれ以上)で生きていくということは、甘えや依存、馴れ合い、切るに切れない縁故といった、自立を阻害するものと仲が良い。またエゴというのも面倒なヤツでね……。

と自問自答を繰り返しているうちに、若い女子たちはとっくに店を出て、手元のコーヒーカップは空になっていた。

#ひとりごとのようなもの
#結婚
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風邪をひくと健康になるとは、『風邪の効用』で野口晴哉が唱えたこと。熱は身体に侵入した異物への対抗であり、お腹を下すのも同様だという。

喧嘩も同じで、ふたり(あるいはそれ以上でも、あまり多くはない程度)の関係を正し、モヤモヤやこじれていたこと、ねじれていたことを元に戻そうとする働きがある。

夫婦喧嘩がたえない、と大変かもしれないが、思ったことをまったく口にしない夫婦ほど危ない気もする。熟年離婚って、ために貯めた相手への負の思いの結末なんじゃないか?

今やハラスメントは社会悪の筆頭にすら感じられる一方で、「老害」などと年長者が非難されることもある。それ、老人へのハラスメントじゃない?と思えなくもない。そんなあなたも、生きていればそのうち老いるということは、忘れない方がいいかも。

「政治とカネ」はいつの時代でも問題視されるけど、ジリ貧カツカツでも社会を良くしようとする、田中正造みたいな聖人のような政治家ばかりとは限らない。政治家になるための良きインセンティブとして、正当な方法でのしかるべき対価を考えるのはおかしな話でもない。

不味い飯を出す店には行きたくない、という意見もわからなくはないけど、本当の食通なら、いろんな味を肯定する「愛」があってもいい。グルメ=偏食で、いいのだろうか?

一見すると厄介なこと、面倒なことのなかに、良い働きもあるかもしれない。

#ひとりごとのようなもの

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大好きなアメリカンドラマシリーズ『Mad Men』のエピソードのなかで、こんな台詞が出てくる。

“In life we often have to do things that are just not our bag”
「人生は、不得意なことの連続である」と意訳できる。

得意なことばかりの人生など、果たしてあるのかどうかはさておき、実にいい言葉だと思う。

なぜなら、何でも思い通りにできてしまう人生が、おもしろい、充実したものになるとは思えないから。
不得意とすることが起きるからこそ、ままならないことばかりだからこそ、人生の妙味がグッと増すのだ。

と、大人は胸を張って生きていこう。

#ひとりごとのようなもの
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以前よく訪れていた見慣れた場所でも、まったく知らない景色が広がっていて驚くことが最近よくある。ここ数年の東京の変貌ぶりは相当なもので、小田急百貨店が取り壊された新宿駅西口は、どう見ても自分の知る新宿じゃなくなっている。

現在工事中の西口地下道だが、行き慣れたこともあり、磁石がついてるかのように目指す場所まで自然と足が向く。高層ビル群を見ると、ああここは新宿だ、と視覚的にも納得がいく。つまりホッとする。

都市が再開発されることにより、その地域の価値が上がることを「ジェントリフィケーション」という。新宿駅の西側はかつて浄水場だったのだから、まさにジェントリフィケーションの好例なのである。

新しく開発されることで都市の価値が上がることは、良いことばかりとは限らない。従前の街並みや雰囲気、そこに住んでいたひとたちやコミュニティといった、都市の個性が壊され、造り替えられてしまう。都市の「漂白」ともいえる。

著しい漂白が先行して起きているのは、渋谷だろう。何年も前から至るところが工事中で、訪れるたびに巨大なビルが新設され、駅周辺はもはや別の街、ベッタリと白色に塗り替えられている。
あまりに顔や体型が変わってしまって、すれ違っても気がつかなかくなった知り合いのようで、戸惑いを隠せない。

都市は、人間が造り上げた最大の人工物だ。良いところもそうじゃないところも、希望も欲も、賢さも愚かさも、清も濁も、隠も陽も、つまりは人間が持つ様々な側面を、すべて飲み込んで成り立っているものだ。

真っ白に見える渋谷はちょっと苦手。だけど、漂白されっぱなしでは終わらない、と思えば、真新しい街並みも、少しは受け止められるようになるのだろうか。
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MajiでKoiする5秒前

Ryoko Hirosue

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オープンカーに乗るなら、夏の夜がいい。
ということは、以前付き合っていたひとから教わった。

彼女は、こじゃれた紫色の4座オープンカーに乗っていた。
ある夜、その後席を指して「そこであおむけに寝てごらん」と言われ、ちょっと窮屈ながら身を潜めてみた。

ほどなくしてオープンカーは夜の東京を走り出した。
普段の街の表情とはまったく異なる、見慣れない頭の上の景色が、目の前でどんどん流れていく。
夜空と雲と街灯と建物が、一筆書きに次々と移り変わる。
昼間の暑さは鳴りを潜め、風が心地よく感じられる。
嗚呼、なんて贅沢なんだろう、と思った。

その経験から、自分がオープンカーのオーナーになるまでに数年を要した。
残念ながら彼女とは別れており、さらに2人しか乗れず、後席に寝転ぶなんてことはできなかったけど、そもそも自分が運転しているんだから関係なかった。

夏の夜こそオープン。
あれから幾星霜、そんな悠長なことを言ってられないぐらい、夏は暑くなりすぎた。

#今日の1枚
#ひとりごとのようなもの
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YMOのアルバム『増殖』に収録されるスネークマン・ショーとのコント「若い山彦」を久々に聴き、なるほど、これはSNSでよく見られることだな、と思った。

音楽評論家が80年代のロックシーンを語る番組の体なのだが、
・評論家は自分の言いたいこと(だけ)を言って、
・ひとの話を(徹底して)聞かないで、
・相手を(とことん)否定して、
・双方で「良いものもある、悪いものもある」と(まったく意味のない)同じ主張をぶつけ合う

このアルバムがリリースされたのは1980年。SNSなんて影も形もない時代だけど、SNSで展開されることを予見するかのような内容じゃないか?

そして、このコントに続くアルバム最後の曲「THE END OF ASIA」のセリフは、実に秀逸だ。

「はぁ〜、日本は、良い国だなあ」

YMO絶頂期の本作は、40年以上経ってもみずみずしいほどに毒々しい。

#音楽をソッと置いておく人
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SNAKEMAN SHOW [5]

YELLOW MAGIC ORCHESTRA

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『ちょっとツラインダ』 THE BEATNIKS

高橋幸宏と鈴木慶一が歌う、ちょっとかわいらしくて優しい曲。
なんかうじうじしてるけど、甘えようとしてるけど、ベッタリとしてないところが好き。
「まあ、わかってはいるんだけどね」と、どこかで第三者的な見方もあり、自立していることがうかがえるような感じ。要は大人の弱音なのだ。

♪昨日ムネにポッカリ
アナがあいて ちょっとツラインダ

あるよね、そういうこと。
と聴きながらしみじみするのも大人の特権。

ちょっとツラインダ、というより、ちょっと暑すぎるんだけど、最近。

#音楽をソッと置いておく人
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ちょっとツラインダ

THE BEATNIKS

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7月14日は、英語でいうと「Bastille Day」、フランス語では「Fête Nationale Française」、日本語だと「パリ祭」。フランス建国を記念し、シャンゼリゼでは軍事パレードが行われる。

歴史的な事情で正式な軍隊を持たないとされる日本ではピンとこないが、軍用車両や飛行機が一国の首都の目抜き通りに大挙して押し寄せる様は圧巻である。

英語名の通り、235年前の今日はバスティーユ襲撃事件が起こっている。フランス革命の口火を切ったこの歴史的出来事は、簡単にいえば支配する側と支配される側の争い。支配されていた方が勝ったとはいえ、史実を振り返れば虐殺だ射殺だギロチンだと相当に血生臭い。

そのブルジョワ革命に参加する市民を鼓舞したとされる歌「La Marseillaise」も、「祖国の子らよ、栄光の日が来た、我らに向かって暴君の血まみれの旗が掲げられた」と威勢がよく、内容は決して穏やかではない。今でもフランスの国歌として親しまれているのは周知の通り。

「自由、平等、友愛」は、この国の価値を体現する標語として知られる。支配層に立ち向かい革命を起こした市民たちの興したフランスが、世界各地に植民地を築き、現地の人々を支配してきたという歴史も皮肉である。

アメリカ史に残る大敗を喫したベトナム戦争の根底にあるのは、フランスの植民地政策の影響を存分に受けたベトナムの歪な国や政治の在り方だった。また仏領ニューカレドニアで暴動が起きたというニュースも記憶に新しい。

歴史は幾重にもなる層が折り重なってできている。そのレイヤーのなかには、明もあれば暗もある。そしてひとは、両者を都合のいいように解釈し、信じたい一面に傾倒しがちでもある。

今夜のパリは、遅くまで祝砲としての花火の光に照らされることになる。輝かしい一面には誇りを。そうとは言い切れない部分にもちゃんと目を向けることが、分断の時代の要請であるように思う。

#ひとりごとのようなもの
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『カルアミルク』
岡村靖幸

♪電話なんかやめてさ
六本木で会おうよ
いますぐおいでよ

六本木に来ると思い出す曲。
飲みやすいがゆえに“落としやすい”カルアミルクで仲直り(復縁)を迫る岡村ちゃん、さすが天才。

六本木を前にして、まずアン・ルイスの『六本木心中』を想起しなかったのがおもしろい。

六本木心中は1984年、カルアミルクは1990年のリリース。六本木心中の方には、バブルに向かう直前の熱と勢いが感じられる。一方でカルアミルクにはバブル末期の、浮かれた時代の残り香がする。同じ好景気時代でもやや色が違う。自分が心中に心躍るほどの年齢ではないということだろうか。

つまるところ、六本木はバブルなイメージの街なのだが、個人的には、遊び場というよりも仕事でたまに訪れる場所である。そして、カルアミルクはおろか、アルコールはまったく受け付けない。
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カルアミルク

Yasuyuki Okamura

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50度という高温を体験したことがある。
場所は、アメリカのカリフォルニア州にあるデス・バレー。1913年に世界最高気温56.7度を記録している、文字通りの「死の谷」だ。

ここが殺人的な暑さになるのは地形による。谷底は海抜マイナス86mと北米いち低く、その周辺を4000m級のシエラネバダ山脈などに囲われる。海からの湿った風は山で雨を降らせ、水気を絞られた乾いた熱い空気が谷に充満する。盆地が高温になりがちなのは日本も同じだ。

夏のある日、ラスベガスから車で向かったのだが、出発前にしこたま水を買った。道中ひと気がほとんどないエリアを行くことになるのだから、観光といっても万一のリスクには備えないといけなかった。

荒涼とした風景に真っ直ぐ伸びるハイウェイをひたすら進み、無事デス・バレーに到着すると、ビジターセンターの温度計は華氏120度を指していた。摂氏だと50度に垂んとする気温。風呂だってこんな高温じゃ入れない。

恐る恐る外に出ると、形容し難い環境に身を置くことになった。熱された空気の服を着込むような暑さというべきか。吸い込む空気も半端なくアツい。サウナは確かに暑いが、ここは行けども行けども途切れない、熱の塊にぶつかり続けることになる。灼熱とはこのことだ。

デス・バレーは砂漠であるが、広がるのは暑さで吹き出した塩で覆われた地面だ。最も低い地点は「バッド・ウォーター」と呼ばれ、池のようなものがある。しかし飲んだら最後、塩水で寿命を縮める、悪い水なのだ。白茶けた景色ゆえに、照りつける太陽の光が余計に眩しく思えた。

かように過酷なデス・バレーの記憶をたどりながら、いまの日本と比べてみると、いや断然に日本の方が暑く感じる。湿度が高いゆえに暑さの質が異なり、不快の度合いが上がる。そしてその不快感は、年々、度を越して増しているように思う。
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「&」という記号を凝視すると、膝を抱えて地面に座るひとに見えなくもない。

一般にアンド(エンド)と呼ばれるこの記号の本名はアンパサンドで、ラテン語で「〜と〜」の「と」をあらわすetを記号化したもの。
ラテン語由来のフランス語では、同じ意味で「et(エ)」という単語がいまも使われている。

&もしくはandとは、2つの語句を対等に接続する語とされる。
bread & butter
Simon & Garfunkel
black & white

対等ということは、それぞれの自立を条件としていている。
くっついて融合したものは、そもそも「&」を必要としない。別のものに変容しているはずだから。

何かを対等に繋ぐ役割を担う「&」は、それ自体、どこか寂しげに見える。
2つの間を取りもつ「&」は、一体を促すのではなく、両者に違いがあるということを告げる、孤高の存在なのだ。
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ライオンとオイラン
というアナグラムに
いま時分「花魁」という言葉の発言と流通がどこまで許されるものかふと考える
というある種の習慣は
コンプライアンス時代の病である

というフレーズは
あのねのねの『みかんの心ぼし』
を聴いて浮かんだもの
この迷曲だって
このご時世に出せるかは
かなりあやしい
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みかんの心ぼし

あのねのね

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辛いカレーを食べるやつは偉い、という考えの持ち主を「カレーマッチョ」と密かに呼んでいる。

カレーは辛いが、辛さはカレーを構成する要素のほんのひとつでしかない。辛さだけでカレーを評価されては、カレー好きとして憤懣やるかたない。

カレー好きを自認する自分は、辛さへの耐性がそれほどない。むしろ甘々がちょうどいいぐらいだ。

そんな性分の自分をして、辛くても食べたくなるカレーがあるのだから、それには相当な力が宿っているはずである。

辛い。とにかく辛い。しかし、スプーンを口に運ぶことがやめられない。その辛さは相当な発汗を促し、まるで自分の頭の上だけに雨雲があるようなびしょ濡れの様相を呈する。

とはいえ、この自分だけのスコールはすぐにやみ、雨上がりにはからっと爽やかな気分になる。

いきなり訪れたこんな暑い日には、このカレーマジックがおすすめである。
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『プロポーズ大作戦』
キダ・タロー

浪花のモーツァルト、永遠に。
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プロポーズ大作戦

Taro Kida,Siena Wind Orchestra

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新年よりも新年度よりも、いちばん大事な節目と感じているのが誕生日。
若い自分でも古い自分でもなく、「新しい自分」を迎え入れる、それが誕生日。
新しい自分を見つける旅の、ひとつの道標が誕生日。

新しくありたい、と思い続けている限り、少なくとも心は老いることはない。
些細な変化だって、それを見つける眼を持ってさえいれば、新しさは発見できる。

毎日が誰かの誕生日。
世界中できょう誕生日を迎えた方、おめでとうございます。
ともに新しい自分を見つけていきましょう。

#誕生日
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Autobahn - 2009 Remaster

Kraftwerk

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