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マサヤス龍之介

マサヤス龍之介

昭和流行歌総覧  ♯ 27

#GRAVITY昭和部


灰田勝彦. 25
 昭和15年1940年の初夏、東京の西郊、稲田登戸にあるハワイ日系学校入学のために、来日したハワイ三世のフロレンス・古上君子は、親戚に連れられて東京見物をしていた。その時評判をとっていた灰田兄弟のショウを、たまたま日比谷公会堂へ観劇にきた。君子は灰田兄弟は同じハワイ生まれの二世である共感以上の感情は特に湧かなかった。しかし楽屋で、紹介を受けた勝彦は彼の内奥にキラリと光が一閃して、29歳の青年の心は激しく燃え上がってしまった。彼はスター歌手の虚飾を捨てて、ただの男として君子に積極的に近づいていった。が、時期が悪かった。日本の対米政策は悪化の一途を辿る。国策路線が強力に前面に押し出されるほどに、ハワイ留学生たちの立場も微妙となって、君子は昭和16年2月に帰布してしまう。悶々とした勝彦と君子らの想いを振り捨てるように、君子の乗った船は横浜港から遠ざかって行った。それに追い討ちを掛けたのが、12月8日の日米開戦である。
 しかし、愛に国境はない。
 周囲の情況が不利になればなるほど、日本とハワイが遠くなるほど、かえって勝彦は情熱的になる。そうされる君子も勝彦の想いを真摯に受け止めようと思うようになる。
「君なしでは生きていけない。再び逢えるその日を深く信じて、君を待つ」
 勝彦は赤十字を通じて愛に満ちたメッセージを君子に英語で送り続けた。それでなくてもハワイ生まれの二世歌手と云うだけで軍部からは警戒されていたのだが、敵国人に英語の手紙を送る行為も、内務省、軍部から要警戒人物として扱われたのだった。本投稿では灰田のデビューからのレコードリストを大雑把ではあるが、振り返ってきたが戦時歌謡や軍歌を灰田は、相当数リリースして来てはいた。他の歌手たちが一体どの程度の割合かは調べてはいないが、それなりに戦時歌謡はこなしてきている。それだけの実績を積んでいても尚、軍部から睨まれる…と云うのは当時の軍部がいかに偏見に満ちていたか?の証左であろう。軍部のみならず内務省も然りだ。国家のこうした偏見や誤解で苦しんだ日系二世たちがどれ程いたことだろうか。無論、同時代のアメリカも在日系人への不当な弾圧を行ったことは事実で、その辺の事情は山崎豊子の『二つの祖国』に詳しい。フィクションだが書いてあることは限りなく事実に近い。
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わが夢わが歌

灰田勝彦

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ヨナ❤️‍🩹

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