数学者岡潔が「私は証明も論理もない数学をやってみたい」と言ったそうだが、私にはこの気持ちがわかる。論理によらず、芸術による -しかしそこには見えざる確固たる"論理"がある そういう"語り"なり、何らかの"表現"をしてみたい それは上代日本の大和歌や、古代の預言者の言葉にも見られるものだ 一種の神的啓示だ 創造物だ と思っている
私には、一般に流通しているロゴスが不完全に思われるのは、例えば次のような次第なのだ・「酷い人」と言う時、「酷い限りの人」を言うのであって、「人全体が酷い」のではないのだね? - はい・「飾り立てた銀行家」と言う時、「飾り立てた限りの人」を言うのであって、「銀行家全員が飾り立てている」のではないのだね? - はい・「寄り添って理解する姿勢を持たない攻撃的な批判者」と言う時、「そういう限りの批判者」を言うのであって、「批判者全員がそう」ではないのだね? - はいしかし、少しの取り違えによって、形容部分が形容の対象となる名辞の限定詞として理解されず、形容の対象となる名辞と形容詞が同格のものとして理解されてしまうことをしばしば私は目にするのだ - もっとも、この過失の原因は書き手にある場合もあれば、読み手にある場合もあることだろう。
完全な言論は難しいと私には見える。単に否定するのみなら、その言論の真髄を理解できないだろう。単に肯定するのみでも、その言論の本質まで至らないかもしれない。その言論を肯定的解釈と批判的解釈の両方に付き合わせてみなければならず、私の見立てでは、いずれか一方のみではならぬのだ。しかし、これを如何に上手い加減でもって行うかを言葉にすることは、いかに均衡を崩さずに自転車を前進させるかを言葉にすることと同種の困難が伴う。
政治家にしか分からない現実政治の特殊事情もあることだろう。今度の石破氏の決断も、一般市民の私の感覚では理解しかねる。しかしそもそも、彼にも何か事情があったのではないか?と寄り添って理解しようとする姿勢すら持たない攻撃的批判者に対しては、私は石破氏に対する不信よりも、一層深い不信の念を抱いている。
本当の教はやはり不言のものかもしれない。敢えて言わずとも「そこに在る」と誰もが半無意識のうちに認めているもの。言葉は、そこにたどり着くための筏(いかだ)でしかなく…ゆえに「言者不知,知者不言」「名称と形態に執着してはならない」といったことが伝えられてきた。ところで、私が今こうして言葉にしていることが、既に何かの欠如の現れなのだろう。しかし真に納得するまで、ただひたすら黙すということは私はしないだろう。