例へば、敬語の理論を明かにするのは、それが敬語の正しい使用といふ言語的実践に寄与するためよりも、敬語の中に、日本民族の精神構造を探索し、それによつて国民精神を涵養することが出来ると考へるごときがそれである。(時枝誠記「国語学と国語教育との交渉――言語過程説の立場における――」1952年)実は私、日本語全体がこういう意味で敬語だと思うのです。〔・・・〕何か日本語でひとこと言った場合に、必ずその中には自分と相手とが同時に意識されている。と同時に自分も相手によって同じように意識されている。だから「私」と言った場合に、あくまで特定の「私」が話しかけている相手にとっての相手の「あなた」になっている。〔・・・〕私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです。(森有正『経験と思想』1977年)私」が発言する時、その「私」は「汝」にとっての「汝」であるという建て前から発言している〔・・・〕。日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。(森有正『経験と思想』1977年)