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ゆうた
夜道を12時間かけて歩いてた。
それでストレスが解消されるなら、
眠くなるまで、ロングフォーキングが
日課になってた。
その「日」は、全てが上手くいかなかった。
・仕事も高校生の前で怒られたり。
・家に帰っても、家族に文句言われたり
で、家に帰る事も何処かで暇を潰す事も
出来なかった。
そんな「日」はいつもの道を歩いた。
だけど、その「日」は少しだけ違ったのは
俺が下を向いていた事とAirPodsをしていて
周りの音が聞こえなくなっていた。
そして、その状態で、夜20時の
横断歩道🚸に渡ってしまった。
最後に、見た景色が、(歩行者の青の点滅だった)、(そして赤になった)
自分の中で、(あー、やばいと思った、、
でも、疲れていてもう、此処で死んでもいいかなぁと思ってたから)そのまま下を見て進んだ。
車が曲がる、ハイビームの光の明るさで、
強制的に顔を上げさせられて。
(一瞬だけ、自分の首が道路に転がってる
映像が頭の中で、鮮明に流れてきて)
はねられる。前の瞬間、
本当に一気に色々な情報が、超早送りで、
無理矢理流される感じ。
多分、、走馬灯に近いと思う感覚。
本当に、、あ、やべぇ、やらかした。
死んだわこれ、と思った。
そして、気づいたら歩道橋の真ん中で、
知らない車と自分との距離が1センチ
弱ぐらいで、、
AirPodsしていても気がついたから。
超急ブレーキーをかけたんだと思う。
俺「はぁ〜はぁ、生きてた」と思った。
汗と緊張と動悸が止まらなかった事と、
生きてたことに感謝した。
多分、その運転手さんが、
気づくのが、一瞬でも遅かったら、死んでたと思う。
何となく、死ぬ感覚って、こんな感じなんだと思う、落とされた時もそうだけど、何か走馬灯みたいな記憶が流れて、痛いとか痛みがない。
体が浮く感覚というか体から離れていく感覚。
おそらく、この事は奇跡だと思ってるけど、
偶然ではないと思ってる。
家族に存在否定や努力の否定をされたり
仕事で高校生の前で怒られたりしたけど。
夜の20時、この時間に、家族や友達以外に
(俺に少しでも、生きていて欲しいと願った人がいるんだと思った)、それは今まであった人かも知れないし、これから会う人かも知れないと思ってる。
どちらにしても、この「人」には
感謝したい。

なぜ (少年少女 ver.)
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ラミド
おはようございます☕
車……に乗っている方
止まる所で止まらない人多いのかも
歩いてても突っ込んでくる、信号のある横断歩道の真上で止まって歩行者が通るの一苦労したり、自分ファーストが多いのかもしれない老若男女問わず
(自分が出会った運転手は幅広い年齢層でしたね~😅)
親の運転や周りの運転を気にしたことが無いのかもしれない。
酒気帯び運転したらどうなるのか……
事故が起きたらどうなるんでしょうね
夢に魘されたり、
その映像がフラッシュバックしたりするのかな
酔ってたらそれすらも覚えてないか……
せめて『凶器』に乗っている意識をお忘れなきように
お仕事の方
外での仕事の方
体調崩さないようお気をつけください
お休みの方
有意義な休日を
小さくても良いことある1日に🌟
いってらっしゃい((🙋
#おはようGRAVITY #GRAVITY日記 #おはようございます

ちきちぃた
私自身は霊を信じていません。
不思議な現象は脳のバグ、高感覚と呼んでます。
小学生の頃、親友の家は特殊な形状をしていて庭が広い和風な平家で一つの部屋を囲うようにして廊下がありその廊下の周りに部屋がある家でした。
真ん中の部屋は向かい合わせに扉がありいつも開けているため玄関を入るとその部屋を突き抜けて廊下の向こう側が見えます。
ある日親友の玄関先で話してたところその部屋のタンスの横のところに白い綿飴みたいなものが(モヤモヤとしたものがくっきりその空間に浮き上がっていた)落ちていました。親友が振り返った時にはもう既になくなっていて友達は真顔でした。後日その話をもう一度すると嫌がられながらも昔庭にウサギを埋めたと話していました。まぁ、辛い記憶だったから嫌だったのかなと思いました。
中学に上がって、あの部屋は親友の部屋になり不気味さ減りました。ただ、あの回廊には一切光が入らなくなり回廊の突き当たりの部屋は猫の部屋となり開かずの部屋となっていました。親友の家庭環境も著しく悪くなり、お母さんの様子がおかしいことやお父さんは耳がほぼ聞こえなくなっていました。
親友はホラーマニアになっていてあの部屋で親友とあの子供の頃の話していたところ、突然停電しその時家にいた彼女の父親が停電を治すために回廊を歩き始めました。すると玄関から子供が走るような重量感のある裸足のペタペタとした音を含んだ足音がバタバタと廊下を走り抜けました。その時完全に彼女の父親とすれ違ったと思い停電を直してくれた後に聞きに行きました。
何もいなかったと話していましたが、親友はまた真顔になっていました。その頃には私も何かあるんだろうなと思ってもう何も言いませんでしたが、よくこれであんたホラー見れるなぁとは思いました笑
その子の家は数年前に更地になっていてもうないです。
親友には言えないけど元々は神社だったんじゃないかな?と思っていて、なんでかって言われてもわからないけど祀る場所?祠?みたいなのがあった場所もなんとなく見当がつくんですよね。試しに家族に言ってみたら形状的にそうかもしれないと言っていました。知らんけど。私は親友さえ元気でいてくれればよかったのであの家を出てくれて安心しました。
まだ他にもあるので上げますね。

whiteAngel
【この惑星で楽しみたいこと】
不思議な体験や、その後について話したり、同じような体験をした人達のお話も聞いてみたいと思い、参加させていただきました。
私の体験は、10年ほど前、ツインと思われる人に出会い、直後に実の父を突然亡くしました。
その1年後、仕事中なのに頭の中にスクリーンの映像が現れ、広い広い宇宙の真ん中に両手を広げた黄金のイエス様(私はどの宗教にも入っておりません)が現れ、「次のステージは北海道にあります。今すぐ行きなさい」というようなインスピレーションが送られました。その後急に映像は走馬灯に変わり、仕事中にもかかわらず涙が流れて止まらなくなりました。
頭の中にスクリーンが現れたのは、その時のただ一度きりでした。
精神病になって幻覚が見えたのかと相当悩みましたが、ツインの住む場所が北海道であったため、仕事も辞め家族も置き去りにして北海道へ移住。その後、本当に何も困ることのない幸せな生活を続けています。
書ききれないほどの奇跡が起きて。
【最近のマイブーム】
年に数回の長期旅行、自由時間、資格試験へのチャレンジ

ろっくん
〇〇ヤローどもへ
この場を借りて初めてあの時の状況などを何となく吐露します…文才ないのでノンクレームでお願いします。
今年もこの日が来たか…
真剣に思い出すと自分が何するか分からないか
ら、常に頭の引き出しには全開ならないよう頑丈なストッパー付けてる…
あの日は当時看護学生だった自分にとって学年最後の看護実習最終日。担当の患者さんの病室にいた。どんな揺れだったか覚えていない…何で大きな建物なのに、こんな揺れてるの?なんて思う暇なくオレの後ろにあった高さのある床頭台が覆い被さってきて腰を強打。そのまま支えてる状態で痛みはあったが動ける…幸い患者さんには被害なく自力でその床頭台を立て直す。ふと辺りを見回すとさっきまで付いてた灯りはなくほぼ暗闇に…窓からの外の灯りで開いてる病室の扉から見えた光景はまるでサスペンス映画に出てくる廃病院のよう。ステーションや廊下がカルテなどの紙類やら車椅子やいろんな物が床を埋め尽くす…その上を歩いている病院中の人たち…看護師が何やら叫んでる声、鳴り響く非常ベル、館内放送の音が交差してオレの頭の中は思考停止…何が起こったのか分からない。次の瞬間には誰かと一緒に動けない患者さんの避難介助をしていた…何も考えられなかったが体は動いていた。ただひたすら介助していた…何時までやってたかなぁ、途中から雪降ってきたなー。学生だからというコトで途中近くの学校へ帰され、そのまま待機。帰宅は許されなかった。辺りはいつの間にか夜になっている…そんなコトも気付かなかった。持ってた携帯で何度も自宅に電話するが繋がらない…電波はある。ワンセグ機能が付いていたので暗い教室の隅っこで同級生とTVを見る…小さな画面越しに映る地域の惨状に、思考は相変わらず停止中…介助の疲れや寒気がここへ来て出てきたコトもありボーッと眺めているだけ。暫くしてようやく地震災害であるコトに気付く。家族は無事?婆ちゃんは?家はどうなってるの?小さい頃よく遊びに来てた親戚の叔母ちゃんは一人暮らしだけど無事なの?…何も把握出来やしない、不安だけが胸の鼓動と共にどんどん押し寄せてくる…そんなコト考えてる間に携帯のバッテリーは底をつきそうだ。充電器なんて持って来てない…
睡魔が襲ってきたので続き書くかは周りの状況見て考えます…長々と失礼しました。
#東日本大震災から14年
#雰囲気

April🥀
当時、私は福島県に住んでいた。偶然お休みで家にいて突然きた激しい揺れに訳がわからず部屋の真ん中で揺れる家具を見ながら買ったばかりのテレビを押さえるか、食器棚を押さえるか…考えているけど揺られて動けないでいた。変なもので非現実過ぎて地震の前に何をしていたか思い出せず後から友達に「私と電話してて切った直後に地震だったよ」と言われる状態だった。
幸いライフラインは止まらず普通に生活できたのが何よりだったけど食べ物がなかった!スーパーに行ってもとにかく何も棚に並んでいない。食料確保が本当に大変だった。でも不思議な事に緊急時なのに普通のチョコレートは全く無いのにホワイトチョコレートは大量に余っていて棚から溢れていた。近くのコンビニも閉まったまま。他県に住んでいる友人達がカップラーメンやお菓子など食料を送ってくれた事に今でも感謝している。
テレビは津波の映像とACのCMが延々と繰り返し放送される。ある日、急に息が苦しくなり動悸がして耐えられなくなった。救急車を呼ぶのも気が引ける…行ける範囲の病院に電話してもどこも出ない。やっと初めての病院に電話が繋がり症状を話すと「すぐ来てください」と。タクシーで行くと不安や恐怖心からの過呼吸ですねと言われた。ニュースで地震や津波の映像は観ないでくださいと言われてお薬を貰った。お会計の時ポカリスエットとカロリーメイトを渡されて「大変だけど頑張ろうね。苦しくなったらまた来てね」と言われ優しさに泣いてしまった。それを知った友人達が電話をくれてグループ通話で繋げたまま何人かで話して時間を過ごす事が増えた。放射能漏れが始まった時も色んな情報が飛び交って混乱。そんな中、上の階の人が呑気にお布団を干しているのを見て笑ってしまった。自分が精神的にキリキリして情報に振り回され過ぎているんだなー…と。お医者さんをしている友人から「平均的に人が生涯レントゲンを受ける放射能の値の方がはるかに高いから、あまり気にしなくて大丈夫」と言われて安心も出来た。公的機関に勤めている友人に聞いたら「今◯◯県から避難してきたけどガソリンがなくなったから駅前に入れにきてくれ」「公用車のガソリンを回してくれ」と電話が鳴りっぱなしで対応が大変だったそう。もう色んな人間性や欲があからさまに出ている毎日だった→


syu
自分は教室の廊下側、前から4番目の席。
突然、先生が手を止めて窓を見る。
ゴゴゴゴとだんだん近づいてくる音。
経験したことのない揺れ。
先生が、隠れて!!頭隠して!!!と叫ぶ。
慌てて机に潜りこむ。
机の上から筆箱やら教科書やらが落ちる。
廊下側の窓が割れそうな勢いで軋み、水槽から水がこぼれる、ロッカーから誰かのランドセルが飛び出す。
誰も叫び声をあげれないくらいの揺れに圧倒される。
前の席の友達が泣きそうな顔になる。
安心させたくて、笑顔になる。
凄まじい轟音と揺れが長く続き、先生が何か言ってるけど聞こえず。
だんだん落ち着いたあと、まだ身体が揺れているような。
先生が慌てて教室のテレビをつけようとしてうまくつけれず、職員室行くからと飛び出そうとしたタイミングで教頭先生の叫び声が廊下から聞こえる。
今すぐ荷物まとめて3分で体育館に集合。
そこで何か大変なことが起きてるのに気づく。
慌てて体育館に行く。
登校班ごとに整列。
近所のお母さんの車で帰る。
家に着いて、今日は5時からピアノの練習の日だから準備しなきゃーと思いながらテレビをつける。
妹と2人で、なにこれ、、、、と絶句する。
しばらくして母が帰ってくる。
おかえりとか大丈夫だった?とかよりも先に、お母さん早くテレビ見て!!と言う。
そのあたりで防波堤を越える船の、津波の映像を見る。
母の絶句した顔。妹の泣き声。
何が起きてるか分からない。
お父さんに電話が繋がらない。
映像、作られてると思った。
どのチャンネルも地震のこと。
揺れと津波と火災と、それ以外の情報がなくてすごい苦しかった。
節電のために、暗い部屋でご飯を食べる。
父は夜遅くになって帰ってきた。
こっち側にも津波くるとかで、その日はすぐ逃げれるように家族みんなで一階に寝た。
その日のことだけ、こんなにはっきり覚えてる。
14年前のことなのに。
その後は、仙台の親戚の叔父ちゃんに物資届けに行ったり、福島のおばちゃんの家は津波にあってまだ見つかってない。
今でも信じられない出来事だった。
もう2度とこんな大災害起きませんように。
ご冥福とともに、急に生活が変えられるような出来事がこの先起きないように、お祈り申し上げます。
3.11

ヨル
人と比較するものではないと思うんです。
あの人は〜歳に亡くなってる、
あの人は余命宣告から間もなく亡くなった等。
70年以上彼女は生きた、
とても元気な人で病気とわかる直前までバリバリ働いて海外にも遊びに行ったりするような人だったから、
あまりにも早すぎる、というのは、家族も親戚もみんな思ったことだろう
それでもステージ4と言われたあの時から、4年も生きていてくれた。
彼女自身も最後の最後まで、タヒぬ気など満更なく、本当そのまま逝ってしまった
彼女が緩和病棟に転院する頃、家に帰りたい、と言っていたそうだが、各自仕事もありいつまで続くかも分からない、お家で看取れる自信が無い、母もその周りもかなり弱っていて、私もそれをしようっていう言葉は言えなかった
私も怖いと感じてしまって
ごめんよ、ばあちゃん。
そのことに関して、母は未だに無理だった、と話すけれど、そうしてあげたかったという気持ちもあり後悔している気持ちを色々と吐露する
なんでウチのお母さんが。お母さん自身も言っていたもの、なんで私なのって。
母がまだ小さかった頃、祖父も癌で若くして亡くしている
その人の命であり、それが運命だった
ちゃんと自分で作ったバランスの整った食事をしていても、仕事をして庭の手入れして体動かしていても、タバコやお酒など一切しない人でも、
なる人はなってしまう。
避けて通れない
だから何年と生きて、旅行に行けて、祖母は色んな人に会いたかったと思うけれど、家族としてはよく会うことができる時期(コロナが落ち着いた頃)だったことが幸いだったと思う。
それでもなんでなんで、あぁしたらこうしたらって後悔し、自分を責めて。
私も頭が痛くなり、聞いていられず、なる人はなる運命さだめだったんだよ、
できる範囲で尽力したのだから、と思うけれど母自身はきっと自分がしてきた努力を上手く処理できずにただひたすらに負い目を感じ、祖母を想っているようにしか見えない
私はどうしたら、どんな言葉?をかけたら少し考えがシフトされるだろうか、楽になるだろうかと考えてみるけれど
私自身片親といえ、両親健在しているので、心の頼りであった実の母を亡くした母の気持ちは分からない、私が言っていい言葉が見つからないような気がして
分からない、
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