金は人を狂わせる。どんなに後に残す人々のことを考えてみても、残る者共がその想いをありがたく受け止めねば、紛争の種にしかならない。すれ違いは当然起こる。人は皆別人なのだから。残る者が故人の残した物を故人に対する債権と捉えれば、故人に対する債務、受働債権のこととて無視できまい。しかし、権利を声高に主張する者は、往々にして、自らの非には無頓着だ。そこへの心咎めはない。彼等は、私を詰る。詫びの言葉が一切ないと。「それは、誰への詫びか」と確認すると、「私たちに対する詫び」と応じる。心情としては理解するし、私への恨みは受け止める。しかし、詫びることはできない。故人が私にそれを求め、私が真実故人に申し訳なかったと思えば、故人に謝る。故人の残した物を巡って詫びるわけにはいかない。一度それをやれば、故人を巡っての不幸合戦をやらねばならなくなる。故人から受けた不幸の計量。故人に与えた不幸の計量。それでも、自分がこれまでどれだけのものを不当に失ってきたか、その罪を償わせねば納得できないというのであれば、その失ったものを本来負担すべきだったと考える者、私に直接請求すればいい。その行為は、債務不履行の損害賠償請求とでも呼べば良いのか。恨みは受け止めるというのは、そういうことも含めてのものだ。「無意味な仮定だが、もしも故人が何一つ残さなかったら、その時はどうしたのか」私の問いかけに、返答はなかった。