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#朗読の行方(ゆくえ)
その顕著な例が、母がプロテスタント信者となって息子と娘をその方向で英才教育しようとしたことに現れている。宗教はホモサピエンスへの人間の進化を促すための装置を担っていて、それは現代においてほぼ役割を終えているから、もはや過去の遺物なのに、幸福の根拠をそこに縋りつくしかなかった母は典型的な貧しい教養のない貧民だ
今では分かる。自分自身も毒親に育てられた母は、子どもを正しく育てる方法論としての無償教育リソースを宗教に求めた。私からすれば、それが例の安倍総理殺害犯のような宗教でなくて良かったと思う。この母について語り始めると、前後編で伝記小説が出来上がってしまうのと、大量の注釈資料を列挙せざるを得ないので割愛する
父は自分の幸福を
人生に見つけられなかったのだろう
もし幸福なら家を出なかっただろうし、最後は家族に看取ってもらったとはいえ、晩年の生活は家族との生活の場を捨てて、一人でワンルームマンションに暮らし、持病を抱え、事故を起こしてタクシードライバーを辞めざるを得ず、早朝の清掃の仕事等で食いつなぐだけの孤独な人生へと追いやられはしなかった
死後、遺品整理に父の部屋に入ったとき、コンビニか何かで買ったのであろう「笑える本」という身も蓋もないタイトルの薄っぺらな文庫サイズの本が置いてあったのを覚えている。父なりに、自分の人生や生活を好転させるために、小さな幸せのようなものを模索しようとしていた形跡のひとつと捉えているが...私はそれを見たとき、独りの人間として父に同情した
私は父を悪人と思えない
母もたいがいだ
幼少期の子どもたちに暴力をふるったのは、父だけでなく母もだ
子ども三人を抱えて生きていく事そのものが、この二人にはとてつもない重荷で、幸福を感じられず、生きる精神的な支えを欲しながらそれでも投げ出さず、酒や煙草、宗教に頼りながらどうにかこうにか生きていた
ただそれだけだったのだと思う

Happiness Does Not Wait
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#朗読の行方(ゆくえ) 投稿者
何故、父が私への手紙には「ごめんなさい」と書いたのか それは多分、彼が少なくとも子どもが成人するまではどうにか家族という体裁を維持しようとしていたからではないかと思います 子は親のかすがい。父と母の関係がとっくに崩壊していても、親はせめて子どもが巣立つまでは自分の責務を全うしようとする。それが叶わず、私が高校を卒業するあたりで家出をしてしまった事に対する謝罪だったのだと捉えています
❃シエル❃
「笑える本」に グッときました やるせ無さと ある種の自責さえ感じてしまう けれど、親子とはいえ どちらも人生を肩代わりすることなど出来ず 修正も出来ぬ果ての末路… 受け止め難きを受け止めなくちゃならない そんな思いをタイトルに重ねてしまいました
海
私は良い父親ではなかった。 亡き父は私にとって良い父親だったと思う。 母は子供の頃から苦労して、家族や人の為に生きた人だった。 だから私は私が嫌いだった。 こんな奴みたいな人間にはしたくない。 その思いから私は子供には厳しかった。 あまりにも親が凄いと子供としては超えられないと思ったのもあると思う。 親の教え、生き様や愛情すら、子供にとって深い所に沈んだ呪いにもなると気づいたのがここ数年。 どんな親も素人で、最初から子育てが上手な親は居ない。 子供に親にさせてもらっているのです。 親も1年生なんだから間違う事は沢山ある。 だから私は再婚する気がなかった。 2人の子に申し訳ないから。