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k(CV:五ェ門)
我々の不動産の相続に際しても、無関係の話ではない。
弟妹いずれも、そこに関する話は当初から口にしており、私の意向に対して憶測を働かせるにあたっても、常に損得という目線で語ろうとするからだ。
「誰某がずるい」と思うから反対するのだろう等。
仕方ないのかもしれない。
むしろ、それが当然であって、母の願い云々を前面に押し出そうとする私は、偽善も偽善、一番たちが悪い、吐き気を催すような悪人と思っているのかもしれない。
彼らを前に母のことを口にするのは、もうやめようかな。
彼らは彼らで、彼らなりの母に対する思いと、母に対する愛があり、彼ら自身こそが母に尽くしてきたという自負があるから、「何もしなかった(=母を死に追いやった)」と彼らが認める私が母を偉そうに語ることに、白々しさと憎しみを感じるわけだろう。口にすること全て、ことごとく心に響かないのも、無理もない。
母が亡くなってすぐに、母の家で、母の蔵書を元にしてブックカフェをできないかと考えたのは、母を偲んでくれる人々が集まる場所を作れたらいいなと考えたからだ。
「なぜあの場所でなければならないのか」
弟は問うた。
確たる理由はない。
ただ、そこが母が暮らした場所だった。
母を知る人々が集う場所だったから。
それだけだ。
しかし、いずれにしろ、それを生業としてやるのであれば、私は自分の人生をかけ、ビジネスとして成り立たせねばならない。
私には、その自信、勝算はなかった。
だから、その意見はもう口にしていない。
母の蔵書の処分方針について、叔父は、
「ことここにいたっては、もはや問題ではない」
と言った。
同感だ。
我々兄妹がバラバラなのに、本がどうのというような話ではなかろう。
母が亡くなってすぐに、叔父は、母の生前の仕事について、我々にメールを送ってくれた。
我々が母に誇りを持てるようにと期待して。
すぐに叔父にお礼を返した。
そのような私の姿は、彼らには鼻白むものだったようだ。
「外面だけの良いナルシスト」
そのように私を呼ぶようになった。
残すかどうか迷ったら捨てる。
遺産整理の鉄則とされる。
だから、日記にしろ、本にしろ、捨てるという判断自体、即座に否定されるものではない。
生き方が違うだけなのだろう。
モノはモノでしかない。
それも正しい。

k(CV:五ェ門)
物の処分方針は、その人の価値観だから、好きになされば良い。
以前書きかけたことがあった。
本当に置いておかねばならぬものなど、そうそうあるものではない。
一度腹を括れば、ことごとく捨て去ることができるに違いないと。
そもそも物を持たないのか、
一度は持った上ですぐに処分していくのか
でも、意味合いは変わってくる。
「記録よりも記憶」
誰かがそのようにコメントしていた。
それも理解できる。
私はそもそもそういった考えの持ち主だった。
「自分が残さなくても、別の誰かが持っている」
それも理解できる。捨てても何度でも買い直せるものならそれでもよかろう。
残っているのか、残しているのか、両方か。
自分など、果てしない歴史の中の芥でしかないと端から達観できていれば、ことごとく捨てれば良い。
何も継承せずとも良い。
人にはそれぞれ役割がある。
使命感を持って生まれた人も、世の中にはいるだろうから。
母は、小説を書きたいと言っていた。
自分の人生をまとめておきたいと。
結局、やり遂げることなく、人生を終えた。
母の世話をしたのは自分であると、互いにその功を主張する弟妹は、いずれも母の残した記録には関心を示さない。
母の生前も咎めていた。
「汚くて邪魔だから早く捨てて」
唯一絶対の正解などはない。
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