創作にAIを使い、作品を生成することについて。そもそも、人間の学習とAIの学習の性質が違うことを前提に置かなければならない。人の学習というのは、個人の体験に左右されるのだから、作品を作る上でオリジナリティはここに宿る。例えば、鬼滅の刃を見て人は何を学ぶかと言うと、様々な解釈をして発信をしてしまう。私ならば、兄弟の理想と歪み、死が重い割にはあっさりと人が殺される不条理性だ。だが、他の人たちの中には命の美しさやキャラの魅力、ストーリーのわかりやすさを読み取ったりする。立派な解釈の一つではあるし、私も参考にしなければならないストーリーテリングだとヒシヒシと感じるのだ。でも、私のような解釈をする人間は読者母数の割合を見れば、半数も満たないのだろう。そこから創作者になると増えるだろうが、コマ運びなどや映像の作りを見るのは必ずしもマジョリティではない。これは、私個人の経験から来るものの見方でしかないのだ。つまり、人間の学習というのは、限られた人生の中で何を学び、何を活かすかでしなない。では、AIはどうかというと文字通りにしか言葉を読み取らないし、ネットアクセスがあるから私のような解釈もできる。だが、ここにあるのは膨大なネットにある情報の推論でしかなく、歪みはない。そう、作品というのは作者個人の歪みから発生する爆発力に近い。何かを得られなかったから創作で得ようと、努力するのが作家である。が、AIにはそれがない。が、膨大な情報から繰り広げられる推論にあるのは、誰にでも受け入れられる面白い作品などを作ることだろう。事実、星新一賞でAIが活躍してしまった。これは作家志望の私から見れば由々しき事態だとは思うが、好奇心旺盛モンスターな私からすると、面白くなってきたとしかいえない。AIの学習というのはあまたある膨大な情報を駆使し、人という作家たちを殲滅するだろう。が、作家というのは作家になるために生まれたのではなく、状況的に作家になるしかない人間たちでしかない。雑にまとめると、人間の学習とは癖に近い。逆にAIの学習は常識、平均値を押し上げるものに近いのだろう。いやはや、AIがライバルであり、過去の表現者、現代の巨匠と肩を並べる私というのは、逆境に立たされているのだろうか。先が思いやられる。