心が荒むと、きまって何故か仄暗い沼の近くに棲みたくなる。これは自らを山椒魚に見立て、布団や押入れに籠もる行為に少し似るが、胎内回帰や諦念とは違った精神運動であろうという事以外、私にも良くわからないなにかだ。普段は決して、沼の近くに住もうなどとは思わない。私は雨が嫌いであるし、肌に纏わりつくような湿気のたぐいはもっと嫌いだ。で、あるから仄暗い沼近くなどは立地的に好むところではない。しかし、心が荒みだすと沼を欲する。針葉樹ばかりの、枯れた樹木が目立つ林を背に、きっと沼はある。私は黒い服ばかりを着て暮らすだろう。青白い顔を月夜にだけさらし、蠟燭や関節球体人形なんかを作ってほそぼそと、ただそこに在るようにして暮らすだろう。果ててしまっても、きっとかまわないのだ。食べるものなど気にしない。パンやワインが棚にでもあれば啄む。私は時折、沼を眺める。その沼にはなにも棲んでいない。ただ、淀んだ水があるだけだ。夜、水銀のような水面には月も星も映らない。俗界から離れたこの冥い沼地を人は忌み地として見ているかもしれない。しかし、そんな沼に衰弱した私は惹かれるのだ。私の空想する、およそ人が好んで住むとは思えないその沼は、淀みきっているのに存在自体は純粋だ。寒々しく、鈍重な雲がいつも翳りをもたらしている死すらをも思わせる沼。そんな沼に心が荒むと憧憬の念を抱いてしまう。棲むことは叶わなくとも、想うだけですこし、ささくれた心が鎮静する。たぶんこれは一種のメメント・モリなのだ。自己分析であれば不完全だが、#思考漏出 とするならば安置しても良いように思う。