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ぽやぽや
久しぶりに寝付けない。
今日が3.11だからか、それとも月末の旅行が楽しみすぎて興奮しているのか、自分でもよくわからない。ただ、寝付けないのだ。仕方がないので、14年前の今日のことを思い出してみる。
当時の私はすでに会社を辞めてフリーになっていた。買ったばかりの42インチのテレビで『ミヤネ屋』を見ていたら、地震が来た。ゴゴゴゴ、と地鳴りがして、まず小さく揺れる。おさまったかと思ったら、今度は大きく揺れた。緊急地震速報は、揺れてから鳴るという意味のなさ。固定していなかったテレビが倒れそうになるのを必死で押さえながら、「大阪も揺れてます!」と興奮気味な宮根の声を聞いた。でも、こっちはそんなレベルの話じゃない。そう思いながら、揺れが収まるのをじっと待った。
その後は、テレビに映し出される各地の被害や津波の映像を、言葉もなく見続けた。現実とは思えなかった。
そんななか、出張で空港にいた友人から連絡が来た。「地震で飛行機が飛ばないんだけど、どうなってる? 出張先に行く方法ないかな?」とのこと。いや、そんな場合じゃないだろう、と思いながら「可能なら家に帰ったほうがいいよ」と伝えた。でも友人は、「お客さんはもう出張先に行ってて、自分が行かないと仕事に支障が出るから、なんとか行きたい」と言う。その後、どうしたのかは覚えていない。
日が暮れてから、都内で働く妹から「電車が止まって帰れない。迎えに来てほしい」と連絡があった。パートナーには「危ないからやめたほうがいい」と言われたが、非日常の興奮で気持ちが高ぶっていた私は、迎えに行く気満々で家を出た。でも、普段はそんなに混まない家の前の道路が、両車線とも渋滞でまったく動かないのを見て、すぐに諦めた。結局、妹は同僚を迎えに来た車に乗せてもらい、深夜になんとか帰宅できた。ほっとした。
その夜は、普通に眠った気がする。
翌日、家具屋さんが注文していたテレビボードを届けに来た。テレビの中では大変なことになっている地域が映し出されているのに、ここは日常なんだな、と妙に冷静に思ったのを覚えている。
今でもあのときの津波の映像を見ると、胸がギュッと締めつけられる。たぶん、これから先もずっと忘れることはないだろう。
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syu
自分は教室の廊下側、前から4番目の席。
突然、先生が手を止めて窓を見る。
ゴゴゴゴとだんだん近づいてくる音。
経験したことのない揺れ。
先生が、隠れて!!頭隠して!!!と叫ぶ。
慌てて机に潜りこむ。
机の上から筆箱やら教科書やらが落ちる。
廊下側の窓が割れそうな勢いで軋み、水槽から水がこぼれる、ロッカーから誰かのランドセルが飛び出す。
誰も叫び声をあげれないくらいの揺れに圧倒される。
前の席の友達が泣きそうな顔になる。
安心させたくて、笑顔になる。
凄まじい轟音と揺れが長く続き、先生が何か言ってるけど聞こえず。
だんだん落ち着いたあと、まだ身体が揺れているような。
先生が慌てて教室のテレビをつけようとしてうまくつけれず、職員室行くからと飛び出そうとしたタイミングで教頭先生の叫び声が廊下から聞こえる。
今すぐ荷物まとめて3分で体育館に集合。
そこで何か大変なことが起きてるのに気づく。
慌てて体育館に行く。
登校班ごとに整列。
近所のお母さんの車で帰る。
家に着いて、今日は5時からピアノの練習の日だから準備しなきゃーと思いながらテレビをつける。
妹と2人で、なにこれ、、、、と絶句する。
しばらくして母が帰ってくる。
おかえりとか大丈夫だった?とかよりも先に、お母さん早くテレビ見て!!と言う。
そのあたりで防波堤を越える船の、津波の映像を見る。
母の絶句した顔。妹の泣き声。
何が起きてるか分からない。
お父さんに電話が繋がらない。
映像、作られてると思った。
どのチャンネルも地震のこと。
揺れと津波と火災と、それ以外の情報がなくてすごい苦しかった。
節電のために、暗い部屋でご飯を食べる。
父は夜遅くになって帰ってきた。
こっち側にも津波くるとかで、その日はすぐ逃げれるように家族みんなで一階に寝た。
その日のことだけ、こんなにはっきり覚えてる。
14年前のことなのに。
その後は、仙台の親戚の叔父ちゃんに物資届けに行ったり、福島のおばちゃんの家は津波にあってまだ見つかってない。
今でも信じられない出来事だった。
もう2度とこんな大災害起きませんように。
ご冥福とともに、急に生活が変えられるような出来事がこの先起きないように、お祈り申し上げます。
3.11

April🥀
当時、私は福島県に住んでいた。偶然お休みで家にいて突然きた激しい揺れに訳がわからず部屋の真ん中で揺れる家具を見ながら買ったばかりのテレビを押さえるか、食器棚を押さえるか…考えているけど揺られて動けないでいた。変なもので非現実過ぎて地震の前に何をしていたか思い出せず後から友達に「私と電話してて切った直後に地震だったよ」と言われる状態だった。
幸いライフラインは止まらず普通に生活できたのが何よりだったけど食べ物がなかった!スーパーに行ってもとにかく何も棚に並んでいない。食料確保が本当に大変だった。でも不思議な事に緊急時なのに普通のチョコレートは全く無いのにホワイトチョコレートは大量に余っていて棚から溢れていた。近くのコンビニも閉まったまま。他県に住んでいる友人達がカップラーメンやお菓子など食料を送ってくれた事に今でも感謝している。
テレビは津波の映像とACのCMが延々と繰り返し放送される。ある日、急に息が苦しくなり動悸がして耐えられなくなった。救急車を呼ぶのも気が引ける…行ける範囲の病院に電話してもどこも出ない。やっと初めての病院に電話が繋がり症状を話すと「すぐ来てください」と。タクシーで行くと不安や恐怖心からの過呼吸ですねと言われた。ニュースで地震や津波の映像は観ないでくださいと言われてお薬を貰った。お会計の時ポカリスエットとカロリーメイトを渡されて「大変だけど頑張ろうね。苦しくなったらまた来てね」と言われ優しさに泣いてしまった。それを知った友人達が電話をくれてグループ通話で繋げたまま何人かで話して時間を過ごす事が増えた。放射能漏れが始まった時も色んな情報が飛び交って混乱。そんな中、上の階の人が呑気にお布団を干しているのを見て笑ってしまった。自分が精神的にキリキリして情報に振り回され過ぎているんだなー…と。お医者さんをしている友人から「平均的に人が生涯レントゲンを受ける放射能の値の方がはるかに高いから、あまり気にしなくて大丈夫」と言われて安心も出来た。公的機関に勤めている友人に聞いたら「今◯◯県から避難してきたけどガソリンがなくなったから駅前に入れにきてくれ」「公用車のガソリンを回してくれ」と電話が鳴りっぱなしで対応が大変だったそう。もう色んな人間性や欲があからさまに出ている毎日だった→


お気楽じーさん
阪神淡路大震災
大阪で一人暮らし中だった
目が覚めたが早い時間だったので
二度寝しようと思っていたら
彼女(現ヨメさん)から
「大丈夫?」の電話が入った
完全に覚醒笑
TVをつけると大きな地震だったことが分かった
交通が麻痺してるようなので
バイクで出勤することにした
会社には3人ほどしかいなかった
電車、バスが動かないので
ほとんどの人が出勤出来ていなかった
職場のTVを見ていると
次々と被害の大きさが判明して来た
阪神高速が倒れていた
親戚も友達もほとんどが神戸に暮らしている
心配になって
所長の許可をもらいバイクで神戸に向かう
途中道路が寸断されていて
迂回に迂回を重ねた
警官の静止を振り切り
50センチほどの段差を飛び越えた
普通なら1時間半あれば
余裕で行ける距離だったのだが
5時間かかった
20時過ぎ
真っ暗闇
これは夜ではない闇だ
怖い闇だ
電気が消えた家々には
明かりの一粒もない
完全な闇
公園に火が見える
ホッとする
近づくと大きなドラム缶に木材を投げ入れていた
〇〇家の人いますか?
今、小学校の方に行ったよ
探して叔父を見つけた
親戚たちは無事らしい
良かった
友人たちのことも気になるのだが
確認して回る余裕がない
昔、付き合った彼女の家だけを見に行った
完全に潰れていた
無事を祈り帰宅することにした
大阪に近づくにつれて
ポツポツと明かりが見えるようになった
人工的だけれども暖かい明かり
私はあの自然の闇の怖さを一生忘れることはないだろう

kawasemi☯
これからも平和な日々が続くことを願います。
この日、多くの友達も被災し、電話では、電車が突っ込んでくるような音がしたら揺れたと言っていました。
まだ携帯電話もなく、連絡がつかない友達に心配していたことを覚えています。
別の友達は、急に帰ってきて、急に人を助ける仕事をすると言って、勝手に転校し、その後、人を助ける仕事に就いたのですが、自ら命を絶ちました。
自分の友達が倒壊した建物の下敷きとなり、何もできなかったことから、自分にできることを探したそうです。
どんな事でも真剣に受け止め、考える前に行動する性格でした。
いつも、大きな災害が起こると、今まで見えなかったことが見えてきて、変化が起こります。
日本が防災に関して行った事としては、耐震の見直しでした。
阪神・淡路大震災は倒壊家屋による圧死が被害を大きくしました。
そのほかの地震では、
関東大震災では火災による被害が大きく、様々な防火対策が見直されました。
中越地震では、地震後のエコノミークラス症候群による被害取り上げられ、避難所の運営が見直されました。
東日本大震災では、津波による被害が大きく、各マニュアルが見直されました。
能登半島地震では、ライフラインや道路の確保が問題となり、今、いろいろ変わってきています。
周りが、このように進んでいる中、自分としては、非常用の食料をいつでも準備するようになり、何かあっても、少しは生き延びられるようにしました。
そして、いつも翡翠に、みんなの平和を願っています。
これを読んでいる方も、ずっと平和が続きますように🍀
#翡翠


とも
3月11日 火曜日です。2011年のこの日、14時46分頃、 東日本大震災が発生しました。 三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震で、発生時点では日本周辺における観測史上最大の地震でした。揺れだけでなく、この地震に伴って発生した大津波は甚大な被害をもたらしました。
この年に生まれた人がもう14歳なんですね…。
当時の映像がYouTubeなどの動画サイトですぐに見つけることができます。スマホもすでにありましたよね。視聴者がカメラを持っている、そういった意味で現代の大地震と言えるのではないでしょうか。
春と呼ぶには少し寒すぎるこの季節ですが雪のちらつく当時、様々な被害の話が話題に上がりました。ここで個別の例について触れませんが、当時テレビで被害不確定、事態は悪くなるばかりのニュースや気味の悪い避難勧告のニュースを繰り返し見ていました。
誰もが知る国民的スポーツ選手が、現実のありように苦しんだり、現役生活の続行を悩んでいたように聞いています。テレビで聞いたこんな話から想像できることは、広い範囲で多くの被災者が、想像もつかないそれぞれの苦難と向き合い続けてきた、ということです。
自然災害のあるなしに関わらず、殆どの人がそれぞれの困難に向き合っていると思います。
そんな中にあっても、誰かを助けること、自分が生き残ることについて、また復興のあり方について、このような日をきっかけに再度考えることが大事のように思います。
私たちの優しさが、いつか知らない誰かの助けになりますように。まずは備えからですかね!

老害
このメールを配信した中には、被災されている方が多数いると思います。
直接的な力にはなれないですが、
私自身、都内から自宅のある埼玉まで徒歩で8時間かけて
帰宅して、実際の東北の方に比べる程のものではないですが被災の怖さを感じました。
さて、先日は咄嗟のメールだったので、返信しなくても大丈夫ですからね。
会社は大丈夫です。揺れは大きかったですが、今のところ大きな事故・怪我の連絡は入っていないです。
本当は週明けに全員に送ろうと思っていたメールです。
こんなことくらいしか出来ませんが、履歴書とESをお送りします。
ただ、非常に厳しい条件をつけさせていただきます。
その条件とは1点だけです。
書類選考を希望される方は、添付の専用履歴書とエントリーシートをご確認いただき、
3月15日(火)消印有効でその2枚をセットにし、下記までご郵送ください。
直前に説明会へ予約が出来た場合は、ひとまず書類持参でお越しください。
会場で通り一遍等の説明・指示はします。
その指示が難しい場合は・・・その先は言う必要ないですよね。
自分で考えてみてください。
皆様にも言いたいこと、不満があるのは重々承知していました。
全部ではありませんが、私も様々な心の奥にある声を見て・聞いています。

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