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明日は何の日
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#音楽をソッと置いておく人

TOTO(トト)の日(10月10日 記念日)
東京都千代田区六番町に本社を置き、音楽・映像ソフトの企画、制作、プロモーションを行うレコード会社の株式会社ソニー・ミュージックレーベルズが制定。
日付は「ト(10)ト(10)」(TOTO)と読む語呂合わせから。1978年(昭和53年)のデビュー以来、数多くの名曲を生み出してきたアメリカの世界的ロックバンド「TOTO」(トト)。2018年(平成30年)のデビュー40周年を記念し、その音楽的魅力をさらに多くの人に感じてもらうことが目的。記念日は2018年に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。

TOTO(トト)は、1976年(昭和51年)にアメリカ・ロサンゼルスでスタジオミュージシャンをしていたデヴィッド・ペイチとジェフ・ポーカロを中心に発足した。1970年代後半のアメリカン・プログレ・ハードとAORサウンドの両方を持つグループである。

デビュー作から、全米チャート上位にランクインするなどアリーナ・ロック・バンドとして、ヒットを連発した。特に1982年(昭和57年)に発売された4枚目のオリジナル・アルバム『TOTO IV ~聖なる剣~』が1000万枚以上のセールスを記録し、「グラミー賞」で6冠に輝いた。また、日本ではオリコン洋楽アルバムチャートで5週連続1位を獲得した。

その後、次々と作品を発表するとともに、日本武道館などで数多くの来日公演を行ってきた。しかし、2008年(平成20年)のボズ・スキャッグスとの来日公演を最後に活動を無期限に休止すると宣言し、正式に解散を発表した。

しかし、筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患ったマイク・ポーカロの治療をサポートするため、2010年(平成22年)に突如バンドの再結成を宣言した。そして、日本を含む世界各地でツアーを行い、2015年(平成27年)には9年ぶりのオリジナル・アルバムを発売するなど活動を再開し、デビュー40周年を迎えた。
「雑学ネタ帳」より
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Rosanna - Single Version

TOTO

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明日は何の日
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ビリー・ジョエル「ピアノ・マン」の日(11月2日 記念日)
東京都千代田区六番町に本社を置く、音楽・映像ソフトの企画、制作、宣伝を行なうレコード会社の株式会社ソニー・ミュージックレーベルズが制定。
「素顔のままで」「ストレンジャー」「オネスティ」「アップタウン・ガール」など数々の大ヒット曲を持ち、アメリカを代表するシンガーソングライターでありピアニストのビリー・ジョエル(Billy Joel、1949~)。
2023年(令和5年)は彼の代表曲のひとつ「ピアノ・マン」(Piano Man)がリリースされて50年の記念すべき年であり、2024年(令和6年)には16年ぶりの来日公演が東京ドームで行われることから、記念日を通じてビリー・ジョエル=ピアノ・マンというアーティストをより幅広い世代の音楽ファンに知ってもらうのが目的。
日付は「ピアノ・マン」がリリースされた1973年(昭和48年)11月2日にちなんで(※アルバム・リリースは同年11月9日)。また、「いい(11)ふ(2)」(いい譜)と読む語呂合わせでもある。
「ピアノ・マン」はビリーによってリリースされた最初のシングルであり、代表曲でもある。記念日は2023年(令和5年)10月10日に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
ビリー・ジョエルは、現代に暮らす人々のありふれた苦悩や葛藤、生きる喜びを鋭い観察眼で捉えた歌詞と、親しみやすい極上のメロディーが特徴的で、世界的ヒットを1970年代後半から1990年代前半にかけて連発し、世界で、そして日本で最も愛され続けているソングライター/メロディメイカーである。
全世界でのCD/レコード総売上数は1億6千万枚以上で、これまでに全米No.1ヒット3曲を含む33曲の全米TOP40ヒットを放っており、アルバム・オブ・ジ・イヤー、ソング・オブ・ジ・イヤーとレコード・オブ・ジ・イヤーを含む6つのグラミー賞を獲得している。また、全米では10作品がマルチ・プラチナ・アルバムに認定、レコード総売上第6位(ソロ・アーティストとしては第3位のアーティスト)となっている。
「雑学ネタ帳」より
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ピアノ・マン

Billy Joel

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マライア・キャリー「恋人たちのクリスマス」の日(12月24日 記念日)
東京都千代田区六番町に本社を置き、日本のレコード会社で株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメントの完全子会社の株式会社ソニー・ミュージックレーベルズが制定。
「ヒーロー」「ファンタジー」「ウィ・ビロング・トゥゲザー」など数々の大ヒット曲を持ち、世界的人気を誇るアーティストのマライア・キャリー(Mariah Carey、1969年~)。彼女の代表曲「恋人たちのクリスマス」が2024年(令和6年)でリリース30周年となることを記念したもの。
日付は、曲名の「恋人たちのクリスマス」から、恋人たちがともに過ごす「クリスマス・イブ」を記念日に。記念日は2024年11月1日に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
マライア・キャリーは、アメリカ合衆国のシンガーソングライター・音楽プロデューサー・女優・慈善活動家。35年以上の活動で全米1位の史上最多記録を、ソロアーティスト(19曲)、女性作曲家(18曲)、女性音楽プロデューサー(15曲)として持ち、英語圏では「Songbird Supreme(究極の歌姫)」と称され、伝説のヒットメーカーとして12個のギネス記録を保持している。
シングル曲「恋人たちのクリスマス」(All I Want for Christmas Is You)は日本では1994年(平成6年)10月29日にリリースされた。原題は「クリスマスに欲しいのはあなただけ」という意味。曲はアップテンポのラブソングで、ベル・チャイムやバック・コーラス、シンセサイザーなどが使われている。
最初のリリースから何年も経っているが、曲には絶賛が寄せられ続けており、『ザ・ニューヨーカー』(The New Yorker)誌では、「ホリデーソングの名曲集に加える価値のある数少ない現代曲の一つ」(one of the few worthy modern additions to the holiday canon)と評された。
曲はクリスマスの定番曲とされており、毎年のクリスマスシーズンに人気が再燃する。マライア・キャリーが作詞・作曲をした代表曲の一つであり、30年にわたり世界中で1位を獲得している。その音源は米国議会図書館が管理する全米録音資料登録簿に永久保存されている。
「雑学ネタ帳」
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All I Want for Christmas Is You

Mariah Carey

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マサヤス龍之介

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昭和流行歌総覧  ♯ 34

#GRAVITY昭和部


灰田勝彦.29
 「これは私の戦闘服よ。ボサボサ髪の素顔で舞台に立てますか?兵隊さんが鉄カブトを被るように、歌手のステージでの化粧は贅沢などではないわ」とやり返した。
 昭和17年6月5日 日本軍はミッドウェー海戦で敗れてから戦局が悪化していく。それに比例して国内に於ける文化統制は苛烈な厳しさを増していく。今から思えば滑稽なること甚だしい。外国語の規制は強化され、レコードも音盤とし、レコード会社名もキングレコードは富士音盤へ、ポリドールは大東亜音盤、コロムビアはニッチク(日本蓄音器の略)、ビクターは日本音響とそれぞれ改称。 
 更に楽器の呼称もトロンボーンが抜き差し曲がり金長喇叭、サックスが金属製品曲がり尺八、コントラバスに至っては妖怪的三弦。ギャグを地でいく措置が日常化していった。
 昭和18年1月13日 ジャズレコードの販売禁止。この年になると撤退は転進と名を変え、ガダルカナル島は転進と呼ばされた。4月には連合艦隊司令長官 山本五十六元帥戦死。日本が責めてこの段階で和平を取ってくれたら…と想像してしまう。山本元帥は軍人からも、そして国民からも慕われ崇められた人格者だった。その精神的支柱を失って日本は迷走してゆく。6月 東京周辺のゴルフ場は国により畑となった。9月 上野動物園の大型動物の殺処分が実施。この夏に投稿した「かわいそうなぞう」の話はこの頃のことだ。そして12月1日 雨の神宮外苑で第一回目の学徒出陣式が挙行された。昭和19年に入ると3月4日に宝塚歌劇団が休演に追い込まれる。11月24日 初めてB29が80機東京に飛来し空襲が開始された。
 日本は防戦一方でこの戦争に勝つ見込みなど全く見出せない。それは一般国民の統一感情でもあった。
 昭和18年3月に嘗てのヒット曲♫燦めく星座 に今更ながら陸軍省からクレームが付いた。歌い出しの…男純情の 愛の星の色 と云う部分の星は陸軍の象徴にして神聖なる星🌟に対して軽々しく使用するとは何たることか、国家に命を捧げるべき日本の赤子がたかが女ひとりに…思い込んだら命懸け(1番の歌詞) とは怪しからん。と云う誠に無理無体、勝手屁理屈な理由で改訂を指示してきた。だが作詞の佐伯孝夫は「発売禁止じゃなくて良かった。」と嬉々として改訂詞を書いた。

つづく…。
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憧れの南

灰田勝彦,灰田晴彦と南の楽団

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マサヤス龍之介

マサヤス龍之介

岸辺🏝のコラム # 10

#神保町


☆『我が青春の神保町 .4』

世界一の古書店街。古書店街…なんと魅惑に富んだ響きであろう。。20才の私は、兄から教わった池袋の古レコード店を皮切りにあっと云う間に神保町に行き着いてしまった。
 西武沿線に住んでいる者からしたら神田神保町は遠い街だ。池袋に出るなら地下鉄で御茶ノ水へ出て歩くか、後楽園駅から1丁2丁と歩くか、所沢からなら新宿へ出て都営新宿線で神保町へ出る…然しこれも、西武新宿駅から徒歩で都営線の新宿駅まで歩いたり、高田馬場で国電(当時はそう呼ばれていたJR山手線)に乗り継いで新宿駅経由で都営線に乗り換えると云う実に面倒この上ない旅路であった(今でもさして変わりはない)。アクセスが非常に悪い。
 それでも、夥しく通ったのはやはりここにしかない商品が行く度に違う品揃えであることが魅力だったのに違いなかったからだ。
 神保町で最初に覚えた店は神田古書センター9Fに現在でも鎮座する富士レコード社である。
 ハマり掛けていた昭和流行歌のオリジナル原盤の在庫量がエグかった。現在でもそれは変わらず、都内屈指の量と質を誇る。しかも、その整理の仕方も整然としていてレコード会社別、歌手別に目を見張るものがある。
 従って値段もそれなりに割高であった。
 店内に陳列されている本当の蓄音機も魅力的で、私はかなり早い段階でここで、Columbia製の昭和10年代モデルの箱型ポータブルを買ったものだった。ただし価値的には大したことはない。
 このビルは各階ごとに専門書の古書店がテナントで配されていたが、通う毎に気になっていた2Fのカレー店ボンディにもいつしか行くようになっていた。スープカレーが未だ今ほど流布していない時分であったが、実に美味でありレコード社にいくエレベーターに乗っていると仄かに漂ってくるボンディのカレー香にスッカリ心奪われて、帰りには素通り出来なかったものだ。そのボンディも今や、行列店となり、気楽にさっと入れた昔日のお気楽さはなく、今は1Fの裏口へ周り行列に並ばなければ入れなくなってしまった。実に疎ましいことこの上ない。今や神保町はカレー激戦区の様相である。神保町のカレーと云えばまんてんだろう。以前にも書いた旧TONYレコード、現在のてもみんの水道橋寄り手前の路地を入ると程なく左手にある。
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マサヤス龍之介

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昭和流行歌総覧  ♯ 7

灰田勝彦5️⃣
 昭和10年12月15日、兄晴彦は鎌倉の東大教授の娘綾子と華燭の典を挙げた。
 きっかけはスチールギターの個人教授を晴彦が綾子にしたことだったようだが、大学教授の父は当初は反対をしたが、やがて晴彦の熱意にほだされたのが結婚への弾みとなった由。
 さて、我らが弟勝彦は立教大学在学中の三年生の時、昭和9年12月リリースのポリドール盤の流行歌♫浅草ブルース と言うサトウハチロー詞、初代コロムビアレコーディングオーケストラマスターの紙恭輔が曲編のボーカルデビューを飾っている服部良一の日本初のブルースに先立つこと実に二年以上も上回る速さで和製ブルースを灰田が唄っていた事になるが、流行歌史にこのレコードが残されていないことからきっとブルースとは名ばかりで、ヨナ抜き単音階の流行歌なのであろう、と予想される。
 勝彦はこの立教大学在学中にポリドールレーベルに昭和9年から10年までの約1年間に9枚10曲の曲をリリース、同時進行的に兵庫西宮のレコード会社タイヘイから1曲、日東紅茶の子会社ニットーから3枚5曲、やはり関西系のテイチクレコードからは6枚12曲がそれぞれリリースされている。
合計18枚28曲が世に出ている。
 最後のテイチクレコードは明らかに立教大学の先輩ディックミネの手引きであろう。
 その学生時代の所産である時代の灰田の唄を記録したレコードは残念ながら後年のレコード復刻リストからは悉く漏れてしまってる様で、貴重な所産であるがこの時代のレコードは例えば市中に出回っていないのか?と言うとそうでもないし、灰田のレコード解説として名高いみなみ一郎氏などは明らかにこの時代のレコード評をレコードコレクターズ誌に書いておられるので、あるのはあるのであろう。
 私も僅かに2枚だが、この時代の盤を持ち併せている。時系列順だと昭和9年12月リリースのテイチク盤♫コロラドの月 と♫リリウエ でバック演奏を兄晴彦率いるモアナグリークラブである。レコード盤のレーベルには勝彦の名は無くモアナグリークラブ名義である。
 SP盤は初期テイチクレコードでこの期のテイチク盤は材質が非常に悪く音も悪く聴き取り辛い。こちらも音源を後日お聴き頂きたい。

つづく…。


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アロハ・ホノルル

灰田勝彦,灰田晴彦とモアナ・グリー・クラブ

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マサヤス龍之介

マサヤス龍之介

昭和流行歌総覧  ♯ 39

#GRAVITY昭和部
 

灰田勝彦 .34
 高木がフランスを目指したのには、東京音楽学校の尊い先輩、山田耕筰が先んじて仏国入りしていたからである。1930年代前半、高木は自国と違い自由な気風で芸術家を志す者にはお誂えな仏国の空気が堪らなく風雅の極みに映った。或る日、高木はその頃流行っていたダミアが歌う♫暗い日曜日 を聴いて衝撃を受ける。この物憂げな曲に魂を抜かれた。その感動を告げたくてダミアとの知己を得る。以来、高木はクラシックのみならず流行歌にも魂を揺さぶるものがあることを知る。
 しかし、高木には日本の流行歌はどうしても馴染むことが出来なかった。あの独特のヨナ抜き短音階が好きになれなかったのである。やがて戦争が始まり昭和17年に入り高木の下にも軍歌の依頼が来る。高木は回想する。「僕はね、あの頃のラシドレミファ(短調)で始まる威勢のいい軍歌が大嫌いだった。だからどうせ書くなら思い切り明るい調で書いてやれ!ってね」。当時のビクターがオリジナルの♫空の神兵 に飽き足らず、灰田に吹き込ませた気持ちはよく判る。この明るい調子の軍歌がこれ以上似合う歌手は灰田以外に居なかったからだ。昨日のSpotifyのアップを改めて聴いて欲しい。
 話は前年、昭和18年に遡るが、東京放送局(現在のNHK)が主催していた国民歌謡用にビクターの佐伯孝夫の作詞、コロムビアの古関裕而に作編曲を依頼した。それが♫ラバウル海軍航空隊 だった。 
 これは灰田の代表的な軍歌として戦後も長く歌い継がれた。放送局の思惑はレコード会社の厳しい専属制度とは関係無く事は運んでいったのだが、流石は和製スーザの異名をとる古関だけあって実に馴染み易い明るい軍歌であり、放っておくには勿体ないと禁を破ってビクターが翌年19年2月にリリースしてしまう。灰田もこの楽曲を気に入って老齢になってから出演したラジオ番組でこう回想する。「佐伯さんの詞が軍歌の中に、…胸に刺した 基地の花も にっこり笑う ラバウル航空隊 と云う一節があり、ホッとする実に素晴らしい歌でした」と云うエピソードを語っていた。
 軍歌を紹介しながらこうしたことを書いたのは、矢張り何より平和が一番であるからである。日本人は戦争が日常的にあることがそんなにいいのだろうか?防衛力の増強はそれへの第一歩である。

つづく…。


 
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ラバウル海軍航空隊

灰田勝彦

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マサヤス龍之介

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昭和流行歌総覧  ♯ 40

灰田勝彦 .35
 昭和19年8月の新譜は♫海の勇者(つわもの)
 これは前年の6月9日に既に録音されていたものだ。戦時中のこと、軍関係の横槍かはたまた何かの戦勝事のタイミングを測っていたのかは不明だ。次のシングルは♫斬って捨つべし 何やら血生臭いタイトルだが、佐伯孝夫の詞だからそんなに生々しい歌詞でないことは察しがつく。それにしても戦争末期になればなるほど日本の国力は疲弊していった。よって発売される軍歌や流行歌のタイトルや歌詞なども露骨になってゆく。同時期の流行歌のタイトルだけ拾っても悲壮感や是が非でも勝つ、と云った国民の士気を下げぬような強引なやる気感を押し付けてきて、かえって引く。日本に居た国民らの間でも大本営が嘘の情報を実際には流していたことは、隠れて海外受信網や短波を通じて知っていた人間から横に漏れて行き、大方はバレていた。
 昭和19年の灰田勝彦の最終レコードはA面が我らのテナー藤原義江の♫特幹の歌 そのB面♫兄は征く 。征くは、出征の征く。つまりお兄さんが兵隊へ征く、と云う意味だ。録音は前年の8月24日である。私の推測だが、この時期の流行歌はデモクラシー時期に比すれば激減している。
 リリースしようにも内務省の検閲が控えてる。
 その検閲もかなり厳しさが増してきていたし、第一、内務省と言えどもかなりな人数が兵隊に取られて最早、役所の機能不全も極まってきていたに違いない。きっと録音から試聴盤を製作して内務省提出→検閲→面接→審査→発売可否の結果通知を経て漸く発売に漕ぎつける。そんなこんなで数ヶ月から半年は掛かっていたものと思われる。
 これは各レコード会社にも言えることだ。
 こうしていよいよ昭和20年に入るが、ビクターはこの年一枚もレコードをリリースしていない。
 従って、灰田勝彦のレコードも一枚も発売されていない。
 次回からはいよいよ戦後に至る。
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加藤部隊歌(加藤隼戦闘隊の歌)

灰田勝彦

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マサヤス龍之介

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昭和流行歌総覧  ♯ 30


☆名編曲家・篠原正雄1️⃣

昭和初期…なんとも怪しく華やかで又、これ以上ない甘哀しい響きの時代語はない。
明治、大正と時代は進み一方では軍隊が権力を持ちつつあった危ない時代の入口ともなってしまったのだが、他方アメリカやヨーロッパから過分な文化をストレートに吸収して日本独自の文化を形成しつつあった。
大正天皇があんなに若くして崩御されなければ…つまり大正年間がもっと長く続いていれば、昭和 という時代語句もなく昭和の戦後と呼ばれた時代くらいまでは大正天皇は生きられたかもしれない。そして昭和天皇と呼ばれた裕仁親王は昭和30年前後くらいに即位されてもっと別の名の裕仁天皇の時代があと30年程続いて現代の所謂平成時代に繋がったので有ろうか?
大正天皇が存続しておられても大東亜戦争という名の戦争は起こったで有ろうか?その前の三国同盟もあっただろうか?
歴史にもしは無いのだが、もしあの時あーしていれば、こーしていれば、という想像は歴史家の磯田道史さん辺りに任せて、その昭和初期にマイナーレコード会社のニットーレコードと言うレーベルを巡るお話をしよう。

そのレコード会社に専属で編曲、作曲家として所属していた篠原正雄と言うとても優秀な音楽家がいた。
明治27年生まれと言うからまだ世界が19世紀だった時代に生を受けた御仁だ。
明治時代が終わりを迎える頃に東京音楽学校を卒業するが、彼はクラシックの素養を身につけ最初ジョバンニローシーが主催した赤坂ローヤル館で歌劇の指揮者として働く。
ローシーは我が国の歌劇場としては恐らく初となる帝国劇場から招かれてイタリアから夫人と共に来日して帝劇の礎を築くことになる指揮者だったが、3年間の契約満了を機に一念発起して赤坂に自前の劇場を旗揚げした。
それが「ローヤル館」だった訳だが、帝劇の山本久三郎専務は、"無謀過ぎる"と猛反対したがローシーは頭角を現していた田谷力三、高井ルビー徳子など優秀な人材を集めたが篠原もローシーの下で指揮編曲に熱中した。

つづく…。



※ フレームは指揮中の篠原正雄、ローシー夫妻、浅草オペラ出演中の田谷力三、高井ルビーの順。
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Ich Bin Ja So Vergnugt

Rikizo Taya

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