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k(CV:五ェ門)

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昨夜、京都五山送り火をライブ配信で見た。
叔父が、これまで毎年、我が家の先祖代々の供養のため、広沢池の遍照寺の灯篭流しに、母の名で申し込んでくれており、今年は私の名で申し込むと共に、今年5月に亡くなった母の戒名(法名)の灯篭を、我々3人の子どもたちの名で申し込んでくれたと事前に知らせを受けていた。

叔父は、その時間帯には、テレビで見た送り火や灯篭流しの様子を逐次ラインを通じて実況してくれた。

広沢池の灯篭を思い浮かべ、浄土に戻る母、叔父の姉を思ってほしいと。

京都の大文字など、いつ以来だろう。
こんなふうに叔父から知らされでもしなければ、見ることはなかっただろう。

私が京都に行ったのは、2018年7月11日が最後。
昨年12月18日、母の安否確認のため実家に飛んで帰った突然の帰省から一度こちらに戻った際の報告メールに対する母の返信の中で、「今後転職する際、仮に故郷でなかったとしても、せめて、飛行機ではなく、新幹線で行けるところにしてほしい」と願いが書かれており、中でも「京都に住むならば、いつでも訪ねていく」として、言及されていたのが、まさに今回の京都であった。

そして、母方の先祖の墓がある地、京都は嵯峨野の遍照寺。その繋がりでの灯篭流しへの参加ということであった。

私は数年後、どこで暮らしているだろう。
全く想像がつかない。
どんな人生を送っているのかも。
我が身を取り巻く状況は、きっと色々様変わりしていることと思う。

私は、毎日のように母のことを思う。
しかし、世間の人々が俗に考えるような仏事としての諸々の取組は、正直、ほとんど行っていない。
「(決まりごとの少ない)浄土真宗だから」と言い訳にする部分はある。
どれをどうしろと、答えが決まっているのなら、そのとおりするのもやぶさかではないが、そんなふうに割り切って取り組めるものでもない。これまで多少勉強し、それを実感した。
その結果として今がある。
例えば、仏壇にしろ、それに代わる飾り付けにしろ、故人がそこにいるかのように対峙するための物のように思う。
その舞台を設えない私は、世間の人々の目には、故人を蔑ろにする薄情者に映ることだろう。
生前同様、毎日心の中で母を想う。それと位牌をはじめとする仏具に向き合う行為とは、一体何が違うのか。

#お盆 #供養 #送り火 #灯篭流し #五山送り火
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