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れい
風邪の日(1月9日 記念日)
1795年(寛政7年)のこの日(旧暦)、横綱・谷風梶之助(たにかぜ かじのすけ)が流感(りゅうかん)で現役のまま亡くなった。
35連勝のまま、44歳で死去した。「流感」とは「流行性感冒(りゅうこうせいかんぼう)」の略で、インフルエンザウイルスを病原とする「インフルエンザ」のことである。当時、流感は江戸全域で猛威を奮っていた。
谷風梶之助(1750~1795年)は、陸奥国宮城郡霞目村(現:宮城県仙台市若林区霞目)出身の元大相撲力士。本名は金子与四郎(かねこ よしろう)。
谷風は、亡くなる10年ほど前に流感が流行している時に、「土俵上でわしを倒すことはできない。倒れるのは風邪にかかった時くらいだ。」と語ったことから、この時に流行した流感は「タニカゼ」と呼ばれた。
死因となった流感は「御猪狩風(おいかりかぜ)」と呼ばれたが、後に「タニカゼ」と混同されるようになった。これらのことから、インフルエンザのことを「谷風」と呼ぶ場合がある。
「雑学ネタ帳」より
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ボーノ
明日は…1月9日ッ!木曜日ッ!
さぁ~行こうッ!
「クイズの日 / とんちの日」
とんちが利いたことで知られる一休さんから【いっ(1)きゅう(9)】の語呂ぉ✊合わせにちなんで記念日が制定されておりますッ!一休さんの名は、一休(いっきゅう)宗純(そうじゅん)といい、室町時代中期に実在した臨済宗の僧で「屏風の虎退治」「このはし渡るべからず」などの逸話が紙芝居や絵本の題材としてよく取り上げられている…。 が…歴史家などにより一休宗純に関するとんち話は江戸時代の創作がほとんど とする説が有力とされており、実際の一休宗純は修行を経て悟りを開くも、お寺からの認可証を捨ててしまうような僧でありながら、70歳を過ぎて20代の女性と同棲するといった記録が残っており、破天荒で自由奔放ながら、聡明な人物であったことには違いないとの認識が歴史家の間では囁かれておりますッ!…と。
おぉ〜🤩一休さんッ!!なんかおもろい人やったんちゃうかぁ〜ッ!ロックスターみたいやんw…アニメの印象とは違うなぁ〜w…歴史家の見解は、結構、人間臭さを感じるなぁ〜(笑)。
これは…映画できるんちゃう!?
2つ目は…「風邪の日」
寛政7年1月9日、大相撲力士で第4代横綱の谷風(たにかぜ)梶之助(かじのすけ)がインフルエンザで現役のまま亡くなったことへの追悼の意から記念日が設けられた…。新暦1795年2月19日、インフルエンザが流行っていた際に、谷風自身が、土俵上でわしを倒すことはできない。倒れるのは風邪にかかった時くらいだ。と語っていたことから、その時に流行した流感はタニカゼと呼ばれました。
風邪の日に制定されている1月9日の前後は新種のインフルエンザが猛威を振るう傾向にあるッ!と…。今年もまだ…流行ってますよね!!気をつけようッ!!あと…おっと出ましたッ!
語呂ぉ✊合わせッ!
「一番くじの日」
2003(平成15)年に発売されたハズレなしのキャラクターくじの一番くじから【一(1)番く(9)じ】の語呂ぉ✊合わせにちなんで制定された!と…。
ん〜…一休さんと飲んだら🍺…楽しそうッw
人生経験豊富な話をしてくれそうやなぁッ🤩w
そんな夢…見れたら最高やのにッ💘
明日も良い1日をッ!おやすみなさい…。
#今日の夜空#明日は何の日気になる日
#ひとりごとのようなもの
#今日はまだロックの日









ロックンロール

PK89
大阪は晴れ時々曇り
7℃の予報
ところによっては雪みたいですね
今日は風邪の日らしいです
江戸時代に流行った流感というもので
横綱、谷風梶之助が亡くなったとか。
「流感」とは「流行性感冒(りゅうこうせいかんぼう)」の略で、インフルエンザウイルスを病原とする「インフルエンザ」のことである。
当時江戸時代で猛威を振るっていたらしい。
先日テレビで言ってましたが
インフルエンザの感染率が
まだピークを迎えていないとか。
それなのに患者数が多すぎて
インフルエンザの急激な流行拡大にともない、沢井製薬は7日、治療薬「タミフル」のジェネリック医薬品について、製造が追いつかないとして、一時的に供給を停止すると発表しました。
と、こんなことになってます。
聞いた話では会社や学校を休めない人が
無理して出勤通学してるとか。
皆さんくれぐれも気をつけてください。
自分を守るのももちろんですが
人にうつさない事も心がけましょう。
皆さん本日も素敵な1日を。


れい
振袖火事の日(1月18日 記念日)
1657年(明暦3年)のこの日(旧暦)、「明暦の大火」と呼ばれる江戸時代最大の火事が発生した。
死者は10万人を超え、江戸城天守閣が焼け落ちたほか、多数の大名屋敷、市街地の大半が焼失するなど、江戸中を焼き尽くすほどの大火事であった。明暦の大火(1657年)・明和の大火(1772年)・文化の大火(1806年)は江戸三大大火と呼ばれる。
明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』(1814年/文化11年)
言い伝えによると事の起こりは3年前。商家の娘おきくが偶然見初めた若衆に恋いこがれるが、恋は叶わず明暦元年1月16日、16歳で亡くなった。彼女の紫ちりめんの振袖は質屋、古着屋を介して2人の娘に渡るが、いずれも1月16日に亡くなってしまう。
供養を頼まれた本郷丸山の本妙寺ではわざわざ因縁の16日を外して18日に供養すべく振袖に火をつけたが、突然吹いた強風により空に舞い、本堂に飛び込み、火が広がってしまった。それが江戸中を焼き尽くす大火の原因となったという。
大火の火元については、上記のような「振袖火事」とも呼ばれる「本妙寺失火説」、江戸の都市改造を実行するため幕府が放火したとする「幕府放火説」など諸説ある。
「雑学ネタ帳」より
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れい
咸臨丸出航記念日(1月13日 記念日)
江戸幕府の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」が、江戸品川沖を出発したのが1860年(万延元年)の今日(旧暦1月13日)とされる。
その咸臨丸には、勝海舟(艦長)・福澤諭吉・中浜万次郎(ジョン万次郎:通訳)らの遣米使節が乗っていた。日米修好通商条約の批准書の交換が目的であったが、日本人初の正式な太平洋横断航海でもあった。また、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに到着した日は同年の旧暦2月26日で、その日は「咸臨丸の日」となっている。
咸臨丸は、木造でバーク式の3本マストを備えた蒸気コルベットであった。「咸臨」とは古代中国の書物『易経(えききょう)』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。
その100年後の1960年(昭和35年)に発行された日米修好通商百周年記念切手のうち、咸臨丸を描いた切手である。
「雑学ネタ帳」より
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れい
新選組の日(3月13日 記念日)
新選組にゆかりのある東京都日野市のNPO(特定非営利活動)法人・日野市観光協会が制定。
1863年(文久3年)のこの日、京都・壬生に詰めていた武芸に秀でた浪士達で構成された新選組の前身「壬生浪士組」に、陸奥国会津藩主で京都守護職の松平容保から「会津藩預かり」とする連絡が入り、新選組が正式に発足した。
もともと壬生浪士組は、清河八郎の提案で、事件が頻発している京都の警護に当たるために幕府が江戸で募集をしたものである。1863年2月に江戸を出発したが、京都に着いた途端、清河が壬生浪士組の目的は尊皇攘夷だと言い出したため、浪士組は空中分解してしまった。
まもなく幕府の帰還命令を受けて清河ら209名は江戸に戻ったが、近藤勇・芹沢鴨・土方歳三・沖田総司・山南敬助・永倉新八・井上源三郎・斎藤一ら24名はそのまま京都に残留した。松平容保の配下に入り、9月に隊名を「新選組」と改称した。その後、約4年間にわたり、京都で尊皇攘夷派・倒幕派の弾圧を行った。
記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。日野市は新選組副長の土方歳三や六番隊組長の井上源三郎らの出身地であり、新選組の故郷である。この歴史・文化を郷土の誇りとして、意識おこし・まちおこしにつなげ、市全体の活性化を目指している。
「雑学ネタ帳」より
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Age of Consent

れい
「平成」改元の日(1月8日 記念日)
新しい元号「平成」が始まった日。この日は「平成スタートの日」や「平成はじまりの日」などとも呼ばれる。
1989年(昭和64年)1月7日の昭和天皇の崩御をうけて、皇太子であった明仁(あきひと)親王(現:上皇)が新天皇に即位された。それと共に元号が「平成」と決定した。
当時の内閣官房長官だった小渕恵三(おぶち けいぞう)が、記者会見で「平成」の元号が書かれた台紙を公開した。そして、翌日の1月8日より「平成」がスタートした。
小渕官房長官が「新しい元号は、『平成』であります」と言いながら、官僚・書家の河東純一(かとう じゅんいち)の揮毫した新元号「平成」を墨書した台紙を示す姿は、新時代の象徴とされた。
※揮毫(きごう:毛筆で文字を書くこと)、墨書(ぼくしょ:墨で書くこと)
新元号「平成」を発表する小渕官房長官(1月7日、首相官邸)
「平成」の由来
「平成」は「大化」以来、247番目の元号。中国の歴史書『史記』五帝本紀の「内平外成」(内平らかに外成る)と、中国最古の歴史書『書経』大禹謨の「地平天成」(地平らかに天成る)の言葉から「平」と「成」の字が選ばれた。「国の内外にも天地にも平和が達成される」という意味である。
江戸時代最末期、「慶応」と改元された際の別案に「平成」が有り、出典も同じ『史記』と『書経』からとされている。
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れい
桜島の日(1月12日 記念日)
1914年(大正3年)のこの日、鹿児島県の桜島で、史上最大の大噴火が始まった。
この大噴火は通称「大正大噴火」と呼ばれ、その後約1ヵ月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され、多量の溶岩が流出した。一連の噴火によって死者58名を出した。
流出した熔岩は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで距離400m・最深部100mの海峡で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。
また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、軽石などを含む降下物は東京ドーム約1600個分の約32億トンに達した。
噴火によって桜島の地盤が最大約1.5m沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認された。この現象は桜島北側の海上を中心とした同心円状に広がっており、この中心部の直下、深さ約10kmの地中にマグマが蓄積されていたことを示している。
「雑学ネタ帳」より
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れい
飛行船の日(1月22日 記念日)
1916年(大正5年)のこの日、初の国産飛行船である陸軍の「雄飛号」が、所沢(埼玉県)~大阪で実験飛行を行った。
「雄飛(ゆうひ)」は、大日本帝国陸軍の軍用航空船である。実験飛行は途中、中間点の豊橋(愛知県)に着陸してのものであった。所要時間は合計11時間34分。なお、所沢への帰還飛行は機関不調のため行なわず、機体を分解し陸送された。
「雄飛」の主要諸元は以下の通り。様式:軟式パルセバール、容積:1万m3、重量:8.1t、全長:85.0m、全幅:15.5m、全高:22.5 m、乗組人員:6~12名、巡航速度:57.6 km/h、最大速度:68.4 km/h、昇騰高:2.5km、最大航続時間:20時間。
同機が製作された埼玉県所沢市ではこの雄飛を記念して作られた焼き菓子「雄飛焼き」が販売されている。「雄飛焼き」は、1930年(昭和5年)に「帝国優良品大審査会壱等賞金牌」を受賞しており、昔と変わらぬ素朴な味で所沢名物となっている。
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れい
都バス開業の日(1月18日 記念日)
1924年(大正13年)のこの日、東京市営の乗合バスが営業を開始したことを記念して東京都交通局が制定。
前年の1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災により、東京市が運営していた東京市電は大打撃を受け、復旧には相当な期日がかかることが見込まれたため、市電の代替輸送機関として乗合バスが導入された。
最初に開通したのは「巣鴨駅から東京駅」「中渋谷駅から東京駅」の2系統であった。バスはT型フォード11人乗りで、「円太郎バス」という愛称で呼ばれた。これは車体が明治初期の「円太郎」と呼ばれていた乗合馬車を連想させたことに由来する。
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