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リピ〜ト💫
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道 #鬼太郎ひろば #調布


リピ〜ト💫
🔹下諏訪宿を出て塩尻峠へ向かいます。出来る限り旧街道をトレースしながら進んでいるので時には『えっ?』って言うような狭い道もあります。
🔹下諏訪、岡谷、塩尻を走っていると勾配の緩い屋根や雀おどしの棟飾りがある『本棟造』が多く見受けられます。また双体道祖神も数多く祀られており、特に下諏訪や岡谷の道祖神は諏訪大社と同じように四柱で守られています。
🔹塩尻峠の手前には茶屋本陣今井家があります。ここは峠を越える前に休息を取る立場茶屋跡で4件の茶屋があったことから四ツ家立場と呼ばれていました。幕末には皇女和宮、明治には明治天皇も休憩した由緒ある茶屋跡として母屋も含めた十一棟が国の登録有形文化財に指定されています。門脇には明治天皇今井御小休所碑がありました。
🔹今井家を越えると更に勾配がキツくなり自転車を漕ぐことができなくなります。そのかわり後ろを振り返れば眼下に諏訪湖の遠望が広がっていきます。
🔹石船観音から本格的な峠道の始まりです。塩尻峠は頂上まで約1kmの距離ですが約160m 上るそうです。サドルにペットボトルを置き水面を平行にして撮影したのでいかに斜度があるか分かると思います((;゚Д゚)))
🔹産まれたての子鹿のように足をプルプルさせながら頂上に到着、展望台から諏訪湖を眺めると遠くに富士山も見えました。ここは英泉の中山道六十九次『塩尻』に描かれた絵の場所で、ときより吹く心地よい風が峠越えの疲れを吹き飛ばしました。尚、中山道六十九次は広重と英泉の合作であり、下諏訪宿は広重、塩尻宿は英泉により描かれています。
#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道 #下諏訪宿 #塩尻峠










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中山道編 vol.20 ①
約10ヶ月振りの中山道旅も、長野県のだいぶ奥まで進んだのでスタート地点まで車で4時間かかるんすよね‥
来たついでに2泊くらいして距離を稼ぎたいところですが、まぁ何とか頑張ります。
そんなわけで今回は藪原駅から木曽福島駅まで進みました。途中に階段あり、猿あり、草道あり、廃国道ありの大冒険。ほっそい木曽川とともに進み南宮神社では豪快な滝でマイナスイオンを浴び、木曽義仲館跡の旗挙神社では850年前の義仲の気持ちになり魂を高揚させました。
②へ続く‥
#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道旅 #藪原宿 #宮ノ越宿










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味は‥自分で確かめてね😋
#リピ散歩
#旧街道旅
#中山道旅
#深谷宿


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結城街道【最終回おまけ】
ガー子とお散歩 🦢
#リピ散歩 #旧街道旅 #結城街道 #水戸市 #千波湖










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#リピ散歩 #旧街道旅 #北国街道 #上田市 #ぷちらぱん


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東海道編【田町駅〜大森海岸駅】前編
①②③札の辻交差点
〝辻〟とは街道と街道が交わる場所を指し〝札〟とは人々に布告法令や連絡事項を掲示する掲示板(高札場)のことを指します。辻では庶民の往来が多かったため辻に高札を立てることで多くの庶民が高札を確認できたようです。尚、前回の街道旅で記載した芝口御門は1616年〜1710年までこの地にあったそうで東に江戸湾が広がりその先に房総半島の山々が望める立地だったことから〝一日中眺めていても飽きない〟という意味で別名『日暮御門』と呼ばれていたそうです。その後1683年に高札場は高輪大木戸へ移り1710年に芝口御門は新橋へ移ったことで大きな役割りは終わったそうです。尚、現在では歩道橋の上から北方向を見ると東京タワーがよく見えます。日が暮れるまで‥とはいきませんが(笑)
④⑤元和キリシタン遺跡
三田ツインビル西館の手前を右方向へ登って行くと丘の上に碑が建てられています。1623・1638年、徳川家光によりキリシタン50名以上がこの地で処刑されました。その中には外国人の宣教師も多数含まれており、札の辻が人の往来が多い場所だったことから庶民への見せしめの目的もあったようです。尚、この地は遠藤周作の短編小説『札の辻』に描かれているそうです。
⑥⑦⑧⑨高輪大木戸跡
1710年に札の辻にあった芝口門が新橋へと移った際、代わりに江戸を守る門として1724年に建造されたのが高輪大木戸です。江戸の街への出入口としてランドマーク的な役割りを果たし、更に江戸後期には伊能忠敬が全国の測量を行う際に高輪大木戸を基準としたという記録が残っています。また明治期に入ると田町から北品川まで海上に汽車が通され、その様子は多くの浮世絵に描かれています。ちなみに2020年に開業した『高輪ゲートウェイ駅』はこの高輪大木戸をリスペクトしているようで、駅名発表当初は色々とバッシングを受けましたが私自身は理にかなった名前だと思っています。駅の西側で明治期の線路(護岸)跡が発掘され、ニュースに取り上げたのも記憶に新しいですね。
#リピ散歩
#旧街道旅
#東海道
#港区










リピ〜ト💫
旅から一週間以上経過してしまいましたが17日目ラストの投稿です
🔹塩尻峠から塩尻宿まで長い下り坂となり、チャリのブレーキを『キーキー』鳴らしながら坂を下ります。お地蔵様騒がしてごめんなさい🥺
🔹坂の途中『東山の一里塚』があります。南塚が現像する日本橋から57里目の一里塚です。また塩尻市に入ると途中で何度か『中山道分間延絵図』を見かけます。文間延絵図は幕府の道中奉行が五街道や脇往還を実際に測量・調査をして1806年に完成した道中絵図です。旅人全てが絵図を熟知していたわけではありませんが、簡易的な地図と道標や一里塚を頼りに街道を進んで行った先人には頭が下がります
🔹長野自動車道を越え柿沢地区へ入ると『永井坂の首塚・胴塚』があります。1548年3月、上田原の戦いで村上義清に敗れた武田晴信(信玄)は信濃攻略戦において最大のピンチを迎えました。この際、村上軍の勝ちに乗じて武田軍を信濃から駆逐しようとした信濃守護小笠原長時でしたが、同年7月に行われた塩尻峠の戦いにおいて武田軍の奇襲により大敗、千人以上の戦死者を出し武田軍の信濃進行を食い止めることはできませんでした。塩尻の戦い後に武田軍ら領地へ戻りますが戦場には多くの戦死者が打ち捨てられたままとなっており、これを哀れに思った柿沢の村人がこの地に埋葬したそうです。尚、近年の研究では塩尻峠の合戦は塩尻峠ではなくここから南へ5km ほどの場所にある勝弦峠とする説が有力となっています。
🔹塩尻宿へ入ります。江戸時代、太平洋側で作られた塩を『表塩』日本海側で作られた塩は『裏塩』と呼ばれ、両方の塩がこの地で交わることから〝塩尻〟と呼ばれたそうです。塩尻宿は塩輸送の拠点であり、中山道、伊那街道、五千石街道などの街道が交わる宿場であったことから宿場は大いに発展し、旅籠の数は中山道の宿場町で2番目に多い75軒あったそうです。
また、宿の手前には木曽義仲の子孫である木曽義方が義仲の菩提を弔うために創建した永福寺(観音堂は1855年建立され市文化財)宿の終わりには延喜式神名帳簿(927年書)に記載され坂上田村麻呂や木曽義仲も参拝した阿禮神社があります(狛犬は変わった形をしてます)
🔹街道を進み昭和電工の先でフィニッシュです。続きは秋かな‥
#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道 #塩尻峠 #塩尻宿










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練馬区北町〜成増駅👟
川越街道1日目最後の投稿です
①練馬区北町でノスタルジーを感じながら成増を目指します
②③④東部練馬駅の南にある北町観音堂を訪れました。堂内には赤塚村へ進むための道標になった1682年の建立の聖観音像が祀られています。また、観音堂の隣りに建つ馬頭観音像の頭には馬の顔がはっきりと見受けられます
⑤⑥観音堂の少し先に本陣跡緑地と呼ばれる小さな公園があります。本陣と呼ばれるからにはここに下練馬宿の本陣があったわけですが、敷地の奥には本陣と何の関わりも無い黄金の大根モニュメントがあります(笑)昨日の投稿では徳川綱吉が造らせた御殿跡を取り上げましたが、足の病に大根が効くと知った綱吉は下練馬宿の住民に大根を作らせました。本当に大根が効いたのか分かりませんがその後に綱吉の足の病は治癒したそうで、綱吉が将軍になると練馬大根の噂は全国に広まったそうです
⑦⑧地下鉄赤塚駅の出入口横にある細い脇道は旧鎌倉街道の跡とされています。街道の起点には『いざ!鎌倉』をモチーフとした小さな像が建てられており、北東に進んで蕨市辺りから中山道へ合流したものと思われます
⑨目的地に到着し喜びのポーズ🙌
#リピ散歩 #旧街道旅 #川越街道 #下練馬宿 #成増駅










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上板橋駅〜下練馬宿👟
①②上板橋駅入口交差点の先に2体の子育て地蔵尊(1778、1777年建立)が祀られています。建立当初は南にある城北中央公園内に3体が祀られていたそうですが、明治に入ると上板橋駅入口交差点に移設されいつのまにか2体が倒された状態で発見されたそうです。その後1923年に地元の有志によりこの地に移され現在は大切に祀られています。尚、説明板の〝呼ぱれ〟はグラ友さんの発見です🤣
③子育て地蔵尊から500m ほど進むと左手に1739年建立の青面金剛庚申塔が祀られています。古地図を確認するとここから下練馬宿へと入るようですが、往時は厄災が入ってこないよう村や宿場の出入口に道祖神を置いていたことから、この青面金剛庚申塔は下練馬宿の道祖神的な役割りを果たしていたとのと思われます。尚、現在でもこの交差点を境にして板橋区と練馬区に分かれています
④⑤下練馬宿には鷹狩りを行う鷹場があったそうで宿場内には〝けらや〟と呼ばれるオケラを売る店があったようです
⑥下練馬宿からは王子や戸田へ進むことができたようで川越街道から少し東へ入ると交差点中央に1815年建立の馬頭観音が祀られています。都内で道路の中央に御堂が配置されるのは珍しく、立派な御堂にも祀られていることから地元の方々に古くから親しまれているものと思われます。ちなみに勝負事や足腰の神様である馬頭観音には現在でも合格祈願や足腰が弱っている人たちの参拝があるそうですよ
⑦⑧環八の高架上まで進むと1753年建立の大山道道標が建っています。大山とは神奈川県に聳える大山のことを指します。大山は山岳信仰の対象とされ石尊権現社や阿夫利神社には江戸中期から後期にかけ多くの人々が訪れました
『従是大山道』
『ふじ山道 田なし 三里』
『府中え 五里』
⑨北町小学校の角に徳川綱吉御殿跡があります。江戸時代初期、この辺りは鷹狩りの地として知られていました。後の5代将軍徳川綱吉は将軍職に付く前に足の病に悩まされており、陰陽士によると『馬の付く地名で療養せよ』とのことで1677年に鷹狩りを兼ねて御殿を建てたそうです。1680年に4代将軍家綱が亡くなると正式な将軍に任官される綱吉ですが、練生類憐みの令を発する前は鷹狩りをしていたようですね
#リピ散歩 #旧街道旅 #川越街道 #下練馬宿 #徳川綱吉










リピ〜ト💫
また上げるの忘れた日曜日のリピ散歩です(笑)今回は藤代駅〜牛久駅まで進みました。距離は短いですが案外起伏のあるルートだったので暑さも相まってヘロヘロでした🥴
🔹平国香供養塔
小貝川、谷田川を越え龍ヶ崎市へ入ります。まず立ち寄ったのは平国香供養塔です。
平国香は平将門の叔父(将門の父の兄)にあたる人物で平将門の乱において将門と争い戦死しました(その後、将門は国香の息子である平貞盛に討たれています)
この宝筐院塔は鎌倉時代後期〜室町時代前期に建立されたようで、将門の子孫と称する相馬氏がこの地を治めていた際に建立したそうです。
🔹新旧水戸街道追分
馴柴小学校北のT字路に1826年建立の道標が建っています。以前、土砂降りの中で到着した水戸街道と初期水戸街道との追分です。
『布川 三里』
『水戸 十六里』
『江戸 十三里』
🔹若柴宿
追分から道なりに800m ほど進み、大坂を上って若柴宿へ入ります。初期水戸街道の頃から置かれた宿場町で往時の形態を色濃く残しています。
🔹金龍寺
若柴宿の外れにある金龍寺へ立ち寄りました。
1338年、越前(福井県)で討たれた新田義貞の首は尊氏の待つ京へ運ばれ、胴は坂井市にある称念寺に埋葬されました。その後、義貞の孫である横瀬貞氏(諸説あり)が義貞の菩提を弔うため称名寺より遺骨を譲り受け、廟と木造を安置して金龍寺としたそうです(1417年、群馬県太田市に建立)
時は流れ1590年、貞氏から8代後の子孫である由良国繁は豊臣秀吉により太田から牛久へ移封された際に金龍寺も移転したそうです(ちなみに太田市にある金龍寺は館林城主になった榊原康政(徳川四天王)により再建立されたそうです)
本堂を左手から裏へ回ると義貞・貞氏・国繁の五輪塔が順に祀られていました。
#リピ散歩 #旧街道旅 #水戸街道 #新田義貞 #由良国繁










リピ〜ト💫
もちろん熊さんは出没しますので熊鈴の代わりにハンドベルを振っての山中でしたが、途中出会った軽トラのおじさんの一言にビビリました。
『今日は鉄砲打ちが入ってるから気をつけてくださいね』
#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道旅 #和田峠










リピ〜ト💫
#川越市 #小江戸 #リピ散歩 #川越街道 #旧街道旅


リピ〜ト💫
前回の中山道旅から早半年、夢の続きを見るため再び信州へ舞い戻りました。前回の旅では標高1531m の和田峠を越え、下諏訪宿へ降りる途中の『西餅屋の立場跡』で終了しました。今回はその続き〜塩尻宿までの旅を計画し往時の雰囲気を楽しみました。
立場跡から国道を横断して再び林道に入ると『西餅屋の一里塚』があります。日本橋から数えて53里目の一里塚です。
一里塚の先は木漏れ日の差す林道を抜け国道に合流、更に国道を下ると『水戸浪人塚』があります。1864年、武田耕雲斎率いる尊王攘夷派の『水戸天狗党』千余名が京都の一橋慶喜に攘夷を実行するよう嘆願するため和田峠を越えてきました。これを阻止しようと松本・高島両藩の750名が樋橋で迎え撃ちました。結果は天狗党の勝利に終わりましたが水戸浪士にも14〜15名の死者が出てしまったそうです(幕府側の死者は10名)この戦いは『和田嶺合戦』と呼ばれています。戦いの後、高島藩は戦死した浪士を火葬し塚を築き、更に維新後の1870年には名前の分かった戦死者6名の名を刻んだ碑が建立されました。水戸天狗党は大河ドラマ『青天を衝け』でクローズアップされましたね。
浪人塚の先の中山道は基本的に国道を走りますが途中には往時の古道が残る場所もあり木橋や日本橋から54里目の『橘橋の一里塚』を見ることができます。
更に坂を下り人家が増えてきた先にあるのは有名な『木落とし坂』です。木落し坂は7年に一度行われる『諏訪大社御柱祭』において大木が坂を下る重要な儀式の場所として有名です。山中から選ばれた16本のモミの大木(長さ17m、直径1m、重さ10t)に男たちがまたがり45度に近い急坂を100m ほど下ります。その歴史は古く桓武天皇の時代(平安京への遷都)にはすでに行われていた記録が残っていたとされ、起源は縄文時代の巨木信仰からきたのではないかと考えられています。
中山道はバイパスを離れ諏訪大社春宮の脇を通り遠くには諏訪湖の美しい展望が開けます。この後は諏訪宿へと入りますが続きは②にて。
#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道 #水戸浪人塚 #木落とし坂










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今年7月に東照宮を参拝しているので、今回は東照宮の写真がありません。ただ、今後訪れる方々のために陽明門や三猿・眠り猫以外の見所を少々ウンチクしたいと思います(知ってる方は悪しからず)
①東照宮社標
『東照宮』の文字の上に葵の紋が埋め込まれていますが、御紋をよく見ると〝別格官弊社〟という文字の上から葵の紋が埋め込まれていることが判ります。
明治以降『近代社格制度』により、政府は神社を等級化していましたが、戦後処理を行ったGHQでは『近代社格制度は日本が戦争に突き進んだ要因の一つ』として社格制度は廃止となりました。戦前は格の高い神社ほどその等級を掲げていたため、GHQの干渉を恐れた神社は社格を隠すためにセメントなどで等級表記を埋めたそうです。
この東照宮においては葵の紋で誤魔化したということですね🙄
②一ノ鳥居
高さ9m 、柱の直径1.2m の大鳥居は1618年に黒田官兵衛嫡男の黒田長政により奉納されました。造られた当時、石造りの鳥居としては日本最大だったそうです。また上部に掲げられている扁額は後水尾天皇の書とされ畳一畳ほどの大きさがあるそうです。
③五重塔
1650年、徳川四天王の一人『酒井忠次』の孫である『酒井忠勝』により造営されました。その後落雷による火災のため焼失、1818年に再建されましたが再建したのも酒井家の子孫『酒井忠進』でした。五重塔担当だったのでしょうか❓笑。軒下に見られる十二支の彫刻も見応えがありますね。
また、この塔の中心に建つ心柱は最上部の屋根から吊り下げているだけで基礎石から浮いてるそうです。これは心柱を振り子の原理として地震による倒壊を防ぐ目的があり、スカイツリーにも応用されたそうです。200年以上前の木造建築でこの技術は凄すぎます。
#リピ散歩 #旧街道旅 #日光街道 #日光 #歴史





リピ〜ト💫
①大山ハッピーロードを歩くリピ一行。腹が減っては戦はできぬと中華料理店へ駆け込む🍜
②お腹いっぱい❗️からの〜クレープ‼️
③板橋区民には有名なんだろうな‥
④川越街道最初の宿場町である上板橋宿へ入りました
⑤⑥⑦石神井川に掛かる下頭橋の手前に下頭橋六蔵尊があります。下頭橋の由来には諸説あるようですが、その中の一つに『下頭橋の六蔵』という話があります。
⭐️江戸時代の初め、石神井川に掛かるこの橋は川越街道で唯一の木橋だったことから、洪水が起こる度に橋が流されていたそうです。そんな中、石神井川付近を寝床にしていた六蔵という年老いた乞食がおり道行く人々に頻繁に頭を下げては金を恵んでもらっていました。六蔵はその金をせっせと貯めていたそうで、乞食仲間との交流にも決して金を使うことが無かったことから『けちんぼ六さん』と呼ばれていたそうです。時が経ち六さんにも最期の時が訪れました。六さんが亡くなると彼の住んでいた小屋から壺に入った大金と『この金で石橋を掛けてほしい』という手紙が発見されました。以前、六さんは洪水で家族を失くしており、ここに石橋を掛けることで生前から世話になっている上板橋の人々に恩返しがしたいと話していたそうです。その後、六さんの噂が広まったことで多額の寄付が集まり石橋が掛けられました。人々は六さんを讃え六蔵菩薩として橋の傍らに祀ったそうです。尚、この話は『けちんぼろくさん』として日本昔ばなしに登場しており YouTubeでも観ることができます
⑧石神井川でハイポーズ🙌
⑨長命寺坂を上ります
続く‥
#リピ散歩 #旧街道旅 #川越街道 #上板橋宿 #下頭橋









にんげんっていいな

リピ〜ト💫
今回から川越街道旅をスタートします。室町時代中期、古河公方足利家に対抗するため太田道灌により江戸城と川越城が築城されました。川越街道はこの2つの城を結ぶ街道として造成したのが始まりとされており、江戸時代に入ると川越城主松平信綱・輝綱親子により街道上に宿場町が置かれました。尚、川越を起点とする児玉往還(川越〜高崎)と繋ぐことで中山道の脇往還としての役割も果たしたようです。尚、今回の旅は中山道を少し歩いてから川越街道へ入りたいと思います
①板橋駅東口に近藤勇の墓所があります。新撰組局長である近藤勇は戊辰戦争の折に千葉県流山市で捕らえられ、この地で処刑されました。首は京都へ送られ胴のみがこの地に埋蔵されたそうです。明治に入ると元新撰組隊士である永倉新八により近藤勇と副長である土方歳三の碑が建てられました。尚、敷地内には永倉新八の墓もあります。いっときは袂を分かち合った彼らですが、こうして同じ敷地内で眠っていることに何か考えさせるものがあります
②板橋宿は江戸から平尾宿→仲宿→上宿に分かれており最初の平尾宿へと入ります
③首都高を潜り右手の路地へ入ると東光寺があり境内には宇喜多秀家の供養塔が祀られています。宇喜多秀家は豊臣政権五大老の一人として豊臣政権を支えましたが、関ヶ原合戦の敗北により八丈島へ島流しとなりました。秀家の正室は前田利家の娘だったため前田家の庇護下に入ったそうですが、生涯八丈島を出ることはなく1655年に亡くなったそうです。秀家亡き後は宇喜多から浮田へと名を変え島でひっそりと暮らしていましたが、維新後の1870年に本土復帰を許され前田家を頼ってこの地へ移り住んだそうです。この辺りには現在でも浮田・八丈などの地名が残ってるそうですよ
④中山道へ戻るとY字路が現れます。ここが川越街道との追分で、右方向が中山道、左方向(直進)が川越街道となります
⑤⑥川越街道に入り400m ほど進むと四ツ又交差点の手前に1734年建立の馬頭観音が祀られています。ちなみに四ツ又とは川越街道と板橋宿から雑司ヶ谷へ向かう街道が交差していたていたため四ツ又と呼ばれたそうです
⑦⑧⑨ハッピーロード大山へと入っていきます。川越屋など往時の名前が残っている店舗も見かけます。
続く
#リピ散歩 #旧街道旅 #川越街道 #新撰組 #宇喜多秀家










リピ〜ト💫
①奈良井宿を後にし鳥居峠へ入ります。熊には気をつけましょう🧸
②葬沢
1582年、織田信長の甲州征伐において織田家と隣接していた木曽義昌は主家である武田家を身限り織田方に付きました。これに怒った武田勝頼は義昌の居城である木曽福島へ軍勢を派兵、この鳥居峠で戦闘となったそうです。尚、この戦いについては諸説あるようですが鳥居峠の戦いは2度行われたとする説が有力です。一度目の戦いは武田軍と木曽軍で行われ辛くも武田軍が勝利した戦い。二度目の戦いは一度目の戦で軍の損害が激しかった武田軍は鳥居峠にわずかな軍勢を残して贄川宿へ一時撤退、その10日後に織田軍が奈良井宿側から武田軍の背後を突いたことで武田軍は大損害を受けて塩尻方面へ撤退した戦いです。この2つの戦いで武田軍の戦死者は500人を超え、戦死者を鳥居峠の沢へ葬ったことから『葬沢』と呼ばれるようになったそうです
③④鳥居峠の一里塚
2連木橋を渡り更に進むと鳥居峠の一里塚碑があります。日本橋から数えて65里目の一里塚です
⑤鳥居峠
鳥居峠の標高は1197m あります。峠を境として奈良井方向には奈良井川が、藪原方向には木曽川が流れています。それぞれ日本海、太平洋に流れる分水嶺となっています
⑥御嶽神社
平安時代初期、鳥居峠は美濃國と信濃國との国境だったことから縣坂と呼ばれ、その後国境が変更され奈良井坂や藪原坂などと呼ばれたそうです。室町時代中期、木曽の領主木曽義元と松本の領主小笠原貞朝との間で戦が起こりました。その際に木曽義元がこの峠から御嶽山に向かい戦勝祈願を行ったことからこの地に鳥居を建立し鳥居峠と呼ばれるようになったそうです
⑦御嶽神社の裏には沢山の石塔・石仏があります。その中にあったイノシシを踏む青面金剛庚申塔は初めて見ました。
⑧御嶽神社の裏には御嶽山遥拝所があります。今日は見えませんでしたが義元もここから先勝祈願をしたのかもしれませんね
⑨義仲硯水
木曽義仲が平家討伐へ向かう際にこの湧水を使って墨を擦り戦勝祈願の願書を書いて御嶽山へ奉納したと言われています。英泉作『中山道六十九次藪原』の絵の場所でもあります
#リピ散歩 #旧街道旅 #中山道 #鳥居峠 #紅葉









森のくまさん
新着

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東海道旅も神奈川県に入りました。今年中に川崎宿から神奈川宿まで歩く予定ですが、その前に箱根峠を箱根湯本〜芦ノ湖まで進みたいと思ってます🚶♂️🚶♀️
#リピ散歩 #旧街道旅 #東海道 #川崎宿










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弥次さん喜多さんも食べた川崎宿の名物です
しじみ汁が疲れた身体に沁みましたー
#リピ散歩 #旧街道旅 #東海道 #川崎宿 #奈良茶めし


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クラフトビールで一杯やって
トーキョー戻ります
#リピ散歩 #旧街道旅 #東海道 #川崎宿



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江戸時代、食あたりや暑気に効く和中散という薬が旅人に重宝されていました。ここより北の美原地区には和中散を取り扱う店舗が三軒ほどあり、そのうちの一軒の主人『山本忠左衛門』がこの地に店を構えたそうです。その後、息子の山本久三郎が梅を集めて茶屋を開いたことで梅の名所『梅屋敷』と呼ばれるようになりました。安藤広重の浮世絵にも描かれ、明治天皇も計9回ほど訪れた梅屋敷には『明治天皇行幸所蒲田梅屋敷』の碑が建てられています。
また梅屋敷は幕末に起こった『梅屋敷事件』の舞台としても有名です。1862年、尊王攘夷に燃える長州藩の高杉晋作や久坂玄瑞らは横浜異人館の襲撃を計画します。しかし計画は土佐藩主『山内容堂』の知るところとなり直ちに長州藩主『毛利元徳』へ報告されました。その後、元徳は梅屋敷で高杉たちを説得し襲撃計画は未然に防がれたそうですが、長州藩士の一人『周布政之助』が山内容堂を馬鹿にしたことで土佐藩士と一触即発となりました。高杉の機転によりことなきを得ましたが、ここで長州藩と土佐藩が仲違いをしていたら〝薩長土肥〟中心の明治維新は無かったかもしれませんね。ちなみに一度は襲撃計画を諦めた高杉たちですが、その後『英国公使館焼き討ち事件』を実行しています。
#リピ散歩 #旧街道旅 #東海道 #蒲田 #梅屋敷





リピ〜ト💫
川崎目指してがんばりまーす👟
#リピ散歩 #旧街道旅 #東海道


リピ〜ト💫
東武東上線沿いの新河岸駅から高坂駅までを走るつもりでしたが、途中の寄り道が多くて若葉駅で夕暮れ終了とあいなりました。今回で年内の街道旅は終わりますが、来年も新たな発見や地元ならではの美味しい食べ物を探して楽しみたいと思いまーす。来年もリピ散歩をよろしく💫
#リピ散歩 #旧街道旅 #川越街道 #川越市










リピ〜ト💫
誰だかわかるかな?
#リピ散歩 #旧街道旅 #川越街道



リピ〜ト💫
上田城に移る前の真田氏本城跡と真田幸隆、真田昌幸、真田信繁(幸村)の宝篋印塔なり
#リピ散歩 #旧街道旅 #北国街道 #上田市 #真田氏







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#リピ散歩 #旧街道旅 #北国街道 #雷電 #海野宿










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#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道










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皆さん、沢山のいいねありがとうございました✨
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道 #武蔵野台


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汁だくで美味しかった😋
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道 #千歳烏山



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尚、旭橋以降の玉川上水は旧甲州街道と離れてしまうため、橋の散策はこれまでにしたいと思います
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道 #玉川上水










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玉川上水とは江戸の人口増加に伴う水不足解消のため1654年に開削された人工の上水道です。遠く羽村市から分水された玉川上水は、福生市→立川市→小平市→三鷹市→杉並区→渋谷区→などを通過しながら新宿区四谷まで全長約43km の流れがあったそうです。現在は上水道としての役割を終え、特に都心部では大部分が暗渠となっており、このモニュメントは実際の暗渠を半分にした形をしているそうです。尚、玉川上水はここから上北沢入口交差点付近まで甲州街道(国道20号線)沿いをほぼ並行して流れており、今回の旅ではその痕跡も辿っていきたいと思います。
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道 #玉川上水










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#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道 #初台



リピ〜ト💫
旧甲州街道を新宿駅から調布方面へ進みます。天気が微妙ですが頑張りまーす
ちなみに新宿駅は『君の名は』の聖地です。映画で見た光景が広がってますね
では行ってきまーす🚶♂️💨
#リピ散歩 #旧街道旅 #甲州街道 #新宿駅 #君の名は




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