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マサヤス龍之介

マサヤス龍之介


本日は阪神 淡路大震災が発生した1月17日。
30年前の1995年平成7年のこの日午前5時46分に発生した。
私はその当時28歳。
埼玉の蕨(わらび)市と言う川口の隣の市に住んでおり、勿論この事象は記憶している。
この頃は関西方面に親類、知人はなく会社も関西には進出していなかったが親会社からは地元の事業所は元より全国の事業所からは支援隊が組織され救護支援に出向いたと聞いた。
その16年後の東日本大震災の時は千葉支社におり、千葉駅前の支社、そこから僅か200mにあるマンションに単身赴任しており被災は免れ無かったものの、個人的なものは大したことは無かったが、その翌年には会社が関西に進出して私も選抜されて現地に赴いた。
当時私は豊中市の伊丹空港の着陸路付近の住宅地に居を構えたが阪神淡路大震災の時の豊中市の被害は甚大だったと後から知り慄然とした覚えがある。
その後大阪の堂島の支社から神戸市役所近くに営業所を出所して神戸市役所前は通勤路、隣に東遊園地と言う一画があり普段はだだっ広い空き地を有する公園だが中央通りに近い一画に大震災で被災した人達の名前、一人一人の名前が彫られた慰霊ゾーンがあり初めてここが大震災時に被災した人々が命からがら逃げてきてたどり着いた所であった事を目の当たりにした。
公園の片隅には大震災によりズレた断層がそのままに保存され、あの大震災の激しさを物語っていたし、慰霊の一念で毎年12月に行われていた神戸ルミナリエは神戸大丸から始まってこの東遊園地がゴールしていた光の回廊も昨年からはなくなり、会場も分散化されたが、光の回廊時代は、会社から近いこともあり関係していた2年間は小生も歩道をゆっくりと歩いた。

関西には地震はない!

こんな神話めいた言葉が瓦解した日でもあった。
あの国道2号線の上を走る阪神高速の横倒しのおぞましい画像は、実際にあそこを車で走った者からすると寒々とする心境だったが、我々は自然界の中では小さい存在なのだと言う事を否が応でも思い知らされる出来事である。
そこには愛などと言う概念はなく、正に愛なき世界である。

GRAVITY

しあわせ運べるように

神戸住吉小学校合唱団

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