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コブ
このサイズの額縁は1個しかないから、エゴン・シーレと差し替えた
もう1個買おうかな、このサイズの額縁
ポスター買ったのはこれだけ
他にパンフやステッカーを買わなければならんかったからポスターは1枚だけにしてん
また、買える機会があるだろうよ
次は、ラピュタと紅を買いたい


コブ
彼らは師弟関係なんよ
それを隣同士に展示するなんて、ここの学芸員さん「わかってるなぁ」だったわ、素晴らし過ぎる✨✨
どちらも巨匠で、彼らの展示をする時は単体で企画展やるだろうから
こうやって、隣に並ぶこと自体ほとんどないと思うんよね、だから、素晴らしいのよ
クリムトと言えば、「接吻」が有名でググってもらったら「あ〜〜〜、なんかで見たことある見たことある」ってなるやつ
そのクリムトが、エゴン・シーレの才能をいち早く見出した人で、弟子にしたんよね
絵の才能はすでにあったから、なにか教示したっていうより、絵画を続けられるように、支援して支えたと考えてもいいと思う(多少、アドバイス的なことをしたとは思うけど)
この、エゴン・シーレの作品、俺、1年半年ぶりの再会なんよ
去年の3月に東京に行って、その時に、上野に開催されてた、「エゴン・シーレ展」に行ってて、その時に見た絵画
豊田市美術館が貸し出ししてたんやね
いや〜〜〜、良いものを持ってるなぁ〜〜、豊田市美術館
他にも素敵な画家さんの作品を持っててなぁ





👸ヨンニさま









Sieg heil

かな

回答数 100>>
フェルメール モネ ルノアール クリムト エゴン・シーレ ミュシャ ヘレン・シャルフベック


太郎さん
詳細は前記の本にゆずるとして、以上のことを石原がどこまで知っていたかは不明であるが、何ヶ国語にも堪能だった石原は『贋作ドン・キホーテ』の事実を知っていたのは確かだと思ってよいだろう。
石原の『フェルナンデス』にもどる。
「寺院の壁の しずかな/くぼみをそう名づけた」。
この詩の疑問に思われる点を検閲(けみ)してみたい。「寺院の壁の しずかな/くぼみをそう名づけた」この「寺院の壁」とは『嘆きの壁』のことだろうか。石原がそこへ行った記録はないが、とうぜん『嘆きの壁』の「イメエジ」が石原の脳裏にあったはずである。その「しずかな/くぼみを」「フェルナンデス」と親しみをこめて「そう名づけた」のである。
「ひとりの男が壁にもたれ/あたたかなくぼみを/のこして去った」。石原にとっては『贋作』である歴史の経験も親しいものになっていたのではあるまいか。繰り返しになるが、この「男」は石原が洗礼を受けたというカール・バルトに直接師事したエゴン・ヘッセル氏、また石原自身のことでもある。推量はしょせん推量にしかすぎない。しかし一体どの歴史が正しいのか、石原には石原の経験した歴史があるのである。それを個人史と言うならば、われわれ個々にとって生(き)の個人史のみが確かなものである。
「〈フェルナンデス〉/しかられたこどもが/目を伏せて立つほどの/しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」
「〈フェルナンデス〉」は「しかられたこども」でもある。「しかられたこどもが/目を伏せて立つほどの」。「しかられたこども」が本当に反省を促されたとき、われわれは「目を伏せて立つ」のではないか。「目を伏せて立つほどの/しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」そうしてうな垂れて、「壁」に「もたれ」る。そこに「しずかなくぼみ」ができる。まず石原自身が自省して「壁にもたれ」、『ドン・キホーテ』、『贋作ドン・キホーテ』にならざるを得なかった、過去であり未来であり得る人びとに「そう呼」びかけているのだ。当然「しずかなくぼみは/いまもそう呼ばれる」「〈フェルナンデス〉」と。

太郎さん
フェルナンデス
フェルナンデスと
呼ぶのはただしい
寺院の壁の しずかな
くぼみをそう名づけた
ひとりの男が壁にもたれ
あたたかなくぼみを
のこして去った
〈フェルナンデス〉
しかられたこどもが
目を伏せて立つほどの
しずかなくぼみは
いまもそう呼ばれる
ある日やさしく壁にもたれ
男は口を 閉じて去った
〈フェルナンデス〉
しかられたこどもよ
空をめぐり
墓標をめぐり終えたとき
私をそう呼べ
私はそこに立ったのだ
「フェルナンデスと/呼ぶのはただしい」
と石原吉郎は書いた。石原の第三詩集『斧の思想』所収『フェルナンデス』の冒頭である。『石原吉郎全集』(鮎川信夫 粕谷栄市 編集委員 花神社 1980年7月20日 初版第一刷)の『年譜』によるとこの作品は、1970年、「ペリカン14」に掲載された。
「〈フェルナンデス〉」のリフレインが二度ある。この「フェルナンデス」とは誰か。もし私の推論が正しいとすれば『贋作ドン・キホーテ ラ・マンチャの男の偽者騒動』(岩根圀和著 中公新書 1997年12月20日発行)に載る偽者アロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダのことだと思われる。
石原はこの「贋作」についても知っていただろうと推測されるが、『石原吉郎全集』のなかにも、フェルナンデスについての言及はない。「男は口を 閉じて去った」のである。この「男」というのは、石原が洗礼を受けた師のエゴン・ヘッセル氏であり、石原自身でもある。

いが

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こっつん
クリムトとかエゴン・シーレの作風が好きなので。
日本の国立西洋美術館にも行ってみたいな~

太郎さん
「ある日やさしく壁にもたれ/男は口を 閉ざして去った」。
「ある日」(「男は」)「やさしく壁にもたれ」(その)「男は口を 閉ざして去った」のである。「ある日」とは石原が、この詩を書いた現在であり、過去であり、未来である。それは同時にこの詩を読むものの、つまりわれわれの現在であり、過去であり、未来なのだ。「男」については詳述したとおりである。「やさしく壁にもたれ」「口を 閉ざして去った」。これは石原の旧懐の念である。ある年齢に達し過去を思えば、すべての過去に「やさしく」なってくるものである。そうして「壁にもたれ」すべての過去に「口を 閉ざして去」らなければならなかったのである。「口」にできない過去、たとえそれを「口」にしてもどうしようも理解してもらうことのできない過去があるものである。ゆえに「口を 閉ざして去った」のである。
若い人には、まだわからないかも知れない。しかしわれわれ人間はそのようになってゆくものなのである。これは生理的な現象である。
「〈フェルナンデス〉/しかられたこどもよ/空をめぐり/墓標をめぐり終えたとき/私をそう呼べ/私はそこに立ったのだ」
「しかられたこどもよ」と石原はしずかに呼びかける。「空をめぐり/墓標をめぐり終えたとき」。ここには石原のシベリア体験による「空」ばかりの土地で、いつ死ぬかも知れない生(せい)の不確かさ、「空をめぐり/墓標をめぐり終えたとき」が見えるようだ。「私をそう呼べ/私はそこに立ったのだ」。私を「フェルナンデス」と「呼べ」。「そこに」とは石原における「贋作」の境遇、あるいは「贋作」の時代じだいのことだろうか。戦中に諜報部員になり、戦後のシベリア抑留、祖国にいながらの遠い祖国、それらの「贋作」の時代に「私はそこに立ったのだ」と石原は証言する。つまり、石原自身が「ひとりの男」であり、「くぼみ」であり、「しかられたこども」であり、「フェルナンデス」であり、エゴン・ヘッセル氏であり、遡ってはカール・バルトであったのだ。さらに言えば、表題のとおりこの詩の内容そのものが「フェルナンデス」であったのだ。
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