
アッチャー
沈み沈み渦に沈みて夜を重ね
虚し身に流れる音色の清きこと
黒あげはお前は恋をしないのか
するするとへちまづる天を追い
(2005年編集)
copyright 2025 九竜なな也


アッチャー
くちなしの焦げ逝くにほひ仏光照
ぬくぬくとぬくぬくと息を吐くしゃれこうべ
曇光に斉しく清く揺れる葉らの幸よ
朝蝉の頭蓋に疼く夢の後
青きベランダに物干す君と僕
夏雀起きよ起きよと耳を噛む
ウルトラ怪獣転がる二体の仲良きかな
(2005年編集)
copyright 2025 九竜なな也


アッチャー
【届いた柿の味】(全5話)
⑤ 柿の味(後)(最終回)
「哲生です。お久しぶりです。…近くに仕事があったので、この辺りまできてみたんです。」
「…あ、どうも。お久しぶりです」
「まさか会えるとは思いませんでした。お元気そうで」
「あ、はい…」
哲生は次の言葉を待った。幸代は突然のことで何を話したらいいかわからない様子だった。哲生が期待する言葉はおろか、世辞のひとつも幸代からは返ってこなかった。
哲生は幸代に近寄り、余分に買っておいた沖縄の土産菓子の袋を差し出した。幸代はそれに手を伸ばさず戸惑いを見せた。哲生は袋からパイナップル模様の箱を取り出して腰を落とし、幸代と手をつないだままの女の子に手向けた。女の子は幸代の顔を見上げ、幸代がうなづくのを確認してから菓子箱を受け取った。
「ありがとうございます」
幸代が哲生の胸元あたりに視線を向けて言った。言葉はそれだけだった。
「突然お邪魔しちゃって…それでは失礼します」
幸代の母に会釈をして、哲生は小杉家の門を出た。
訪ねるべきではなかった。
哲生は幸代から届けられた柿の皮を剥きながら思った。50年余の人生の中の、幼少期のほんの5年か6年のあいだ近くに暮らしていただけの、幸代にとっては思い出す必要もない存在。そんな人間が予告もなく突然、安全であるはずの実家に姿を現すという無神経さを、哲生は今になって恥じていた。
なぜ幸代は、平日の午後に小さな子と共にあの家にいたのか。哲生にその理由を知る術もなければ、知る必要さえもなかったが、突然の外来者を幸代が喜んでいないのは明らかだった。
哲生は小さくカットした柿を口に入れた。
過熟ぎみの、ぬるく甘ったるい果肉が口の中で溶けた。哲生は自分の中にあった執着心を思った。
「冷やしたほうがうまそうだな」
心の隅に沈む未解決の執着は、それを知覚し言語化した時に昇華への処理が始まる。
青い琉球ガラスの皿に盛られた柿を、哲生はラップで覆い、冷蔵庫のチルド室にしまった。
(おわり)
最後まで読んでくださりありがとうございます。
©️2024九竜なな也


アッチャー
【届いた柿の味】(全5話)
⑤ 柿の味後(前)
40年前にあった角の材木店は、今もそこにあった。当時木造だった外壁がコンクリートに変わっていたが、木製の大きな看板は昔と同じだった。この材木店がある十字路を右に曲がれば…
当然のことだが、哲生のアパートも、淳也がいたシャタクもなかった。あの頃小さな群れのように立ち並んでいたアパートが全てなくなって、戸建てばかりの整然とした住宅地に変わっていることは一目で見通すことができた。車がやっとすれ違うことができる小幅な道路だけは、あの頃の雰囲気を残している。
出張先の用務を終えて、余った手土産の袋を手に下げ、哲生はゆっくりとその道を歩いた。
哲生は思い出のある一軒の家を探した。当時のこの通りの中で、幸代の家だけが、庭のある一戸建て住宅だったのだ。
「小杉」という表札が目に留まった。その門の前で立ち止まって庭を覗くと、白髪の老女がいた。老女は視線に気づき哲生を見た。哲生は一瞬慌てたが、
「小杉のおばさんですか?」
と声をかけた。
「…小杉ですが…どちら様でしたでしょうか?」
「普天間です。えーっと、幸代さんと、幼稚園と小学生の時によく遊んだ…そこの、あかつき荘の」
「あぁ、あの沖縄の…哲生くん?」
「はい。哲生です。近くまで仕事できたものですから、懐かしくてこの通りを歩いていたら、表札があったので…」
「うわぁー、こんな立派になって、まあ。お元気そうで。びっくりしたわ」
幸代の母は驚きの表情のまま門扉を開いて、哲生を庭に招いた。平屋の建物は現代的になっていたが、子どもが遊ぶのにちょうどいい広さの小庭には懐かしさを覚えた。
幸代の母の後ろに隠れていた小さな女の子が、二人の会話を聞いて、家の中に駆け込んで行った。ほどなくして、その子に手を引かれて女性が出てきた。幸代だった。地味なカーディガンをはおり、化粧はしていない。肌は若々しくきれいに見えたが、長く陽を避けていたかのような青白い顔をしていた。
幸代もその来訪者が哲生であると気づいたようだった。一瞬目を大きく見開き、それから視線を落とした。
(こんな小さい子がいるのか…それとも孫?)
哲生は気になったが、そのことは気に留めないふりをして幸代に話しかけた。
⑤(後)へつづく
©️2024九竜なな也


アッチャー
【届いた柿の味】(全5話)
④赤い小箱の痛み(後)
「はい。あげる」
淳也の手のひらに赤い小箱が乗った。淳也が嬉々として飛び跳ねた。幸代の顔が赤い。
哲生はすぐさまその場を離れて歩きだした。目に涙が溢れるのを感じ、顔を上に向けた。冬の青空に浮かぶ雲の輪郭が滲んだ。口を固く閉じたまま早足で二人から遠ざかっていったが、角を曲がる前に堪えきれず嗚咽を漏らした。
チョコレートをもらえるのは、淳也ではなく自分であったはずだ。自分にはその権利がある。幸代とは幼稚園の時から一緒だった。小学生になってからはそれぞれに同性の友達と遊ぶようになったが、二人で遊んでいた頃の思い出はいくつもあった。両方の親たちが撮った、運動会や海水浴での二人の写真もある。哲生と幸代には、歴史があるのだ。
哲生は嗚咽に肩を震わせながら、できるだけ二人から離れようと歩きつづた。
意識して考えるまでもなく、哲生の思いと幸代の思いは、変わらないものだと思い込んでいた。そうではなかったと知り、哲生はとても悲しくなった。幸代のことが急速に遠い存在に感じられていった。
そして、淳也のことを考えた。転校生の淳也は、話す言葉も服装も東京っ子らしくスマートで、すぐにクラスの人気ものになった。彼はハンサムで面白く、哲生より背が高く、哲生よりスポーツがよくできた。初めて哲生は、自分と誰かを比べることをした。そして敗北を知った。
⑤柿の味(最終話)へつづく
©️2024九竜なな也


アッチャー
【届いた柿の味】(全5話)
④赤い小箱の痛み(前)
「ちょうだい!」
重なった二人の声と同時に、ふたつの手のひらが差し出された。哲生の手と、淳也の手だ。
淳也は、東京から来た。
哲生と幸代が三年生に進級した新学期に、父親の転勤によりこの街に引っ越してきたのだ。二人の家の近くに、子どもたちの遊び場になっていた資材置き場があったが、そこにシャタク(社宅)と呼ばれる立派なアパートが建った。淳也は大人たちから「シャタクの子」と呼ばれ、決して彼をいじめたりしてはいけないと、哲生も強く両親から注意されていた。
哲生と幸代、そして転校生の淳也が同じクラスになり、家が近い三人は自然と仲良くなった。学校でも放課後でも、遊ぶときは男子と女子に別れるようになっていたが、登下校の時だけは、二十分近い道のりを三人で一緒に歩くことが多かった。
淳也はすっかりクラスに溶け込み、月日が経って二月になった。
哲生と淳也が道路でコマを回して遊んでいると、幸代がニコニコしながら近づいてきて、二人に声をかけた。母親の許可を得て、初めてバレンタインデーのチョコレートを買ったのだと、リボンのついた赤い小箱を大事そうに持っている。
「誰にあげようかな」
少し照れた笑顔で幸代が言った。
「ちょうだい!」
差し出された二人の手のひらを交互に見て、それから少しのあいだ目をつぶり、幸代は考えるそぶりを見せた。
④(後)へつづく
©️2024九竜なな也


アッチャー
【届いた柿の味】(全5話)
③冒険の結末(後)
今日のことは黙っていよう…目をあわせたふたりはそう示し合わせたつもりだった。
しかし、商店街で事件を起こして逃亡したことへの罪悪感に耐えられるほど、幼いふたりの心は強くなかった。
夕食のあと、幸代の母が哲生の家を訪れ、そこで全てが露見することになった。幸代の様子がおかしい、何があったのか本当のことを話して欲しいと言われ、哲生はあっけなく全てを白状した。
哲生の母は、幸代の母に繰り返し頭を下げて詫びた。哲生はその場で父に怒鳴られた。
翌日の午後、哲生と幸代はふたりの母親たちに連れられて、ペット店を訪れた。そして四人で店主に謝罪した。
床に落とされた亀は、体のどこかを傷めたかもしれないので売り物にはならないと聞かされ、哲生の母が落とした水槽ごと買い取ることになった。店主が、子供向けの亀の飼育のガイドブックを哲生に手渡してくれた。
哲生の冒険は失敗に終わった。成長の証としたかったことが、かえって未熟さを顕わすことになった。別々のクラスになった幸代と共有体験を重ねておきたいという無意識の目論見も、彼女を怯えさせ疲れ果てさせてしまうという、期待とは真逆の結果となってしまった。
ペット店の店主がくれたガイドブックを、哲生は一字一句暗記するほど読み返しながら、岩みたいな甲羅の亀を飼い続けた。幸代が亀を見たいと言うことは二度となかった。
④(赤い小箱の痛み)へつづく
©️2024九竜なな也


アッチャー
【届いた柿の味】(全5話)
③冒険の結末(前)
その倉庫街に哲生は見覚えがあった。この先を海の方へ行くと、父が勤める鉄工所がある。ある日曜日に、忘れ物を取りに行くという父の自転車の荷台に乗って、工場まで連れて行ってもらったことがある。ということは、反対に川の上流の方向に行けば、駅に着くだろう。そこから線路沿いに山の見える方に歩いて行けば家に着くはずである。遠回りだがこのルートの方が自転車では通いやすいと、父が言っていたことを哲生は思い出した。
あっちに行ったら父ちゃんがいる…哲生は父に会いたい気持ちを抑えて、鉄工所とは反対方向の、帰途の道順を思い浮かべながら再び歩き出した。
足を進める方向が、逃避行から家路へと切り替わったことを知った幸代は、緊張が解けてしくしくと泣きだした。少し先を歩く哲生が振り向いて手を差し出すと、幸代は早足で追いついて哲生の手を握った。
ふたりの家がある小幅な通りに帰り着いた時には、夕闇がかなり深まっていた。幸代の家の前で、両家の母親が待っていた。幸代の姉もいた。
母親たちは疲れ果てた哲生と幸代の表情を見つめた。そして静かな声で、こんな時間までどこで遊んでいたのかと問うた。
「さっちゃんと、父ちゃんの工場に行きたかったけど、行けなかった」
哲生はそう答えた。幸代は終始うつむいていたが、家に入ろうとした時に振り向いて、哲生と目をあわせた。
③(後)へつづく
©️2024九竜なな也


アッチャー
【届いた柿の味】(全5話)
②逃げ出したあの日(後)
「もう一年生になったんだ。小鳥の世話くらい自分でできるよ」
そう呟いて、哲生は下見をするつもりでペット店に入った。
店に入って哲生の足を止めたのは、小鳥ではなく亀だった。哲生の顔くらいの大きさのある陸亀が水槽の中でゆっくりと動き、原始的な雰囲気を放っていた。近寄って、ちょうど目線の高さにいる亀を横から眺め、それから背伸びをして上の方向から亀の甲羅を見下ろした。
「わっ、岩みたいだ!すごい」
感嘆の声を聞いた幸代が、駆け寄ってきて
「サチも見たい」
と言って、ぴょんぴょんとジャンプをした。哲生は視点を高くしてあげようと、幸代の腰を両腕で持ち上げた。
幸代が水槽の縁に手をかけて亀の甲羅を見下ろした瞬間、哲生は幸代の体重を持ち続けられずに腕を緩めてしまった。水槽が、床に降りた幸代の手に掴まれたまま大きく前に傾き、驚いた幸代は手を離して後ろに飛び退いた。大きな音を立てて水槽が落下し、中にいた亀とともに砂利が床に散乱した。幸代が悲鳴をあげた。哲生は頭が真っ白になった。
大人の客がとっさに近づいてきて、水槽が割れていないことと、ふたりが怪我をしていないことを素早く確かめ、店の奥に店員を呼びに行った。
幸代の顔はみるみる青ざめていき、恐怖に唇が震えだした。それを見た哲生は幸代の手をとって店を飛び出した。ふたりは後ろを振り返らずに手をつないだまま全力で走り続けた。大通りから細い道に入り込み、幾つもの角を曲がり、闇雲に逃げた。やがて息を切らして立ち止まり、恐る恐る振り返ってみたが、追ってくる大人はいなかった。
気がつくとふたりは、川の河口付近の倉庫街に来ていた。
③へつづく
©️2024九竜なな也


アッチャー
【届いた柿の味】(全5話)
②逃げ出したあの日(前)
「商店街に行こうよ」
あたたかい春の日の昼下がりに、哲生はそう幸代に提案した。ふたりとも商店街へは母親の買い物に付き従ってしか行ったことがなかった。そこは大人に伴われていく場所だった。
哲生は晴れて小学校に入学したことで、自分たちの行動範囲を広げてみたかった。親を伴わずに商店街へ行くというのは、ふたりにとっては冒険であり、その冒険によって自分たちの成長を実感したかったのだ。
そしてもう一つ理由があった。幼稚園の時と違って、小学校では、同じ学年でも複数の教室がある。これまでは園でも放課後でも近くにいた幸代と、小学校では別々のクラスになるということを哲生は想定していなかった。そして、お互いに友達の数が飛躍的に増えるということも。
無意識に哲生は、幸代とふたりだけの体験を共有しておきたいと欲していた。
目的の商店街に着くのに一時間ほどかかったが、ふたりはそれを長いとは感じなかった。いつもはバスで往く道のりを初めて歩いてみると、ところどころで興味をそそるものに出くわした。橋の上から入り江の水面を見下ろすと、魚の影が動くのが見えた。黒い猫が、その数倍も大きい野良犬と対峙して毛を逆立てているのを、固唾を呑んでみまもった。どこから甘い香りが漂い、その香気を辿って路地の中に追ってみたが、出元を見つけることはできなかった。
まだ混み合っていない商店街に着いたふたりは、文具店や洋服店、鮮魚店などを興味深く眺めながら歩いたが、これらの店に子供だけで入る勇気を出せなかった。
しかし、哲生には勇気をふりしぼって入りたい店があった。小鳥や金魚などを売っているペット店だ。母親の買い物について行くたびににその店へ入りたがったが、見たら欲しくなるから、自分で世話ができるくらいにお兄ちゃんになるまで我慢しなさいと言われていた。
②(後)へつづく
©️2024九竜なな也


アッチャー
【届いた柿の味】(全5話)
①幼なじみ(後)
「てっちゃん」「さっちゃん」と呼び合っていた幼なじみに宛てられた手紙にしては、過剰に丁寧な文体だった。自分に関わって欲しくないという、幸代の拒否感が感じられた。最後になりますが…という末尾の一節に、それを哲生に伝えようとする彼女の意思が読み取れる。
それは哲生の思い過ごしかもしれない。しかしそれが違っていたとしても、そう思うことで誰も困ることはない。
商用で訪れることが多いある都市のオフィス街からほんの二駅の所にその街はあった。幼少期を過ごした小さな街だ。出張先での用務が予定より早く片づき、哲生はふと思い立ってこの街まで足を伸ばしてみた。
当時は安いアパートがひしめき合っていた界隈を40年ぶりに訪れたところで、街はすっかり変わっているだろうし、あの頃の友人たちが今もそこに暮らしているとは思えない。
だからそこで幸代に会えるとは予想していなかった。いや、心の隅では期待していたのかもしれない。
ひとつ気になることがあった。「あの時のお詫び」とは、いつのことを言っているのだろうか…
②へつづく
©️2024九竜なな也


アッチャー
【ビジネスパートナーと彼女】
3/3 予感
遥子のことについて、俺はなんとなく予感するものがあった。
俺は出逢った女性との間にある種の法則のようなものがあることに気づいていた。俺を振った女、俺から離れていった女の多くは、その後しばらく経ってから、俺に接近してくるのだ。それが数ヶ月後のこともあれば、数年、それこそ10年や20年経ってからということもあった。
その女たちには共通点があった。彼女たちは、悲しみ、孤独、失望の中にあった。そういう時に、俺に連絡をよこしてくるのだ。
数ヶ月前から、遥子は大した用でもないのに、入札のための業務調整だと言って俺を社外のカフェに呼び出したり、夜遅くから電話をかけてきたりしていた。電話の向こうの遥子の声に、俺はこの法則の既視感を感じていた。
龍彦と遥子が席を退いてから、メンバーの気遣いに助けられて場は再び盛り上がっていった。誰も俺たち三人のことには触れなかった。
そろそろ飲み会も締めくくられようとする時間になったとき、スマートフォンにメッセージが届いた。龍彦からだ。
「さっきはすまなかった。事態は、だいたいお前が予想している類いのことだ。あとで詳しく話す」
俺は残りのハイボールを一気に飲み干した。
(おわり)
©️2024九竜なな也
最後まで読んでくださりありがとうございました。


アッチャー
【ビジネスパートナーと彼女】
2/3 釈明
「あたしね、謙介とホテルに行ったの」
「なっ…何を言い出すんだ、遥子」
俺は天地がひっくり返るほど驚いた。反射的に過去の記憶を頭の中で探った。
「行ったじゃない。あたし、謙介に連れ込まれたの」
龍彦が驚きと怒りの目を俺にむけた。場が凍りついている。
「いい加減にしろよ、遥子。話すならちゃんと話せよ。最後まで。」
「どういう事だよ、謙介」
龍彦の声が、低く不気味に響いた。
「確かに、俺は遥子とホテルに行った事があるよ。だけどそれは20年以上前、お前たちが結婚する前…いやもっと、付き合いはじめる前のことだ。しかもだ、遥子は服を…上着さえも脱いでないし、俺は遥子に触れていない。それは信じてくれ」
俺は気が動転するのを必死に抑えながら、冷静に釈明しようと努めた。声が震えた。
「…俺が強引に連れ込んだんだ、酔っていた遥子を。すまなかったと、今でも思っている。
部屋に入ってから遥子は言ったんだよ。自分が好きなのは俺じゃない。他に好きな人がいるんだって。
…それが龍彦、お前だよ。俺は振られたんだ。お前に負けたんだよ。大昔のことさ。今はもう、そんな気持ちは微塵もないよ。わかるだろう?俺には恋人がいる」
龍彦の顔から怒りの色が引き、目は悲しみの影を帯びてきた。
落ち着きを取り戻した俺は、二人に尋ねた。
「どうしたんだよ遥子。龍彦、お前たち大丈夫なのか?」
遥子がわっと泣き出した。
龍彦は足の覚束ない遥子を抱きかかえて立ち上がり、
「みんな、申し訳ない。今日は失礼するよ」
と頭を下げ、二人で出ていった。
遥子のことについて、俺はなんとなく予感するものがあった。
(つづく)
©️2024九竜なな也


アッチャー
最終話 ステキな男
那覇空港はバカンスを終えた観光客で混み合っていた。待ち合わせに指定されたカフェで冷たいものを飲んでいると、少し遅れて依子がやってきた。依子は笑顔を崩さず、昨夜の急な予定変更をふたりに詫びた。
依子は何かを探るように圭司の顔をじっと見つめ、それから視線を淳子に向けた。淳子は依子に軽く首を横に振って見せた。その途端、姉妹は同時にプッと吹き出し、キャハハと高い笑い声をあげた。いったい何事かと圭司はふたりの顔を交互に見た。
「あたしの勝ちってことよね」
親指を立てて拳を握り、依子は満面の笑顔でガッポーズを見せた。
「ねえ、まけてよ」
淳子は悔しげに口を尖らせて、圭司を睨んだ。イタズラっぽい笑みがまじっている。
「そうね。あたしの方がよく知ってるんだから、半額でいいよ」
淳子は千円札を5枚数えて依子に突き出した。
「なに?何か賭けでもしてたの?」
圭司は、説明を求めた。
「ごめんね。昨日の夜、急に思いついてさ。圭司くんがペンションで淳子に手を出すかどうか、賭けてたの。手を出さない方に、あたしは賭けたわけ。だからあたしの勝ち」
顔が真っ赤に熱くなるのが、圭司は自分でもわかった。
依子は屈託のない笑顔のまま、淳子から勝ち取った5枚の千円札を、扇のようにひらひらとあおって見せた。
手荷物検査場の前まできて、依子は圭司の手を取り握手をした。
「圭司くん、今回はありがとう。いい夏休みを過ごせたわ。
…圭司くんはやっぱり変わらない。キミはステキな男だよ」
依子の手に力が入った。淳子も目を細めて微笑んでいる。
検査機を通り抜ける前に、淳子が振り向いて手を振った。
「また来るから。今度は三人でゆっくりしようね」
圭司は笑顔を作って手を振り返した。
ふたりが搭乗口へ向かう雑踏に消えていくのを見届けてから、歩きだした。
「なんちゅう姉妹だ。もう勘弁してくれよ」
ジーンズのポケットに突っ込んだものが嵩張って邪魔になっているのを思い出し、それを素早くゴミ箱に捨てて、圭司は空港ロビーの出口に向かった。
(おわり)
©️2024九竜なな也
最後まで読んでくださりありがとうございました。


アッチャー
3/5 暗闇の情動
淳子が何度かあくびをした。宮古島まで旅程に含めた四泊五日の最終夜だ。さすがに疲れただろう。まだ10時を過ぎたばかりだが、寝た方がいいと圭司は提案した。
3LDKの個室は鍵のない引き戸で区切られている。それぞれの部屋に分かれて電気を消した。
慣れないベッドで寝つけない圭司は、依子がまだ在学中だった去年の秋のことを思い出していた。終わりの見えない大学祭の打ち上げの飲み会を途中で抜けて帰ろうと依子に誘われ、彼女のアパートに行ってふたりで飲み直した。
男子ばかりの工学部の中で、依子は軽いという噂を圭司は聞いていたが、研究を通じて彼女の人となりをよく知っているので、気にはしていなかった。ただ気になっていたのは、依子が長く付き合っていた先輩と別れたらしいということと、共通の友人である同期の晴人から、一週間前に依子と寝たと打ち明けられたことだ。晴人には恋人がいて、依子と付き合うつもりはないという。
テーブルを挟んでふたりで缶ビールを飲んでいると、依子がしくしくと泣き出した。圭司は何も聞かず、二本目のビールを開けて依子の前におき、自分もちびちびと飲み続けた。
依子はひとしきり泣いたあと、圭司に笑顔を見せて、もうだいぶ遅いから泊まっていけと言った。
「いいんですか?オレ男ですよ」
圭司は照れ隠しに言った。
「大丈夫よ。圭司くんはあたしの弟分なんだから、変なことはしないでしょ」
一つの部屋で、依子のベッドからできるだけ遠くに離れた位置に圭司が寝る布団が敷かれた。電灯のスイッチが切られ真っ暗になった。
眠りに落ちかけていた圭司は、自分の名が呼ばれたような気がして、わずかに目を開いた。暗闇の中で、依子が上から圭司を見つめている。寝返りをうてば触れるほど間近に依子の顔があるのがわかる。吐息が頬にあたる。
鼓動が高鳴り、突き上げてくるような動物的な情動を感じながら、圭司はその一方で、依子とはそういう関係を持ちたくないと思った。大柄で筋肉質の晴人と、痩せた自分の体を依子に比べられるのが嫌だった。それに、圭司には思いを告白しようかどうか迷っている幼なじみの女ともだちがいた。彼女のことが脳裏をよぎった。
必死に寝たふりをしていると、やがて依子は音を立てずに自分のベッドに戻っていった。
(つづく)
©️2024九竜なな也


アッチャー
1/5 再会と出会い
蒸し暑い夜が始まろうとしていた。排気ガスと人の息の混った生暖かい風が吹く那覇市の国際通りから、細い脇道に入って10分ほど歩いたところに約束の居酒屋はあった。およそ観光客目当てとは思えない庶民的な居酒屋だ。紺色の暖簾をくぐって店に入ると、まっすぐ奥へいったテーブル席に待ち合わせの相手がいた。二人の女性が中ジョッキのオリオン生ビールを飲みながらおしゃべりに興じている。近づく圭司に気づいて、満面の笑顔を見せた。
「お久しぶり!」
「はじめまして!」
二人は姉妹だった。姉の依子は圭司と同じ大学院の研究室の2年先輩で、妹の淳子は圭司と同い年の24歳になる。
友達のように仲の良い姉妹だと聞いていたが、一見すると姉妹には見えなかった。一重瞼で切れ長の目をした、長くない黒髪の依子と対照的に、淳子は輪郭のはっきりした二重瞼の大きな目で、栗色に染められた長いストレートヘアを頭頂から左右に分けていた。うつむいた角度で見える時のふたりの面影がそっくりだった。
圭司と淳子が初対面だからといって緊張感はなく、三人はすぐに打ち解けた。
この日の圭司の役割は運転手だった。
大学院を出て医療機器メーカーに就職した依子が、社会人一年目の夏季休暇を遊ぶ場所として、学生生活を送った沖縄を選んだ。音楽教師になりたての淳子も、短い夏休みを利用して沖縄に遊びに来ていた。そして最後の夜に、それぞれの同行者と別れて姉妹は合流したのだ。
お互いの自己紹介や簡単な近況報告をしあって、三人は居酒屋を出た。向かうは車で1時間ほど北に走った場所にあるペンションだ。姉妹はそこで一泊し、朝の海水浴を楽しんで帰途につくという計画らしい。
ところが、依子が急に予定を変更した。都合が合わず会えないはずだった現地の友達と会えることになったため、その友達と約束した場所で彼女は圭司の車を降りた。ペンションへは、友達に送ってもらって後から行くという。
(つづく)
©️2024九竜なな也


アッチャー
【母の好きな人】最終話
#九竜なな也
#note より
父・英樹が他界して10年が過ぎた。一人暮らしを続けている母・寿美子も60歳になる。相変わらず社交的で快活な寿美子は、近所や友人との交友で賑やかな生活を送っている。しかし、母に一人暮らしをさせている真希斗には、健康のことなど何かと気がかりなことがあった。
寿美子の様子をうかがうために仕事中でも実家に立ち寄るのが、30歳を過ぎた真希斗の習慣になっていた。真希斗の妻も、義母のことを気にして、それを勧めていた。
商用を済ませ近くを通った時にちょうど正午になろうとしていたので、真希斗はスーパーでちらし寿司弁当を二つ買って実家へ立ち寄った。
「あら、ちらし寿司。美味しそうね。お父さん好きだったのよね」
寿美子はきまって、貰い物の食べ物は自分が食べる前に、仏壇に供える。そして遺影に向かって手を合わせる。
真希斗は、その時に微かに動く寿美子の口元を見るのが好きなのだ。
「ヒデくん」
声を出さない口元は、必ずそう動いていた。
真希斗は思う。
俺は親父のように妻から愛されるだろうか?
いや、そうじゃない。
俺は、親父のように妻を愛せるだろうか?
(了)
©️2024九竜なな也


アッチャー
【母の好きな人】4話(全5話】
#九竜なな也
#note より
母の過ちを、父は知らぬままに生涯を終えたのだろうか?
倒れた途端に余命宣告をされ、厳しい闘病生活を送る父に、告解のように母が過去の過ちを打ち明けて詫びたとは思えない。それよりも前に、寿美子は英樹に罪を詫びたのだろうか?
それとも、隠し通したのだろうか?
あるいは、父は知っていながら、知らぬふりをしたのだろうか?
真希斗が確かに知っていることは、母・寿美子が過ちをおかしたという事実と、それにもかかわらず、田辺家には平穏な生活が続いたことだった。
大学を卒業して、真希斗は地元の商社に就職した。ある日、外回りの営業に出ている時に、母を銀行まで連れて行ったことがある。短時間で済む小用なら営業車を使って母に便宜をはかることがあった。
寿美子が用を済ませるのを、真希斗は路肩に停車させた営業車の中で待っていた。母が銀行から出てきて車に乗ろうとする時、女性行員が後を追いかけてきた。険しい表情をしている。女性は覗き込むようにして真希斗の顔を確かめ、営業車に書かれている社名をメモしていた。
「何してるの?もう関係ないでしょう」
寿美子も険しい表情で、その行員に言った。真希斗にはその女性の顔に見覚えがあった。胸のネームプレートには「小貫咲恵」と書かれていた。真希斗はあの出来事を思い出した。何事もなかったかのように平穏が保たれた田辺家とは反対に、小貫家は決して穏便にはすまなかったであろうことが、彼女の表情や行動から想像できた。
(つづく)
©️2024九竜なな也


アッチャー
【母の好きな人】2話(全5話】
#九竜なな也
#note より
あれは、真希斗の高校卒業が近い季節だった。卒業式までの数日間、学校が休みになった。大学受験の日程や高校のカリキュラムが全て終わり、卒後の進路の準備などに充てるための時間として与えられた休校期間だった。
他の家族は皆いつも通りに家を出て、真希斗だけが2階の自室にいた。
午後2時を過ぎたころ、誰かが帰ってくる音が階下から聞こえた。真希斗が様子をうかがうと、階段下の玄関に寿美子がいた。いつも母が勤めを終えて帰宅するのは午後6時を過ぎた時間帯だ。体調でも崩して早退したのだろうか?と真希斗が考えているところで電話が鳴り、寿美子が誰かと話し始めた。
真希斗の部屋は、玄関口から続く細い階段を上って一番手前にあるため、部屋のドアを開けて耳を傾ければ、玄関口に置かれた電話の話し声が聞こえる。
「サキちゃんに見られたんですよ。あの子の顔を見てすぐわかりました。いつから見ていたのかしら」
寿美子の話す内容から、電話の相手との情事を向こうの家族に知られるという事態が起きていることが、真希斗には理解できた。そしてその相手が誰なのかということも。
真希斗の父・英樹はかつて炭鉱で栄えた北海道の小さな町の出身だが、田辺家は母・寿美子の実家がある関東北部の中規模の都市に暮らしている。東京の工業大学に進学した英樹は、卒業後、中堅クラスのゼネコンに技術者として就職した。しかし、社風に馴染めず一年で精神を病んで退職してしまった。生活のためにレストランでアルバイトをしている時に、同じ店の従業員だった寿美子と知り合った。やがてふたりは結婚を望むほどの間柄になった。ちょうどその頃タイミングよく、寿美子の故郷の、実家と関係のある建設会社が大学出の技術者を求めているという知らせが入った。寿美子に強く押されて、英樹はその会社に再就職し、それと同時に二人の結婚が決まった。英樹は母子家庭に育ったが、すでに母はこの世を去っており、彼が誰とどこに根を下ろそうが、干渉する者はいなかった。
この話を寿美子は幾度となく子供たちに聞かせていた。ふたりが出会ってこの町で結婚するまでのいきさつの、どの部分が重要なのか子供たちにはよくわからなかったが、なぜか寿美子は繰り返しこのことを話すのだった。
(つづく)
©️2024九竜なな也


アッチャー
【母の好きな人】1話(全3話】
#九竜なな也
#note より
概して息子にとって、父親とは大きな存在である。それは、必ずしも何か偉業を成し遂げた父親とはかぎらない。無名で地味な生き方をしている父親でも、息子にしかわからない大きさというものがある。
真希斗にしてもそうだった。しかし、はじめからというわけではない。むしろ、思春期の頃は、父の無欲でおとなしい性格に物足りなさを感じ、少し軽蔑するような気持ちもあった。
真希斗がその存在の大きさを感じるようになったのは、父の田辺英樹が他界した後からだった。
「ヒデくん。いや。行かないで。あたしをおいて行かないで。お願い!」
真希斗の母・寿美子は、病院のベットの上で呼吸が弱まっていく夫に泣きすがった。
この時、真希斗と姉たちは、初めて母が父のことを「ヒデくん」と呼ぶのを聞いた。父は、家族の前ではいつも「お父さん」と呼ばれていた。田辺家にとって、田辺英樹は常に「お父さん」であった。その父と死別したのは、真希斗が大学四年の時だった。
難治の病が発覚して、二年を待たずに英樹は他界した。50余年の生涯だった。寿美子のひどい落ち込み具合に、彼女があとを追ってしまうのではないかと、子供たちや親しい者は心配したが、一周忌を終えた頃から、寿美子は自分らしさを取り戻していった。
寿美子が元気になってから姉たちが聞き出したところによると、父の周囲では彼女だけが父を「ヒデくん」と呼んでいたそうだ。しかしそれは、ふたりが恋人同士だった時と、結婚して子どもたちが生まれるまでのことだった。長女、次女、そして真希斗と、次々に三人の子どもが生まれてからは、英樹は寿美子にとっても「お父さん」と呼ぶ存在になっていった。
それが、息絶えていく最後の数分間だけ、「ヒデくん」に戻ったのだ。
姉たちからその話を聞きながら、真希斗はある出来事を思い出していた。
真希斗には家族に隠している秘密があった。それは、彼が母・寿美子の隠し事を知っているという秘密だ。
(つづく)
©️2024九竜なな也


アッチャー
#note より
二人の結婚が決まった頃、俺は瑞穂に案内されて、リッキーのバーに行った。瑞穂はこの人が結婚相手だと、俺を彼に紹介した。この時俺は、リッキーの礼儀正しさに好感を持った。そしてカクテルを彼に作ってもらったが、瑞穂に促されて、長居はせずにカズの店に移った。
結婚後、瑞穂は会社を辞めて俺の事務所を手伝うようになった。
ある日突然、リッキーが事務所を訪ねてきた。当然俺は、資産運用の相談に来たのだと思った。
ところが、彼を出迎えた瑞穂の目は怒りの色を帯びている。
リッキーは事務所の中に入ってきて、応接セットのソファに腰をおろした。ひと通り事務所の中を眺めて、俺に笑顔を見せた。俺は彼の態度に苛立たしさを感じながら
「ご用は?」
と問うた。彼は口をひらいた。
「融資の相談に乗ってくれると、瑞穂さんから聞いたものですから」
「ちがうわ。そういう仕事ではないって言ったはずよ」
瑞穂が口を挟んだ。事前に彼から瑞穂に問い合わせがあったのだろうか?
俺は資産運用の専門家、つまり投資の案内はするが、金貸しではない。そのことを説明すると
「えー、そうだったんですね。すみません、勘違いしてました」
リッキーはにやけ顔のまま、事務所を出ていった。帰り際に一度振り返ったが、瑞穂は奥に引っ込んでいた。
今夜カズの話を聞いて、瑞穂が以前つき合っていた妻子ある男がリッキーだということを俺は確信した。
手放した女の夫がどんな事務所を構えているか覗きに来たのだろうか?
それとも、瑞穂はオレの女だったんだと、俺に仄めかして優越感を味わうために来たのだろうか。
あのゲス野郎。舐めた奴だ。
(了)
©️2024九竜なな也


アッチャー
#note より
「リッキーに限ってそれはないわ。あたしは小さい頃から彼を知ってるの。そんなことする男じゃないよ。リッキーはとても家族思いなの」
俺は頷くしかなかった。
安美は気を悪くしたようだった。ジンライムを飲み干すと、友達と約束があると言って店を出ていった。もしかしたら、リッキーの店へ行って、俺に聞かれたことを彼に話すかもしれない。
店には俺とカズだけになった。そしてカズが言った。
「ああ言ってるけどさ、安美は幼馴染のリッキーを信じたいんだよ。二人とも似たような境遇で育って、一緒にグレて連んでいた時期もあったから。
でもよ、瑞穂さんと彼がどうだったかは知らないけど、リッキーは結構遊んでるよ。安美が知らないだけで、俺ら同業の間では、客に手を出すのが早いって噂されている」
やはりそうか。俺は確信した。
瑞穂は、東京からこの街に戻ってきたばかりの頃、妻子ある男性とつき合っていたことがあると、俺に打ち明けていた。
俺と知り合う前のことだから、瑞穂が俺に不義をはたらいたわけではない。
しかし俺はあの男に腹を立てている。嫌な奴だ。
(つづく)
©️2024九竜なな也


アッチャー
前編 #note より
女は男の浮気を見抜く鋭い嗅覚を持ち、男は鈍感で簡単に女に騙される。確かにそれはあたっているだろう。
だが、女だってボロを出す時はある。
俺はカズの店で飲んでいた。カズとは古いつき合いだ。彼はベテランのバーテンダーで、うまいカクテルを飲ませてくれるだけでなく、長年の経験からか人の本性を見抜くことにたけている。そんなカズに俺は一目を置いていた。
「こんばんは」
安美が店に入ってきた。そろそろ来る頃だろうと、俺は彼女を待っていたのだ。
「やあ。来るだろうと思ってたよ」
「あら、嬉しい。お昼にも会ったのに、またあたしに会いたくなったの? 知らないわよ、瑞穂さんに気づかれても」
安美はカズの店の常連だが、俺は昼間に彼女とよく会っている。安美は、法人向けに資産運用のコンサルティングをしている俺の、お得意先の社長秘書なのだ。今日も、社長とのランチミーティングに安美が同席した。
「その瑞穂のことで聞きたいことがあるんだ」
俺は待ちきれない心持ちで、席に腰掛けたばかりで上着も脱いでいない安美に問いかけた。
「え?どうしてあたしに? あたし、瑞穂さんのことなんてよく知らないわよ。こことか、リッキーの店で二、三回会ったことがあるくらい」
安美は怪訝な顔をしながらカズにカクテルを頼んだ。「あいよ!」というカズの陽気な返事が場を和ませてくれた。俺は安美に気をつかう余裕もなく尋ねた。
「そのリッキーと瑞穂のことだよ。二人はつき合っていたことがあるんじゃないか?」
「へ? リッキーと瑞穂さんが? それっていつの話?」
安美は驚いた顔で聞き返してきた。
カズは無言でライムを搾っている。
俺は自分を落ち着かせるために、左手をかけたままだったグラスを持ち上げて、ウイスキーを一口飲んだ。ゴクリと喉が鳴った。
(つづく)
©️2024九竜なな也


アッチャー
夫婦の生活は子供を中心に回った。いつのまにかふたりとも煙草を吸わなくなっていた。子供たちは逞しく育ってくれた。今はもう、みんな親元を離れて自立している。
数年前から俺は、かなり頻繁に、ひとりでこの川辺に来るようになった。
早朝のリバーサイドマルシェは今も続いており、この町の観光スポットとして広く知られるようになったが、俺が寄り道する夕暮れの時間帯は、この辺りはひっそりとしている。
俺が時々ここに来ていたことは多香美には話さなかった。ふたりが出会った日のことを鮮明に覚えているのは、悔しいことがあったり、寂しさが募るとその度にここにきて、こうしてあの日の回想に耽るのが俺の気分の整え方だったからだ。
でも、この回想も今日で終わりにしよう。
久しぶりに煙草とライターと吸い殻入れを買ってみた。煙草はずいぶんと値段が高くなったものだ。異物を肺に吸い込む心地よさは覚えていたが、一本吸うと頭がぼうっとなった。俺はもう吸えないと思い、箱を無理矢理ねじってポケットに突っ込んだ。
後ろの方から声が聞こえて俺は振り返った。手をつないだ老夫婦がこちらに向かって歩いてくる。歩きやすそうなお揃いのスニーカーを履き、小さなショッピングバッグを男性が手にさげている。老夫婦は穏やかな笑い声を聞かせながら、俺の前を通り過ぎていった。
ふたりが遠ざかるのを待って、俺はもう一度ポケットから煙草の箱を取り出し、ねじれを直してから抜きとった一本に火をつけた。
多香美と出会った裏通りのバーは、今はもう建物ごと取り壊されてしまい、その一帯は空虚なコインパーキングになっている。
再開発の波に抵抗してかろうじて残っている、あの飲屋街のメインストリートへ行ってみよう。還暦に近づく男があの通りをひとりでぶらつけば、年甲斐もなく、みっともないと思われるかもしれない。
それでもいいさ。俺は自由だ。
(完)
©️2024九竜なな也


アッチャー
コーヒーを味わいながら同じ方角を眺めていると、多香美がぽつりと言った。
「あなた、よかったわ。感じたわ」
「そう。ありがとう。君もよかったよ。久しぶりに楽しめた」
俺の返事を聞いていないかのように、多香美は黙ったまま、視線の向きも、表情も変えなかった。
コーヒーカップが空になると多香美が言った。
「ねえ。お野菜を買いたいから、ちょっと待っててくれる? それとも一緒に行く?」
「俺はここで待ってるよ。コーヒーをもう一杯飲みたいんだ。急ぐ用事もないからゆっくり買ってくればいいよ」
俺は本当にもう一杯コーヒーを飲みたかったし、少しの時間だけ、ここに一人でいたいと思った。
二杯目のコーヒーを飲み終える頃、多香美は戻ってきた。微笑みながら野菜の入った白い袋を二つ持っている。
「お待たせ。はい、これあなたの分」
差し出された袋の中を見ると、にんじんと玉ねぎとなすが入っていた。
「自炊してる?」
「してるさ。…なんだかカレーセットみたいだな」
「そうね」
多香美は笑った。
「おなかがすいたわ。カレー食べたくなっちゃった」
「こんな朝からカレーか?」
俺も腹がへっていた。あたりを見回したが、カレーライスを売っていそうな出店はなかった。まだ 7 時にもなっていない。こんな朝からカレーを食べさせる店なんて、表通りに出ても見つけられないだろう。
そう考えてから、俺は多香美が言っている意味を悟った。
「作ってやろうか。鶏肉とジャガイモはあったから、俺の部屋に来る?」
「ええ。行くわ。一緒に作りましょう」
この日から、俺と多香美は毎日会うようになった。多香美を川沿いに誘ったときは、後のことは考えず一夜限りのつもりだった。この日から 30年近く、多香美と人生を共に過ごすことになるとは思ってもみなかった。
(最終話へつづく)
©️2024九竜なな也


アッチャー
コーヒーカップに指をかけたまま、多香美は川の対岸の景色を眺めていた。対岸には平野を埋めるようにして耕作地が広がり、その向こうに山がかすんで見えた。
川面に乱反射した朝の陽光が屋外撮影のレフ版のように多香美を照らした。多香美は眼をやや細め、心地よさを満喫しているように微笑んでいた。俺はこのとき、はじめて多香美の顔をしっかりと見たような気がした。
多香美の色白の肌は、俺が苦手とするか弱そうな透明感のある肌ではなく、しっかりと色素を蓄えた血の気のある肌だった。二重まぶたから延びる地毛のまつげは長く、物事をしっかりと見ようとする眼差しを多香美は持っていた。かき分けた黒髪からのぞく、つるっとした耳の曲線が、顎のラインに自然につながっていた。細くてややとがった顎は、その幅と首の細さが釣り合っている。時折強まる風に前髪があおられて現れる小さな額がかわいい。紅く染められた唇だけが、別の生き物のように見えた。
多香美は美しかった。
(つづく)
©️2024九竜なな也


アッチャー
ホテルを出て表の通りまで行くとバス停が見えた。その方向へ歩きかけた時、多香美が思いついたように言った。
「ねえ。朝市に行ってみない?リバーサイドマルシェっていうの。あたしコーヒーが飲みたいわ」
「朝市でコーヒーが飲めるのか?」
「ええ。飲めるわ」
この町は中規模の河川を挟んで都市部と農業地帯に分かれている。農業地帯では特にこの土地ならではの特産物があるわけではなく、一般的な野菜類が多品目生産されていた。安定した気候と水質の良さからか、この地でとれる野菜は品質が良いと評判で、首都圏に出荷されて高い値で取引されていると聞いたことがある。
数年前から、地産地消による町の活性化や食育
の推進を目的として、都市部の川岸に造成された広場で、週末の早朝に農産物の即売会が催されるようになった。
リバーサイドマルシェと呼ばれるこの朝市には、都市部で営業しているカフェやパン屋なども出店し、地元産の作物を使った料理なども販売されていた。
俺がこうした経緯を知っていたのは、このイベントを知らせるポスターの制作を請け負ったことがあったからだ。しかし関心のある分野ではなく、俺にとっては数ある請負業務のひとつだった。早朝ということもあり、今まで一度も足を運んだことはなかった。俺が仕事で絡んだことがあることは、今は多香美には話したくなかった。
リバーサイドマルシェは、二人が泊まったホテルから上流の方向に歩いて行ける距離にあった。
多香美に導かれて、家族連れで賑わう農産物売り場を抜けていくと、ボックスカーを利用した臨時のコーヒーショップがあった。アウトドア用のテーブルが数席、露天に設置されていた。その一つに多香美を座らせて、俺は二人分のコーヒーを注文しにいった。
ボックスカーの荷台から延長された店には、50 年代のアメリカを舞台にした映画にでてくるような、レトロでポップなラジオが置かれていて、それに似合うロックンロールの曲が流れていた。アメリカのオールディーズをコンセプトにしたカフェを駅前で営業しているのだと、店の人が教えてくれた。
俺は注文したコーヒーを待つ間、多香美は他の誰かとも、ここに来たことがあるに違いないと考えた。
(つづく)
©️2024九竜なな也


アッチャー
実話をベースにした創作です。
【短編連載・不純情小説】リバーサイドマルシェ(第5話)から、ハイライトシーンを抜粋
#note #九竜なな也 #リバーサイドマルシェ
………………
むっとした表情で帰り支度を始めた多香美に、俺はそのまま話し続けた。
「失礼なのはわかっている。でも、はじめからそのつもりで君に声をかけたわけじゃないよ。話しているうちに、今の君を抱きたいと思うようになった。これが今の俺の気持ちなんだ。今度またこの店で君に会うことがあったとしても、同じ気持ちになるとは限らない。今夜の君が、明日も同じ君かどうかはわからない。俺もそうさ」
多香美はひととき目をつむり、ふっと息を吐いて肩を落とした。そして俺に顔を向けた。
「わかったわ。行きましょう」
タクシーの中で多香美の気が変わるかとも思ったが、そんなそぶりは見られなかった。多香美は何も言わず窓の外の流れる景色を眺めていた。暗い表情ではなかった。
週末を待ってため込んでいた疲れは、二人とも同じだったようだ。体を重ねたあとの心地よい疲労感が二人を眠りへと誘った。多香美の寝息を聞きながら、俺も落ちていった。
ベッドの上で目が覚めると、多香美はすでに服を着てソファーに腰掛け、白い靴下を履こうとしていた。窓を見ると、カーテンの隙間から朝の光が漏れている。
「タクシーを呼ぼう」
体を起こしながら俺が声をかけると、多香美は笑顔を見せた。
「結構よ。近くのバス停にもうすぐ始発がくるはずだから、バスで帰るわ。シャワーを浴びたら?さっぱりするわよ」
俺がシャワーを浴びている間に多香美は帰ってしまうのだろうと思ったが、多香美は待っていた。ホテルを出て表の通りまで行くとバス停が見えた。その方向へ歩きかけた時、多香美が思いついたように言った。
「ねえ。朝市に行ってみない?リバーサイドマルシェっていうの。あたしコーヒーが飲みたいわ」
「朝市でコーヒーが飲めるのか?」
「ええ。飲めるわ」
…………………
6話に続く


アッチャー
今日は四件の会議や打ち合わせがあって、昼食も取れず、ぐったりして帰宅。
シャワーを浴びて、いつものように飲み始めた。
そして、つい
「ふぅ」
と息を吐いた。
「何か、あたしに言いたいことある?」
テーブルを挟んだ席でテレビを観ていた妻が聞いてきた。
「いや。別に…。今日はひと息入れる暇がなかったから、ため息が出ちゃった」
「ハグしよう」
そう言って妻が立ち上がり、こちら側まで歩み寄ってきて両腕を広げた。
俺も立ち上がり、妻のハグを受け入れた。
妻が俺の背中をポンポンと、手のひらで軽くたたく。
「最近よくそうするけど、それって、小さい子にするみたいじゃん。おかしいよ」
俺は笑って言った。
「若い頃、あなたがあたしに、こうやってくれたの。とても嬉しかったの。あたし、こんなことされたことがなかったから。
だから今度は、あたしがこうしてあげる」
妻の方が泣き出した。
あと数年で還暦を迎えようとしている二人が…
AC/HSPの妻と生きる|九竜なな也|note
妻の名前は仮名です。毒親サバイバーの妻はアダルトチルドレンでHSP。深いトラウマを抱えて生きています。
note.com
#note #毒親 #アダルトチルドレン


アッチャー
泣きべそをかいている俺に、妻がハグしてくる。
「あなたはいいお父さん。だから子供たちは幸せ」
あれもやった、これもやった…
俺が覚えていないことまで妻は列挙した。
「そんなの当たり前だから」
「いや、当たり前ではないよ」
妻は慰めてくれる。しかし…
俺が聴きたいのはそこじゃない。
子供たちのことはいい。
彼らはいま、存分に元気なのだから、
俺がどんな父親だったかなんて、そんなことはいい。
俺が知りたいのはそこじゃない
俺と結婚して、妻は幸せなのか?
夫としては、俺はどうだったのか?
妻は決してこのことは言わない。
ああ、そうだ
そのことを聞く資格すら、俺にはない。
そんな俺に
妻はハグだけしてきた


アッチャー
という人と、どうやって暮らしていけばいいんだよ

アッチャー

アッチャー
#GRAVITY飲酒部



アッチャー
琉球犬みたいな猫


アッチャー


アッチャー


アッチャー
原動力にもなるので
大切なことだと思います。
責任感には
プレッシャーがついてくるので
プレッシャーを感じるのも当たり前。
でも
不必要なプレッシャーまで
感じてしまっていないか?
そこは整理する必要がありそう。
責任を持つということと
自分を責めるということは別。
自分を責める必要はないですよね。
でも
よく言われる
「自分に優しくする」
「自分をいたわる」って
どうすればいいんだか。
誰かにいたわって欲しいし
誰かから優しくして欲しいです。
だから僕は誰かをいたわりたいし
誰かにに優しくしなければ
と考えます。
#責任感 #プレッシャー #自分に優しく #50代 #アラカン


アッチャー
#犬のいる生活 #散歩 #ビール


アッチャー
妻の実家も解体されました。
僕の実家も
今暮らしている一戸建ても
いずれは解体?
どれも借地なので…
解体費用をどうするか?
そもそも一戸建てを建てる必要があったのか?
#住宅 #一戸建て #住宅ローン #夫婦 #50代 #アラカン #老後 #終活


アッチャー
「わたしたち」
を読みました。
その感想。
#フェミニズム #ジェンダー #読書 #spotify


アッチャー
よろしくお願いします。

アッチャー
いろんな気持ちが出てきます。
今夜は、一杯飲んでから
帰りたいなぁ。
#ひとり飲み #バー #飲み屋 #帰り道 #50代

