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おしげ
コーナン片町店の真ん前、ここは繁華街をはずれて、コーナン以外には住宅しかないところ。もっと言うと大川や元太閤園が道を阻んでて、とにかく人通りは少ない。
飛田新地のど真ん中、それも嘆きの壁の真ん前という、飛田に用事のある人しかほぼ通らないような所でこの機械を見かけた時にも思ったらのだけど、地図にダーツ投げて設置場所決めてないこの会社?
飛田とかコーナンに出入りする人に必要なのは水かお茶かビールで、まず100%オレンジジュースではないと思うのだけど。
うまいけどね。


たまかしわ〜
平和な嘆きの壁
宗派異なる信徒同士で殴り合い、たまに死者が出る聖墳墓教会
イスラエル当局に入場規制されるアル・アクサモスク

𝒰

太郎さん
詳細は前記の本にゆずるとして、以上のことを石原がどこまで知っていたかは不明であるが、何ヶ国語にも堪能だった石原は『贋作ドン・キホーテ』の事実を知っていたのは確かだと思ってよいだろう。
石原の『フェルナンデス』にもどる。
「寺院の壁の しずかな/くぼみをそう名づけた」。
この詩の疑問に思われる点を検閲(けみ)してみたい。「寺院の壁の しずかな/くぼみをそう名づけた」この「寺院の壁」とは『嘆きの壁』のことだろうか。石原がそこへ行った記録はないが、とうぜん『嘆きの壁』の「イメエジ」が石原の脳裏にあったはずである。その「しずかな/くぼみを」「フェルナンデス」と親しみをこめて「そう名づけた」のである。
「ひとりの男が壁にもたれ/あたたかなくぼみを/のこして去った」。石原にとっては『贋作』である歴史の経験も親しいものになっていたのではあるまいか。繰り返しになるが、この「男」は石原が洗礼を受けたというカール・バルトに直接師事したエゴン・ヘッセル氏、また石原自身のことでもある。推量はしょせん推量にしかすぎない。しかし一体どの歴史が正しいのか、石原には石原の経験した歴史があるのである。それを個人史と言うならば、われわれ個々にとって生(き)の個人史のみが確かなものである。
「〈フェルナンデス〉/しかられたこどもが/目を伏せて立つほどの/しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」
「〈フェルナンデス〉」は「しかられたこども」でもある。「しかられたこどもが/目を伏せて立つほどの」。「しかられたこども」が本当に反省を促されたとき、われわれは「目を伏せて立つ」のではないか。「目を伏せて立つほどの/しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」そうしてうな垂れて、「壁」に「もたれ」る。そこに「しずかなくぼみ」ができる。まず石原自身が自省して「壁にもたれ」、『ドン・キホーテ』、『贋作ドン・キホーテ』にならざるを得なかった、過去であり未来であり得る人びとに「そう呼」びかけているのだ。当然「しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」「〈フェルナンデス〉」と。

Stupid
「嘆きの壁の前で老女の泣き声が日没まで聞こえる。たった一人で、一日中泣いている。そして、どこの誰かが老人を連れて帰る。誰も相手にしない。でも誰かは、一日中そこにいるだろう。心臓🫀が破裂💥するぐらい、嘆きの壁の前にへたれ込んで泣く。」私の一番好きな❤️曲のひとつ。
彼が、最も才気づいていた頃のBearvillRecordsのお話。解釈の仕様によっては、抽象的なLoveSong ともとれる。





Wailing Wall - 2015 Remaster

老眼フリーマン

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りー

ぶぶチャチャ
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