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ももンガ🦔
あるルームで深い話を始めて、もっとって思ってるうちに深い話をしたくなった。結局、自枠を開いて深い話を始めていた。。
以前、愛について私の考えを投稿した時、
私が、愛を語れないと思った結論が正しいと言った方がいた。
その時の私は、
愛とは何かは、高次元で理解することはできても、きっと言語化することはできない。非常に難しい。という結論を出した。
これは、結論を出す以前に言語化しようと考えていたもの。。
もし愛を言葉で表現しうるなら、愛は認知と行動だと。。
例えば。。
ある人が友達にプレゼントを選んでいたとする。その人が自分自身が欲しいものを友達にあげようと考えていても、その友達がきっと喜ぶものだと思ってプレゼントを選んでいても、プレゼントを買ってあげるという行為は一緒で、そこに違いは無い。
でももし、その人にとって受け取り手の反応が大事なら。。それによって、次の選択の行動が変わってしまうならどうだろう。
その人にとって、
受け取り手の反応が想像していたよりも悪かったら、次になにかをあげるときに、自分自身態度が変わってしまうのではないだろうか。ひょっとすると、何もあげないという選択肢まで出てくるかもしれない。
相手の反応が次のようならどう感じるだろうか?
・「ちょー嬉しい、これマジで欲しかったの~🥺」
・「あ、ありがとう。」
おそらく、前者はとても喜んでくれたと、後者はあまり嬉しくなかったのではないかと思うのではないだろうか。
しかし、本当にそうかと言われるとそれは分からない。
前者は、プレゼントをあげた時に、相手が私の喜んでほしそうな顔を察してよころんでくれているだけかもしれないし、後者は、人生で一番嬉しかったのかもしれない。
それを自分の想像していた枠の中にはめて反応に良かったや、悪かったと考えているのは、私自身の中にある色眼鏡で覗いたもの。
相手の本心は、自分自身が認知する範囲でしか認知できないということ。
仮に愛が認知できたとして、たくさんの認知が集まろうとも、主観であることに変わりはなく、どんな断言もできないのであろう。。
もし、そうなのだとしたら、自分が相手の感情の認識を改めてしまえば、どれほど鮮やかな世界になるのだろうかと。。
もしかすると、相手に合わせて認識を変えられることが愛なのかもしれない。


みな
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