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🏃一三@逃げてーー

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九竜
宇宙全体のことを指して『天』と呼びます。
宇宙が目指すものは完全なる虚無、宇宙は死(無)を目指している訳です。形有るものいつか壊れてしまうのは、この宇宙が死(無)を目指しているからです。それを私の養父である老竜(老子)は『道(タオ)』と説いたのです。私が常に相対して来た最大の宿敵は、万物の生命全てが回避不可能な死(無への回帰)に至る道(タオ)をつくり続ける天(万物の根源)ある訳です。全てに天の意思が介在しています。並行して神(地)の意思も介在している訳です。人を死へと誘導する天の道あれば、有へと誘導する神の愛がある訳です。武器を手に取り生命を殺(否定)して無に返すのは天の所業です。天に抗い万物の生命を愛(肯定)して育み永続を図るのは神の所業です。
原点の神と私がそう呼ばれている訳は、この不毛の宇宙に生命の種子、セフィロトの種子を蒔いたからです。貴方が神様と成ってください。この私の呼び掛けに応えて神様と成ってくれたのが地球です。ネを申すとは、生命の根を御頼み申します。生命の光が希望の光。絶やすことなく愛をもって無に抗い育み続けてくれる日月の神様。この不毛な大宇宙の中で一際、他の追随を許さず眩しく煌々と光輝いているのは貴方の生命の光です。この大宇宙の中で貴方以上の輝きは何処を探しても見つかりません。それ以上の輝きは無いのです。少し、話が逸れてしまいました。私の想いを伝えたかったのです。虚無が否定するのは生命の輝きです。
虚無は利己(退化滅亡・過去・疑・死)です
神様は利他(進化繁栄・未来・信・愛)です
人(理)は天(無)と地(有)の狭間です
人は天と地の間の子
人は天(破壊)と地(創造)を調和する者として地上に顕現しています
天にとって私が流す情報は不利益です
天はこの情報を理解されると困るのです
人が無に返り辛くなるから天が困るのです
無(死)が正義、それが天です
神様(地球)を離れては
生命は生きられません
それだけ宇宙(万物の根源)は絶大
神を遥かに超えた超神である訳です

ぺろにぃ2
ラファウの正体についても示唆しているんだね。それはニーチェの永劫回帰と超人思想。
ラファウは「死を知る者は誰もいない」って言ってたよね。そしてそれに対してノヴァクは「大昔の異端者が言ってたことだ」って言い返していた。つまり間接的な天国の否定であり神の否定を意味するのよ。
死んだらあの世に行くではないんよね。あの世の「あの」は「あちら側」を意味している。そんなあやふやでありもしないものを否定するのが永劫回帰。「神は死んだ」って言葉もこれに関係してる。
あの世ではなくこの世で、嘆く過去もなく何かを先延ばしにしてアテにする先延ばしの未来もなく、今を「今この一瞬」として流転し続けながらその運命を全て受け入れて充実して生きること。
神も天国もかなぐり捨てるほどに、幼さゆえの純粋で強烈な地動説への愛に突き動かされて死ぬ覚悟をしたラファウは死に臨んでその運命を全て受け入れて愛することで超人となり永劫回帰の住人になった。
自分のやることに恐れも後悔もなく、ただ今を、価値基準を自分以外の神やあの世に求めず自分の奥底にある意思で設定して全てを肯定して生きるいわば最強であり最凶の存在に生まれ変わったんだ。怖く感じる理由はそこなんだよね。
「善悪の彼岸」でもあるね。よいとされていること、わるいとされていること、一般的には社会的な規範、その時代時代の常識だったり教会による教えに基づくものだったりするけどその奴隷に成り下がり、不平不満をぶつくさ言う態度のことを奴隷道徳でありルサンチマンと表現した。それを否定して超人になったんだね。
ラファウの殺人シーンは今の一般人にはサイコに映るけど、ラファウは奴隷道徳はすでにかなぐり捨てているので彼はその行為を後悔も自責もせず肯定できる。(そして…もしかしたらノヴァクもそうなって融合したんじゃないかってちとおもてるw)
だからコップで水を飲む動作を何度でもしちゃうし可愛らしい振る舞いも、演説めいたものもいつだってする。変わらないなぁと思える行動をするし、それでいて人を殺しても悪びれた顔を一つもしない。
「何度でも叫ぶこの暗い夜の怪獣になってもここに残しておきたいんだよこの秘密を」繋がるよね。
あと、スピノザのエチカのエキスもあるよねこの作品。

໒꒱なかこ໒꒱
元は325年のニケーア公会議以降ローマに元々あったミトラ信仰における冬至の祝日を置き換えたにすぎない。
イエス・キリストも周りが祭り上げたに過ぎないかも知れない。
大体どの宗教も開祖は神を自称していない。
ブッダはバラモン教を論敵にして自身が開いた哲学を弟子に諭した。
しかし、仏陀の説話は聖典にならずに死後にナーガルジュナ以下高弟達がまとめた般若経や大智度論などが各宗派の経典になった。
孔子の思想を本人の口述筆記で纏めた有名な書物の論語は、儒教における五経に含まれない(詩経、易経、書経、礼記、春秋)
キリストもユダヤ教パリサイ派に批判的なユダヤ教徒として磔刑に処された。
それから325年のニケーア公会議で神と聖霊とキリストは同一であるという考え三位一体が正統(オルソドクス)で普遍(カソリコス)になって、新約聖書は367年初版されました。
イスラム教ムハンマドは神から啓示を授かった預言者の立場でイスラムの最高指導者になった。
こう見ると、開祖の立場を正しく今日まで理解しているのは、イスラム教だけじゃなかろうか?と思う。
歴史を見ると、本人の意思とは関係無く、神に祭り上げられた開祖が多いと思う。
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