私が真剣で挑んだのに、木刀でしか相手をしてくれなかった。それでも、木刀でも人をころせる。愛おしいものだったのも事実で、触れたくもなくなったのも事実。虚しいな。何が虚しいって私以外私じゃないから、相手も同じように苦しんで考えてないってこと。
この常時、理想と現実のギャップによる苦悩を止める方法はある。「自己満足」。ただそれは挑戦より安定をとる姿勢。自らの成長、可能性を狭める選択。楽にはなるだろうけどね。それでも「自己満足」というのはデザイナーが最も嫌悪するワードだとも思っている。デザイナーが作るものは自己表現ではなくて、クリエイティブな問題解決。作品の向こう側に、具体的に届けたい人がいて、その人にどんな体験をして欲しいかが明確だ。(持論: 一方でアートは観覧者側に解釈を委ねる系が多い。)デザイナーとして生きるなら、常に感性と理性の間で内省し、この社会への反骨精神とその解決策を考え続けるしかないと思っている。
自分らしさを発揮出来る環境。満足できる環境???????いや、矛盾。満足できるはずがない。なんだ。ポテンシャルを感じる場所。成長、自分の伸び代、可能性を感じられる場所。(そういえば高校受験も大学受験も、入った後の「余白」を大事にして生きてきたな。)
待ってるのが嫌なんだろうね。じっとしていられない。自分で掴み取りに行きたい。加えてその理想そのものに意義があるわけでもなくて、追い求めることに意義を見出している。だから、ずっと追いかけて追いかけて焦って転んで考えてを繰り返す。私はそういう性分で、絶頂と失墜を繰り返す心の中が忙しい人なんだね。
現実を見ているから実際行動してるし、現実を見ているから今の自分が満足できてないと気づいている。だから行動した。環境は仕方ない。その環境だからできることだってある。身につくことだってある。わかってるんだよもう。何年間も、そう思って頑張ってきたんだよ。もう限界だ。もう自分に都合のいい合理を言い聞かせて我慢したくないんだよ。ああ、腹立たしい。
なんで子供のぐずってる様子とか泣いている声とか聞いて腹が立つのだろう。無性に苛立つというか。理性が感じられないからだろうか。わたし自身もあんな時代があったことはわかっている。それでも自分でもあの時代が嫌いだったし、なにもできない自分が腹立たしかった。だから、無力な者を見て苛立つのだろうか