ChatGPTからめちゃキリスト教について教えてもらっている。私は神からの愛を知っているから、キリスト教徒にならなくてもいいなと思った。ただ、日本で育った私が思い描く愛と、キリスト教圏に住む人の愛は違うんだろう。放蕩息子が借金こさえて病的なまでに痩せて帰ってきても、赤の他人を気遣う程度におにぎりだけ渡して、抱き締めるようなことはしない。隣り合って互いになんとなく微笑みかけることを、私は愛だと思う。
白杖の人が歩いてる場所が側溝の金網で、なんとなく心配で後ろから見ていた。そもそも大きめな商業施設や図書館への通り道なのに、街路樹があっても点字ブロックを果たすものがなかった。施設の私有地だからだろうか。
厄除け守りをだいじだいじポジションにしたら、今日の厄介事が全て他人へ流れていきヒョエェと思った。厄除けというか厄避けか?神さまスゴすぎと思いつつ、横で誰かが厄介事を処分しているのを見るのはなんとも言えない気持ち。厄消し守りにしたかったら、更に神社にお賽銭すべきか。そもそも、厄をぜんぶ自分の力で薙ぎ倒せる力を願えば良いだろうか。これからも信心深く生きていこう。
珍珍亭おもうんですけど、人生の失敗の数は決まってると思うんですね。だから、なんか失敗続きで上手くいかないやーってときは、たまたま決まった失敗が連続して消費されているだけだと思うんです。若い頃に苦労は買ってでもしろってのは、そうやって失敗を消費しようぜってことだと思うんですね。新社会人の皆さま、新しいアルバイトに従事する皆さま、気楽に人生をエンジョイしましょう。
ちょっと前にツイッター(X)で流れてきた、データキャラが99%自身は負けるが、1%でも勝てる確率があるから戦うし主人公を倒すてきなのが流れてきたけど、その1%ってなにを元にしてるんだろう。データキャラなんだから相手の戦闘力と自分の戦闘力は比較してるだろうし、だとして綺麗に99%が出るのは難しい。逆に1%確定で勝利する想定があるならそれはもっと%が高いのでは。または確実に負けるのは分かっているが、捨て駒として使われる自身への最期の鼓舞なのか…。