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「俺は学歴無くてもお金稼げてるし学歴なんていらない!」みたいな類いの学歴不要論を唱える人、プロ野球選手が「俺は野球できるからこの世にサッカーは要らない!」って言ってるのと同じぐらい暴論で好き
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あき

あき

【恋は、遠い日の花火ではない】

昔、目にしたCMのコピー
恋愛感情不要論の私ですがこのコピーは好きです。たまに脳裏によぎる時があります。

飲み屋で
初めて会うのにお互い目だけで会話する瞬間とか、

SNSだと
あ〜、あなたもそうだったのかと知った時とか、
自分のぼんやりとした気持ちを相手が言葉にしてくれる瞬間とか、

相手と一体化する瞬間

人の知性と経験をぶっとばす恋愛感情はほぼ錯覚です。ゆえに長続きしません。

しかし、上記のような瞬間は相手へのいたわりとやさしいまなざしがお互いにないと生じません。
その積み重ねは長い関係を維持しやすい。
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ジーン

ジーン

仕事で使ってる電卓はコレなんだけど
学生の時からこのボタン配置
この電卓も10年以上使っているので、そろそろ予備機が欲しいのだが
電卓不要論があるご時世なので理想の電卓が少ない

まず、キー配置が最重要
左下のキーがクリア(C)
右下がイコール(=)でその隣がプラス(+)じゃないと駄目

画面見ないで電卓を打つのため
左手の小指でクリアを押してから再計算するのが完全にクセになってる

そのため左下が「0」とか「00」だと恐ろしい計算結果になるし
右下が「+」でも意味不明になる

あとはキーのタッチ感とキーピッチがコレと同じなら最高なんだけど
最早、そこまでの贅沢は言えない
中古であれば同じものが売ってるのだけど、中古だといつ壊れてもおかしくないので買うのをためらう
電卓探しって難しい


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ワダツミ

ワダツミ

#ひとりごとのようなもの

#挨拶不要論 なんてモノが世間を騒がせているそうな。ぶっちゃけ『そんなにコミュ障増えてるんだ~』ってのが正直な感想w😅
1番簡単なコミュニケーションが挨拶。それでも苦手とか面倒臭いというなら多少は理解もしますが、多くの人達が慣れ親しんで必要と思っている習慣を一方的に『不要』とか言い出すのは本格的にコミュ障を拗らせてるなと。挨拶どころか、そういう人間とは接点を持ちたくないと思ってしまいますね🆖
根本的に勘違いしてはいけないのは、挨拶は『する』『させる』とかではなく『交わす』ものなのです。挨拶不要論も違和感ですが、相手から先手で挨拶がないからと『挨拶もできないのか?』と憤慨する偉そうな人も違和感。挨拶はまず自分から✋
朝は『おはようございます』昼は『こんにちは』夜は『こんばんは』で、もし先に言われたら同じ様に返すだけ。こんなに簡単なコミュニケーション他にありませんよね?👍

ちなみに画像は『おはようございます』をイメージして、画像フォルダを『朝日』で検索した結果の1枚www☀️
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さり

さり

古典不要論に対する反論

学んだ所で生産性の低い(役に立たない)科目の筆頭とされており、これを学ぶくらいなら金融教育や情報教育など、現代人が生きていく上で役に立つ知識は他にたくさんある、というのがよくある反論。
それに反論するにはまず教育基本法を押さえておく必要がある。

社会人になると生きる上で経済活動に繋がる知識に対して価値を感じる。
言ってみれば「私財」を築くことに重きを置く。
しかし、教育基本法の第一条では教育の目的として「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とある。

国が定める法律では、教育の目的は「私財を築く」ための知識を身に付けることではない。
しかし、条文には「国家及び社会の形成者として(中略)心身ともに健康な国民の育成」とあるが、何をするにしても健康が大前提。そして、日本人の心の健康というものに古典は寄与していると思われる。

例えば、「花を見て綺麗に感じる」「虫の声に風情を感じる」「寺社を訪れてわびさびを感じる」などは万人が生まれながらに持っている感覚なのだろうか。
日本に来た外国人が「日本に来てから耳鳴りがする」と言って病院に行ったらただの虫の鳴き声だったみたいな話を聞いたことがある。
外国人にはノイズでしかないものを日本人は虫の「声」と表現し、風情まで感じたりする。

しかしながら、「虫の声」は古典で学習したから風情を感じるかと言えばそういう訳でもない。記憶にはないが小さい頃からそういうものだと思っていたし、親から子へ、子から孫へと脈々と受け継がれてきた言わば「文化」と言うものであろう。

こういった文化のルーツが詰まったものが古典であり、これらに文章として直接触れられるものが古典なのではないかなと思う。
そして、国風文化や化政文化といった知識として習う日本史とはまた違う文化。
こう考えれば、学校で古典を学んできたことも無駄ではなかったかなと思う。

言うなれば、学校で習う古典が単語や文法などに偏重してしまっているがためにそう思えなくなっているのも事実。
学校で習っても話せるようになれない英語と同じかもしれませんね。


以上は古典不要論に対する反論として納得出来たものに、私が思ったことをアレンジしたものです。
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