投稿

たまかしわ〜
小林秀雄の『近代絵画』にもドイツ人は子に「この子の将来は詩人になるんです」と自慢しているという話があったし、西洋人の詩への神聖視は他の芸術とは別格なんだろうね。
関連する投稿をみつける

たまかしわ〜

manacuba
別の惑星でのできごと。子供たちに起こった素晴らしい励まし。眠りまでのいくばくかの時間。星空を見上げ、私たちがかつていた惑星を見つける。地球での思い出は、言葉にはできない。大きな悲しみ、それ以上に素晴らしい出会い。あの人の思い出は海底の遥かな闇の中。詩人も彼女の思い出は言葉にしない。誰にも伝えない。言葉ですら。あの人の思い出は永遠に私の中だけに。あまりに大きな悲しみ。すべて物語。
詩人は子供たちに語る。私は悲しみの側からやってきた。すべての素晴らしい芸術は悲しみの側からやってきた。私たちは永遠への途上で多くのものを失ってきた。喪失は真夜中に星空を見上げる勇気を。勇気は遥かな海の向こうに希望を届ける意志を。意志は言葉の形を取り、こうして子供たちに人生の価値と、芸術が何を意味するかを伝えた。今も希望は星々になり夜空に輝き続ける。すべて物語。

町

カムイ
その詩は自分が体験していないことを夢見る子供の書いたようなものでした。既成の秩序、大人の言語、道徳、そうしたものすべてははるかに遠く、手の届かないところにある。そしてその詩は、その叫びの一つ一つにおいて、完遂されなかった、たぶん目指されさえしなかった一個の理想にとどまるのである。


ランワイン
美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。
高校生の時に読んだ小林秀雄の言葉。
美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。
つまり、花を見て美しいと人が感じるからこそ花は美しいということ。
人間だってそうだ。


pushuca


太郎さん
詩の死んだ青い季節、何もかもが崩れるそのまえにおれたちの時代の詩が一律に唱えるこのやわらかい迷情を聴こう。個人的な闘いの現状が記録の合間にいくつもあったはずだが、今はだらだらとだれた衣類のように処理されて愚鈍な黄昏のように響きが残るばかりだ。その記録をひとつの疑似だというなら、このおれの詩はふざけた悲劇、悲しみを予告する喜劇でしかない。
もし詩がこころ打たないのであれば、この信じられない透明な真実はだれが書きとめるのだろうか。むしろ詩は貴重な真実としてこころの地下通路をつかって沈黙のまま書きとめられなくてはならないだろう。時間に耐える強靭な言葉を詩の季節の弔いとしてここに捧げるしかない。
一個の石。百千の言葉を費やしてもその石を言い表したことにならない、その具体的な石をおまえに手渡しする。おまえの苦悩の掌に確と手渡された石。それはおまえの掌だけを温めるのではない。おまえの身心のその核を満たすのだ。さあ、すぐに消えてゆく虹を手放しておまえはおまえの石を受けとれ。
石に残るおれの体温はおまえの体温に受けつがれるのだ。手から手へと。なにもかも顛倒しているのがこの世の現実なのだ。しかし時間を騙すことは不可能だ。真実が過去から現在に現れるというのもひとつの事実に違いない。真実の石。それは何処にでもある。詩人はみずからを賭してこの真実の石をつたえなければならない。
2015/09/22

もっとみる 
関連検索ワード
コメント