今年のうちに振り返っておきたいこと。東京オペラシティで開かれたヴォルフガング・ティルマンスの「Freischwimmer」からちょうど20年。写真を考える上で、自分にとって大きなポイントとなった個展だった。現代写真においてティルマンスほど著名な表現者もいないだろうけど、説明するのがこれほど難しいひともめずらしいのではないか。いやそもそも、現代写真がなんたるかを語るのも自分の手には余るのだが、乱暴にいうなら「まことをうつす」と書いて「写真」、決定的瞬間を写し撮るという考えは過去のものだということ。デジタル技術により誰もが容易に撮影、加工、公開できる時代にあって、誰もが「これはいいものだ」と認める価値を生成し、写真自体を再定義できない限り、写真家が個展を開くことも、市場で作品を高値で流通させることも無理である。写真には写真をそれたらしめる「メタ情報」が必要とされている。ティルマンスの作品に宿る「等価性」というモチーフは特に重要とされる。何気ない日常を写しているようで、その何気なさには、見るものに「何気ないけど、何かがある」を思わせる工夫が隠されている。それは撮る側からの独善的な「世界の押し付け」ではなく、彼自身が見る側と同じ感覚を丁寧に探しているからこそできる表現だ。対峙ではなく等価、「あれとこれ」ではなく「あれもこれも」、つまりモダンではなくポストモダンな姿勢で、既成概念を優しく、しかし大胆に壊していく。2004年の個展名「Freischwimmer(フライシュヴィマー)」とは、ドイツ語で「自由に泳ぐひと、自由に生きるひと」という意味がある。Swimming away into freedom, swimming into independence.あれから20年の時を経てもティルマンスは自由に泳ぎ、たんなる写真家という枠に収まらない活動を続けている。あの時出会って、本当に良かったと思っている。