シャワーをしながらサステナブルな消費に対する疑念を言語化していて、主に2点①サステナブルな消費の真偽②サステナブルという別の消費の方法の正義性、が気に食わないのだと思った。①について、前提としてこれはただケチをつけているだけだと思われるかもしれないが、消費者視点でサステナブルとされている消費がその代替以前の行動と比較したときにサステナブルだと言い切ることは難しいと感じる。例えばエコバッグはレジ袋のサステナブルな代替品として一般化しているが、そのプロダクトライフサイクルを見たときに本当にレジ袋よりも総炭素排出量が低いと言えるのか。一般的な回答としては、そのような商品もあるだろうし、その逆もあるだろう。その場合、例えば国や機関によるエコ認定などで担保することができるだろうが、そこまでの熱意は感じられないし、定義づけ自体も難しいだろう。エコバッグも使用限界があり、数年で穴が空いたり、人によっては複数個持っている場合もある。これはエコと言えるか。我々にできるサステナブルな行動の限界は貰ったレジ袋の再利用程度のもので、今の行動は実は良くないのではないか。②について、これは私個人の捻くれた部分が大いに関係するが、流行に乗って気取っている人間のことがらあまり好きではない。今回でいえばサステナブルという流行だ。これは大量生産大量消費の時代のカウンターとして生まれたのだと思うが、経済資本主義は市民に消費をやめるという行動を許さず、サステナブルであるという売り文句で消費を促す。結局行われていることは別の形の大量消費でしかない。にも関わらず、なぜサステナブルを標榜する人たちはあれほどサステナブルのことを絶対視できるのか。絶対視できているのであればその理由が知りたいし、できずに行っているのであれば良心の呵責はないのか聞きたい。以上が私がサステナブルな消費なら抱えている疑念であるが、現代のサステナブルの限界も示しているような気がする。スマホを使うときに半導体に使われるシリコンウエハの原材料である珪素の採掘に利用される重機の排出する排気ガスについて想像する人は少なくいくらでも入り組んでいる関係性を整理するには限界があるため、ティアによって管理するなど方法はあるが、そもそもサステナブルな消費というもの自体に対する疑念をもう少し感じても良いのではないか。